第35話 祭りは、明日
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
雪の残る尾根が、幌の後ろへ小さくなっていった。
山を下りて二日目、街道は草の生えた丘陵へ出た。地図に記された要塞都市の跡は見当たらない。畑も墓地もなく、道の両側を同じ丈の草が覆っている。
エドガーは、山の番人から預かった次の宿場への伝言を確かめてから、地図を畳んだ。
「百年前には、ここに街があったらしい。魔法使いの国の前線だとさ」
「ヘクセライか」
「知ってるのか?」
「名はな。ここへ攻め入ったことはない」
フレイアの父が率いた軍と、人間の軍が戦った土地だった。
草の下に何が残っているか、馬車からでは見えなかった。
道が丘を回り込む先に、白いものが溜まっていた。
低い雲にも見えたが、草を寝かせる風が吹いても動かない。
「また天気が崩れるのは御免だぞ」
「止まれ。あれは霧に似せた魔法だ」
エドガーは、二頭を十分手前で止めた。
フレイアが足を下ろすと、後ろから縄を渡される。
「調べるなら、これを持ってけ」
「迷子の幼子ではない」
「迷わねえと分かったら笑えよ」
車輪へ結ばれた端を見て、彼女は縄を受け取った。
白い境へ近づくにつれ、足音が遠くなる。
湿り気はない。伸ばした指を、冷たい水ではなく、誰かの袖がそっと撫でたようだった。
術式の繋がりを探る。細い線が幾重にも重なり、内と外を別の場所として扱っている。城壁の防御ではない。何かを、外へ触れさせないための仕切りに思えた。
「どうだ?」
真後ろからエドガーの声がした。
振り返ると、荷馬車がすぐそばにいた。
「動かしたか」
「動かしてねえよ。お前が戻ってきたんだろ」
縄は短く垂れていた。歩いてきた距離だけ、地面に余っているはずだった。
フレイアは彼の肩越しに道を見た。
帰る方角にも、同じ白さがあった。
「馬を動かすな」
声を鋭くすると、シリウスが耳を伏せた。
縄を辿り、車輪へ戻る。魔力を足元へ細く伸ばすと、数歩先で線の感触が折り返してきた。距離だけではない。ここから外だと考えた場所を、内側へ繋ぎ直されている。
強く裂けば抜けられるかもしれなかった。だが向こうに何があるか分からぬまま、力を放つ気にはなれない。
ワードレアで倒れた梁が、思い出の中で軋んだ。
「入口を確かめるつもりだったのだがな」
「もう入ってたってことか」
「そうらしい」
エドガーは文句を飲み込み、手綱を持ち直した。
彼女は馬の前に立った。左右へ分かれる術の線のうち、片方にだけ、人の声に似た揺れが伝わっていた。
「勝手に方向を変えるな。我の声についてこい」
「そっちも消えるなよ」
縄は、二人の間に張ったままにした。
白さが途切れた時、最初に戻ったのはパンの匂いだった。
次に鳥の声。花壇を囲む低い石垣。その向こうに、屋根を寄せ合った街があった。
崩れていない城門の上から、兵士が手を振っている。
「旅の方ですか。ようこそ!」
「外の霧は何だ」
「霧? 朝はよく出ますよ。もう晴れましたね」
兵士の指す空は青い。振り返ったフレイアの背後には、薄い白さを残す草原しかなかった。
門を抜ける敷石には、消えかけた円がいくつも刻まれていた。車輪がそこを通った時だけ、足の裏が軽くなった。
「ここはヘクセライか」
「終わらぬ国ですよ」
兵士は笑って答えた。
「この平和が、いつまでも続きますように。そういう名です」
門の内側で、エドガーは馬車を停めた。
「引き返す道を聞くか」
別の兵士にも尋ねたが、門の外を真っ直ぐ行けばよいと言うだけだった。街道を指す手は、さっき通ってきたはずの草原を向いている。
フレイアは試しに一人で門へ戻った。白いものが視界を横切り、気づけば兵士の背中を見ていた。
「……戻れぬ」
エドガーの顔から、笑いが消えた。
エドガーは荷台の鍵を確かめた。フレイアも門から離れず、町の長はどこにいるのかと尋ねた。
広場では、少女が花の輪を抱えて走っていた。
石畳の継ぎ目に爪先が引っかかり、膝をつく。
「おっと。走ると転ぶぞ、リナ」
パン屋の老人が店先から出て、服の土を払った。
「ありがとう、ガルドおじいちゃん!」
少女は立つと、今度はゆっくり歩いた。気をつけることを覚えた歩幅だった。
その姿を見送って、エドガーが小さく息を吐く。
「少なくとも、今すぐ襲ってくる街じゃなさそうだな」
「それだけでは分からぬ」
「分かってる」
露店で買った果物には、種まであった。
噛むと甘い。だが飲み込んでも、腹へ落ちた感じがしない。
「食い物まで妙だぞ」
エドガーは自分の鞄から乾パンを出した。硬い端を齧ると、今度はきちんと音がした。
「こっちは食った気になる」
フレイアは果物の種を掌に載せた。薄い術の膜が、指の形に沿って揺れる。
「今日は持ってきた物を食え」
道具も、食べ物も、人も、同じ仕組みなのか。まだ確かめられていなかった。
時計塔にいるという長へ面会を頼むと、明日にしてほしいと伝えられた。
塔の扉には幾重もの術式があり、どれも広場の方へ繋がっている。壊せばどこまで傷つくか、表からは判別できない。
宿は塔の見える部屋を選んだ。厩舎の二頭へ持参の飼葉と水を与え、エドガーは車輪に目印をつけた。
荷台の支えを削った時の端材を、一つだけ鞄へ移す。
「それは何だ」
「暇なら何か彫ろうかと。手を動かしてた方が、余計なこと考えずに済む」
「余計なことを考えておれ。この国に限っては」
「両方やるよ」
夕方、窓の下にリナが来た。
「旅の人! 明日のお祭り、見ていってね」
「祭り?」
「光を空に上げるの。一年で一番綺麗なんだよ」
少女は抱えていた輪を、頭の上に掲げてみせた。
その花の一つを、フレイアは昼にも見ている。風に逆らって、同じ方向へ曲がった花弁だった。
「長も来るのか」
「きっと! ずっと待ってる人も来るかもしれないし」
誰を、と尋ねる前に、少女は手を振って駆けていった。
夜、フレイアは眠らずに窓辺へ座った。
エドガーは日付と、霧へ触れてからのことを帳面に書いている。明朝は塔の術を詳しく調べる。二頭の様子も、交代で見ることにした。
広場の時計の針は、ずっと同じ場所にあった。
夜半、街の音が一斉に止んだ。
フレイアは立ち上がった。窓枠へ伸ばした手が、わずかにずれる。瞬きをした覚えはないのに、次には陽が床を照らしていた。
「あいたっ」
下から声がした。
リナが、昨日と同じ継ぎ目で転んでいた。
ガルドが出てきて、同じ側の膝を払う。
窓を開けたフレイアへ、少女が顔を上げた。
「旅の人! 明日のお祭り、見ていってね」
後ろでエドガーが身を起こす。
「今日じゃなかったか?」
「違うよ」
リナは、不思議そうに首を傾げた。
「お祭りは、明日だよ」
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