第31話 声が必要な夜
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
フレイアは、開いた頁を女へ向けた。
「この式を使ったのか」
女の視線が、一度だけ本棚へ逃げた。
「手紙のことなら、もう心配はいらないわ」
「何をした、と聞いておる」
地下室にいた老人が、女の袖を引いた。何かを確かめるように顔を覗き込む。女はその手を外した。
「検閲を止めるの。あの手紙で」
「手紙一枚でか」
エドガーが近づいてきた。フレイアは頁の印へ指を置く。
「封を切った後、時間を置いて外の魔力へ反応する。インクを浮かべるための仕組みだ。その先に、別の術をつなぐ余地がある」
女は答えなかった。
エドガーが、二人の間へ立った。
「白紙の下に何を隠した」
「……解析台を壊す術よ」
「人が触る台だろ」
「夜なら窓口は閉まっている。中央の陣が止まれば、手紙を選別できなくなる」
「夜勤の職員は?」
老人の声だった。女はそちらを見なかった。
フレイアは本を閉じた。描かれた仕組みは、魔力を吸い込んで破壊へ転じるものだった。どれほどの威力になるかは、吸う相手の大きさで変わる。女が知っている量と、実際の郵便局に蓄えられた量が同じとは限らない。
「国の中心にある陣へ触れれば、台だけでは済まぬかもしれん」
「だから、それを――」
「封を切って、何時間だ」
エドガーが遮った。
「八時間。中央で開封されてから、夜の検査に――」
「正午に開けたと言ったろ。もう八時間近い」
女が口を開けたまま止まった。
壁の小さな時計を、全員が見た。針は八時へ近づいていた。
「どうして」
「あんたらが何を持たせたか知らねぇからだよ!」
声が天井へぶつかり、フレイアの耳にも響いた。
女は両手を重ねて握った。
「そのまま、渡してくれれば――」
「俺が開けなくても、人がいる所で爆発させるつもりだったんだろ」
老人が椅子を引いた。壁にいた若い男も、入口を見ている。女へ差し出された手が、一つ下がった。
「ここへ、旅人を呼ぼうと言ったのはあなたよ。話してお礼を言えるって」
女が老人へ言った。
「何をしたか隠すためとは聞いておらん」
老人は立ち上がった。足元がふらつき、椅子の背に手を置いた。
「止められるか」
フレイアは出口へ向き直った。
「紙がどこにあるか分かればな。ここにはない」
「リカルドは、下の階へ行くはずよ」
女が、誰にともなく言った。
エドガーが振り向く。
「局長のことか」
「夜の引継ぎには下へ行くの。いつも。だから」
「知り合いなのか」
「夫よ」
地下室が静まった。
女は顔を上げなかった。握りしめた指の関節だけが白かった。
「話しても届かない。手紙も、書き直せと言われる。何もなかったことにされる。あの人がいる限り、ずっと――」
エドガーは返事をせず、階段を上がった。フレイアが続く。背後で老人が誰かへ、子供を外へ連れ出すように言った。
戸に手をかけた時、床が持ち上がるように揺れた。
通りへ出ると、屋根の向こうの空が赤かった。二人は数本の路地を駆け抜け、広場へ出た。郵便局の窓が赤かった。
破れた窓から紙が舞い、通りへ落ちる前に火を散らした。遅れて低い音が届いた。フレイアは、それが二度目の爆発なのか、床が落ちた音なのかを聞き分けられなかった。
広場の人々は逃げ始めていた。
叫ぶ者もいた。最初の声はすぐ途切れ、振り返る人が重なった。憲兵が札を掲げている。誰もがそれを読もうとして立ち止まり、後ろから人が押した。
「止まるな! 横へ抜けろ!」
エドガーの声で、一人の男が顔を上げた。荷車の取っ手を引き、脇道へ寄せる。それを見て、後ろにいた者も続いた。
フレイアは郵便局へ走った。
入口の梁が下がっている。その下で職員が倒れた人間を引っ張っていた。魔力を伸ばし、梁を受ける。下から持ち上げようとすると、上階の床まで動いた。
力を止めた。
瓦礫をまとめて吹き飛ばせば、下敷きになった者も一緒に動く。梁だけを支え、職員へ手を振った。
「その者を先に出せ。奥に何人おる」
職員は懐へ手を入れた。
「札は要らぬ。声で答えろ」
「し……仕分け、に」
「何人だ」
「分からない」
ようやく出た声だった。
フレイアは奥を見た。煙で目が痛い。魔力の乱れに、人の気配が重なっている。生きた者と、崩れた陣を区別しきれなかった。
「エドガー!」
呼ぶと、広場の向こうで手が上がった。
来い、と言いかけてやめた。彼は子供を抱き上げていた。そちらにも、手が必要だった。
白い制服の男が、脇の扉から這い出した。
リカルドだった。片腕が動かないらしい。壁へ肩を寄せて立ち上がり、広場を見渡した。懐から出した札は半分焼けていた。
フレイアは梁を支えながら、彼の後ろを見た。
「壁から離れろ!」
男は振り返った。上から石片が落ち、足元へ砕ける。彼が身を投げた直後、その場所へ壁の一部が崩れた。
エドガーが走り寄り、襟を掴んで引きずった。
「歩けるか。西の道が空いてる。あっちへ人を流してくれ」
リカルドは、まだ焼けた札を握っていた。
「局長なんだろ。職員の顔、分かるだろうが」
リカルドの口が動いた。声は出なかった。
広場で泣く子供がいた。母親らしい女が、名前を呼ぼうとして何度も息を吸った。憲兵の顔を見ていた。
「ここで喋っても、捕まらねぇって言え!」
エドガーはリカルドの肩を揺すった。
男が咳き込んだ。
「西……西の道へ」
近くにいた憲兵が顔を向けた。
「西へ誘導してください。声を出して構いません。負傷者がいます」
「許可を、記録に――」
「後で私が書く。今は運べ!」
そこで初めて、男の声が通った。
憲兵が振り向いて叫んだ。もう一人が、紙ではなく手で道を示した。子供の母親が名前を呼び、エドガーの腕の中から、小さな返事があった。
火が弱まっても、フレイアは梁から手を離せなかった。
誰かが水を運んできた。飲め、と言われる。手が空かないと答えると、杯を口元へ寄せられた。水には煤の味がした。
最後の担架が通るまでに、空が白くなった。
奥には、まだ人がいるかもしれない。そう言う職員へ、フレイアはどの床が落ちたかを示した。支えを増やして、捜せる場所を一つずつ広げるほかなかった。
広場では、二枚の紙に名前が書かれていた。
助け出された者と、探している者。
エドガーはその横で、別の職員に話していた。
「投函したのは俺だ。昼過ぎ。封を開けたのは、その前だ」
女のことも、地下室のことも話した。先払いの金貨を出す時、指が止まった。それでも袋を机へ置いた。
遠くから、犯人を知りたいという声がした。
フレイアは梁の下を見ていた。昨日なら紙に書かれるまで届かなかった怒りが、今は広場の端まで聞こえていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
続きも読みたいと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




