第30話 言の葉の会
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
少年は宿の近くまでついてきた。
フレイアが立ち止まると、道の反対側で靴紐を直すふりをする。エドガーはそれに気づいていたらしい。財布のある外套を押さえ、少年が隠れた木箱へ視線を送った。
夕方の市が片づけられていた。店先の子供が、まだ帰りたくない様子で母親の手を引く。母親は冊子を開き、子供の目の高さへ下げた。
『明日、また来ましょう』
子供は首を振った。
母親は冊子をしまい、しゃがんで子供の頬の汚れを拭った。しばらくその顔を見つめてから、立ち上がる。今度は小さな手が離れなかった。
母子を見送っていると、腰へ何かがぶつかった。
例の少年だった。
深く頭を下げ、掌へ紙を押し込んでくる。フレイアが袖を掴むより早く、後ずさりした。
エドガーが財布を確かめる。なくなった物はなかった。
紙には、短い文が書かれていた。
『投函した手紙について、話があります』
その下に住所と略図がある。検閲の印はなかった。
フレイアが顔を上げると、少年は路地の入口にいた。待っているのか、逃げるつもりなのか。こちらと憲兵のいる通りを交互に見ている。
エドガーは地図を確かめ、フレイアへ返した。
手紙のことを、二人以外にも見ていた者がいた。
宿へ戻り、馬車を出した。
主人は出発かと札で尋ねた。エドガーが首を振って部屋の鍵を示すと、主人は不思議そうな顔をしたが、厩舎の戸を開けた。
夜の街道へ出る前に、少年が路地から現れた。御者台へは乗らず、少し先を歩く。途中で何度も角を曲がった。エドガーは追いつきすぎないよう、馬を歩かせた。
着いたのは、窓を板で塞いだ民家だった。表の戸には『空き家』の札が掛かっている。少年は裏へ回り、戸を三度叩いた。
中から女が顔を出した。二人を見、馬車を見、それから少年の肩を押して先に入れた。
『街道の仲間から聞いています』
女が示した紙を、エドガーは長く見た。フレイアが頷くと、彼は馬を繋ぎ、荷台の覆いを確かめた。
家の中は暗かった。女は床の蓋を開き、先に階段を下りた。二人が続くと、頭上で蓋が閉まった。
狭い地下室に十数人が集まっていた。
壁には防音の術式がある。フレイアは継ぎ目を見た。何人かが書き足した跡があり、形の揃わない部分を重ねて補っていた。
「ここなら、話せるわ」
女が言った。
エドガーは階段を振り返った。
「合法の部屋じゃ、ないんだろうな」
「見つかれば、ここにいるだけで捕まる」
女は水を飲み、杯を脇へ置いた。声は低く、ところどころ掠れていた。壁際の老人が椅子を一つ引き、二人へ勧めた。
「何の集まりだ」
フレイアが尋ねた。
「言の葉の会。自分の言葉で話したい者が来る」
女が答える。隣の若者が何か言いかけ、女の声と重なった。二人とも口を閉じる。
老人が手を振った。
「どっちか、先に」
若者が女へ譲った。たったそれだけのやり取りに、妙な間があった。
「最初は、昔の歌を覚えている人が集まったの。忘れる前に、誰かへ教えたくて」
「それだけなら、俺たちを呼ぶ必要はねぇな」
エドガーは座らなかった。
「手紙は何だ。あの男は、あんたらの仲間か」
「ええ。白紙の手紙を運んでもらった」
女が言ってから、口を閉じた。
エドガーの目が細くなった。
「白紙なのは知ってる。俺が開けた」
女は杯へ手を伸ばしかけ、そのまま下ろした。壁際の若者が顔を上げる。
「いつ?」
「宿でだ。それより、何で俺たちに入れさせた」
女は二人の顔を見比べた。紙に書かれた手順を確認するように、指先を膝へ揃える。
「国民の手紙は、地域の窓口で差出人と内容を確かめられる。外から来た人の青印は、中央へ送られるの」
「中央でも検査される。門で説明されたぞ」
「そう。外国の術式や言葉を扱える職員がいるから。地域の検閲を省くだけで、無検査ではないわ」
「中央へ持ち込むことが目的だったわけか」
女は頷いた。
フレイアは、昼に封を切った時の光を思い出した。女は開けた時刻を知りたがった。街道の男は開封を禁じなかった。中身が違法なら戻す、とエドガーは言ったはずだ。
「白紙を、そこで何に使う」
フレイアの問いに、女はすぐには答えなかった。
若者が椅子の端を握っている。案内した少年は階段の下にいた。女の声が途切れるたび、顔を上げた。
「私たちの訴えは、窓口へ出しただけでは届かない」
女が言った。
「何度も書いたの。子供と話す時間が欲しい。名前を呼びたい。書き直すたびに、許可を求める気持ちまで消える文章になった」
「名前を呼ぶだけなら、札でも――」
エドガーが言いかけ、やめた。局長室で同じようなことを聞いたばかりだった。
「その子が転んだ時、怒った時、遠くへ走った時。全部、同じ札を見せるの?」
女の声が強くなった。少年が肩をすくめたのを見て、彼女は息を整えた。
「……大きな声は、まだ怖いのね」
誰に向けた言葉か、フレイアには分からなかった。
エドガーが机へ手をついた。
「話したい理由は分かった。手紙の答えにはなってない」
女は唇を押さえた。
老人が身を起こし、二人の間へ目を向ける。
「この人たちには、どこまで伝えてあるんだ」
女は老人を見なかった。
フレイアは壁際の棚へ歩いた。
歌を書き留めた紙の隣に、古い術書が積んである。防音の式は、その開いた頁から写したものだった。下に、外国の封書術を集めた本があった。
「それには触れないで」
女が言った。
「白紙に、薄い魔力が残っていた」
フレイアは答え、本を引き出した。
「お前が説明せぬなら、こちらで調べる」
頁の端には、何度もめくった手の脂がついていた。封緘の記録。開封者の識別。一定の時間が過ぎるまで文章を見せない式。知っている術と似た名が並ぶが、起点の置き方が違う。
フレイアは宿で見た光の動きを指でなぞった。
切られた封から、紙へ。
文字を浮かべるためだけなら、何故こちらへ繋ぐ。
折られた角を開くと、次の頁の図が現れた。二つの条件を別々に待つ式だった。最初の条件の横には、封を切る図がある。
「エドガー」
呼ばれて、商人がこちらを向いた。
「正午の鐘が鳴っていたな」
「開けた時か? ああ」
女が椅子から立ち上がった。
フレイアは時計を見た。もう、夜だった。
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