第29話 声を許された部屋
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
憲兵が差し出した札には、『口頭会話を確認しました』とあった。
「今のは独り言で――」
「余計に喋るな」
フレイアが言った。
憲兵の視線がこちらへ移る。手元の帳面に線が一本増え、もう一人が別の札を出した。
『二名。初犯につき、矯正処分』
エドガーが口を押さえたままフレイアを見た。
言いたいことは分かる。フレイアは顔を背け、旅人用の冊子から『どこへ行きますか』を探した。
憲兵が示したのは、広場の奥に立つ塔だった。
国制郵便局の正面には、『正しく書けば、争いは起こらない』と刻まれていた。
中へ入ると、ペンの音が重なって聞こえた。長い机に職員が並び、手紙を開け、何かを書き足し、次の机へ送っている。受け取る箱と返す箱が分けられていた。黒く塗られた紙を見た客が、窓口の前で首を振り続けていた。
フレイアはその人の口元を見た。何度か動きかけては止まる。反対側の職員は、『再申請してください』の札を置き直した。
エドガーが領収書の裏へ短く書き、隣へ見せようとした。
憲兵の手が、その紙とフレイアの間へ入った。
『未審査の文章を他者へ提示してはいけません』
冊子の該当箇所が開かれる。
書けば済むわけでもないらしい。エドガーは領収書を握り直した。憲兵は筆談の内容を確かめ、その紙を折って証拠袋へ入れた。
エドガーは奪い返さなかった。
地下では、二人は別々の机へ座らされた。
フレイアの前に、白紙と手本が置かれた。
『私は口頭で会話を行い、他者に不安と誤解を与えました。今後は文章を用い、正確な意思疎通に努めます』
その横に回数がある。
五百。
フレイアは職員を見た。職員は椅子を指し、それからペンを指した。魔法を使えば、この机も壁も壊せる。壊したあとは、宿へ戻って馬を出すだけで済むだろうか。
フレイアはペンを取った。
誤解させた覚えはなかったが、同じ文を書いた。
何十行も書くと、文字の意味が薄くなった。線を引き、点を置く。乾かないうちに次の紙を載せたので、職員に二枚とも返された。
壁の高いところに時計があった。午後の針が少しずつ進んでいる。扉の外では別の足音が止まり、また紙を差し出す音がした。
フレイアは唾を飲んだ。喉が乾いていた。
声を塞ぐ術は、やはり感じられない。それでも口を開く前に、職員の顔を確かめてしまった。
「我は、水を――」
職員が顔を上げた。
フレイアは言葉を止めた。職員は棚から水差しを持ってきて、杯へ注いだ。それから回数札を裏返した。
五百五十。
水を飲み、フレイアは空の杯を置いた。礼を口にしそうになり、また止めた。
夕方近くになって、白い制服の男が入ってきた。
職員は立ち上がり、金色の徽章を見て道を空けた。男の札には、『国制郵便局長 リカルド』とあった。
次の札で面談を求められ、フレイアは書きかけの紙を置いた。
廊下ではエドガーが待っていた。指にインクがつき、右手を何度も開いたり閉じたりしている。二人はそのまま最上階へ連れていかれた。
◆
扉は二重だった。
厚い布の垂れた入口を抜けると、階下のペンの音も聞こえなくなった。リカルドは内側の扉を閉め、壁の術式に触れた。
「お座りください」
エドガーが椅子を引く手を止めた。
「ここでは構いません。口頭面談の特例許可を受けた部屋です」
「俺たちは、その特例のない机で半日書かされてたわけか」
「処分はここで終了にします。旅人への制度説明が不十分だったことも考慮しましょう」
フレイアは座らず、扉を見た。
「同じ部屋を民に使わせればよいのではないか」
「声が外へ漏れなければ安全、という話だけではありません。この部屋でも、話の行き違いがないよう私が確認します」
「貴様の言葉は誰が確かめる」
リカルドは椅子を勧め直した。フレイアはようやく座った。
「外国の方、とりわけ魔族の方にまで御理解いただくのは難しいでしょう。ですが、この国には経緯があります」
リカルドは机の引き出しから古い新聞を取り出した。折り目が裂けないよう、台紙ごと開く。街路の焼けた絵と、相反する見出しが並んでいた。
「内戦の頃の物です。隣の地区が井戸へ毒を入れた、という噂が広がった。その翌朝には報復が始まっていました。確認する者の声は、怒号に消された」
エドガーは新聞へ身を寄せた。
「噂を流した奴を捕まえるんじゃ足りなかったのか」
「一人を捕まえる間に、百人が繰り返す。王はその速さを止めることにしたのです。書かせ、確かめ、必要なら訂正してから届ける」
局長は別の紙を出した。今日の申請らしかった。
『隣家の者は、我が家を焼くつもりだ』
その下に確認欄があり、灰の処分について揉めた経緯が記されていた。
「このまま届けていたら、受け取った家はどうしたでしょう」
「怒るだろうな」
「こちらへ直しました」
『火の始末について、確認を希望します』
エドガーは二枚を見比べた。
「最初から、それで話してくれれば楽だとは思う」
リカルドが頷く。
「だったら、これはどうだ。我は貴様の言い方が気に入らぬ」
フレイアが言った。
エドガーが横を向いた。リカルドは動じず、定型文の冊子を開いた。
「『説明について、再検討を希望します』が使えます」
「再検討してほしいのではない。気に入らぬと言っておる」
「そのままでは、相手を傷つけます」
「傷つかぬように直したら、我が言ったことではなくなる」
リカルドは冊子を閉じず、指を置いたまま答えた。
「その違いを残すために、また争う必要があるでしょうか」
机の上に沈黙が落ちた。
フレイアは、階下で首を振り続けていた客を思い出した。あの者も、言いたいことと違う紙を渡されたのだろうか。まだ、聞いてはいなかった。
「門では、承認された文章を使えばよいと言われた」
エドガーが言った。
「言いたいことが冊子になければ、どうする」
「申請していただきます」
「返事を待ってる相手が、目の前にいる時もか」
「急いだために取り返しがつかなくなるよりは」
局長の手元には、白い紙が何枚もあった。好きなだけ書き直せるのだろう。フレイアは水を求めた時の回数札を思い出した。
リカルドは二人の旅券へ署名し、終了の印を押した。
「お帰りになる前に、規則をもう一度確認してください。次からは、知らなかったという理由にはできません」
呼び鈴が鳴った。リカルドは迎えの職員へ指示札を渡した。扉が開いたあとは、もう話さなかった。
外は夕方だった。
エドガーが口を開きかけ、止める。フレイアも何か言おうとして、巡回の憲兵を見た。二人は一度目を合わせ、また前を向いた。
宿へ向かって歩き出すと、後ろで小さな足音がした。
振り返るたびに、一人の少年が木箱の陰へ姿を隠した。
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