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第27話 酔っても消えないもの

お読みいただき、ありがとうございます。

どうぞ、今回の旅もお楽しみください。

雨が降り始めると、エドガーは迷わず街道沿いの宿へ馬車を向けた。厩舎には先客の馬が三頭いる。空いた房へシリウスとベガを入れ、濡れた革具を外した。フレイアが屋根の下で待っている間も、商人は飼葉の量や蹄を確かめる手を抜かなかった。


「我が乾かしてやろうか」

「毛だけな。熱い風を当てるなよ」

「火にはせぬ」

「そういう心配をするから先に言ったんだ」


 暖かな空気が二頭の背を渡る。シリウスが首を下げ、ベガがまぶたを伏せた。エドガーはその様子を見てから、自分の濡れた袖を絞った。食堂の煮込みは塩が強かった。だが雨の夜に湯気を上げる皿は、それだけで立派な品に見えた。エドガーは二杯目のエールを頼み、フレイアは果汁を受け取った。


「珍しく慎重だな」

「我が酒に弱いと分かっていて、勧める方が愚かであろう」

「毒には強いんだろ?」

「毒と同じつもりで飲んだ。その結果を、貴様も見ただろう」


 エドガーは笑って、ジョッキを自分の方へ引いた。


「今夜は俺が飲んでおく」

「今日話したことを忘れたいのか」


 ジョッキが口へ届く前に止まった。雨音が会話の切れ目へ入ってくる。フレイアは、尋ね方を間違えたかと思った。


「忘れられるほど効かねぇよ」


 エドガーは一口だけ飲んだ。


「飲まなくても忘れることはある。あいつの声も、だんだん曖昧になってる。よく喋る奴だったのにな」

「では、記録を残せばよい」

「書いたさ。好きだったものとか、言ってたこととか。読み返すと、こんな言い方だったかって迷うんだよ」


 フレイアは、何百年分もの記憶を持っていた。そのすべてを同じ鮮明さで覚えているわけではない。父の声より、剣に貫かれた時の痛みが鮮明な日もある。それを彼に話す言葉は、まだ見つからなかった。代わりに、皿の縁に残ったパンを取り上げた。


 雨漏りの雫が、隅に置かれた桶を鳴らした。給仕の娘が窓の鎧戸を閉め、隣の卓では老夫婦が旅程を相談している。静かにしろと言う者はいない。

 エドガーが空の椀をずらすと、その下に丸い濡れ跡が残った。彼は指で縁をなぞり、それから手を引いた。

「今の話、書くのか」

「何をだ」

「俺が喋ったこと。お前、よく書いてるだろ」

 フレイアは懐の冊子へ手をやった。まだ一度も開いていなかった。

「貴様が嫌なら、書かぬ」

「そういうことじゃない。何て書くのかと思ってな」

 彼女は少し考えた。国の名も、二人の名も覚えている。聞いた順に書くことはできる。だが、今この男が何を答えてほしいのかは、分からなかった。

「グラウスの声を、我は聞いておらぬ」

「ああ」

「貴様がどのように話したかなら、覚えておる」

 エドガーは椀から顔を上げた。

「俺、どんな顔してた?」

「鏡を持ってくればよかったな」

「今見ても遅ぇだろ」

 男が短く笑った。フレイアは冊子から手を離し、皿のパンを折った。片方を残った煮汁へ浸す。

「……声まで似せようとしなくてよい。また思い出したら、貴様の声で話せ」

 エドガーは何も言わず、もう片方のパンを取った。


 店主が卓へ来たのは、その時だった。街道の橋が増水しているので、明日は別の道を使えと言う。エドガーは地図を出し、通れない橋へ短い線を引いた。代わりの道を尋ね、店主が指で辿るのを見てから地図を畳む。

「もう一杯、どうする」

 店主が空きかけたジョッキを示した。

 エドガーは少し迷った。フレイアが何か言う前に、彼は自分で首を振った。

「いや。水をもらえるか」

「我には、果汁を」

 フレイアが杯を差し出すと、エドガーが横から覗いた。

「お前の方が、よっぽど飲むな」

「毒液を飲んでおる者と一緒にするな」

「ひでぇ言われようだ」

 商人は残っていたエールを飲み干し、ジョッキを卓へ置いた。

 給仕の娘が皿を下げに来た。フレイアは煮汁へ浸したパンを急いで口へ入れ、空になった皿を渡す。エドガーが笑うので、睨んでやった。

「何だ」

「いや。そうやっててくれ」

 水の杯を受け取った男が言った。

「変に気を遣われると、こっちが困る」

「心配せずとも、貴様を繊細な者として扱う予定はない」

「頼もしいねぇ、相棒」

 フレイアは果汁へ口をつけた。

「勝手に呼ぶな」

「嫌なら、別々の卓にするか?」

 隣の卓はもう空いていた。店主が椅子を戻し、濡れた跡を拭いている。

 フレイアはそちらを一度見てから、エドガーの肘の近くへ寄っていた自分の杯を引いた。

「貴様の場所なら、それで足りるであろう」

 エドガーは肘を卓へ置いたまま笑った。

 店主が空いた卓の灯りを落としに来た。こちらの灯りにも手を伸ばしかけたので、フレイアはまだ中身の残る杯を見せた。店主は頷き、灯りを残して奥へ戻った。

 雨が鎧戸を叩いた。隅の桶へ、また雫が落ちる。フレイアは杯を持ち上げ、さっきと同じ椅子で果汁を飲んだ。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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