第26話 本当の国境、本当の空
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
敵の国へ入る前に、軍服を荷台の底へ隠した。
商人の服は、上着の肩も靴も大きかった。靴だけ元へ戻し、ズボンの裾で識別の印を覆った。道具箱にあった通行証を何度も読む。商会の名と馬車の登録番号は読めた。印章の周囲の小さな字は、知らない言い回しだった。
戦場を避け、荷車の通る道を選んだ。二日目に砦へ着いた。
掲げられた旗に、黒い烏がいた。
エドガーは手綱を引きかけた。故郷の旗と同じ翼。同じ形の頭。ただ、こちらの烏は足に銃を持っている。
「次の馬車」
後ろから御者に促され、前へ出た。
審査官は通行証を眺めてから、エドガーの顔を見た。
「いつもの男は?」
「亡くなりました」
声が詰まらないよう、前もって繰り返していた言葉だった。
「後を継ぎます」
「親子か」
エドガーは頷いた。商人を撃った翌々日に、その息子を名乗っている。
審査官は荷台の番号を照合し、積荷の控えを一枚抜いた。
「次回までに登録所へ後継の届けを出せ。今日はこの荷だけだ」
証書が戻ってきた。エドガーは、通れたことに安堵するのが遅れた。
砦の内側で、監視の兵が二人ついた。
商人の顔を見ず、手元と荷台へ目を走らせる。片方は、エドガーより少し年上に見えた。唇が切れている。水筒へ口をつけたあと、傷を気にするように指で拭った。
「納品所はどちらですか」
「右。勝手に曲がるな」
声まで、同じに聞こえた。
倉庫へ荷を下ろすと、受取係が控えへ印を押した。書類の上端に国名が印刷されている。
アイアン・レイブン。
エドガーは紙を近づけた。
「写しが要るのか?」
「いえ。この国の名前が――」
受取係が眉を上げた。
「名前が、何だ」
「父から聞いた呼び方と違ったので」
「武器の国か。商人はそう呼ぶ。鉄の国と間違えるなよ。荷の行き先が違う」
受取係は次の木箱を指した。
エドガーはそれを持ち上げられず、もう一度持ち直した。
納品の代金は、その場で全額払われたわけではなかった。通行料と保管料を差し引くから待て、と別の窓口へ回された。待っている間、硬貨を掌で裏返した。
同じ王の横顔。同じ縁の刻み。
敵から奪った金だから使っているのかもしれない。旗を真似たのかもしれない。受取係が国名を読み違えたのかもしれない。
説明を考えるたび、目の前の物が一つ増えた。
倉庫の納入簿には、故郷の鉱山名があった。採掘場で見た荷印が、鉄材の束に刻まれていた。送り先にも送り元にも、同じ国名が書かれている。
「戦争で、荷は止まらないんですか」
受取係へ聞いた。小銭を数える手は止まらなかった。
「軍用便の道がある。お前も来ただろう」
「でも、敵から鉄を」
「商売をしに来たのか、説教をしに来たのか」
係が顔を上げ、背後の監視兵を見た。
エドガーは口を閉じた。
宿へ向かう途中、監視兵の一人が掲示板で立ち止まった。
『隣国の侵略から祖国を守れ』
そこには、銃を持った烏が描かれていた。
「徴募ですか」
「お前には関係ない」
「そうですね」
エドガーは、兵の識別札へ目を落とした。自分と同じ順序で番号が打ってある。最初の文字だけが違った。
捕虜と話すな、と教えられた。
危険だからだと言われた。自国の軍人へ引き渡し、すぐ持ち場へ戻れと。
撃った相手の名前も国名も聞かなかった。命令は守ってきた。
掌の硬貨を握りしめる。爪が当たったところだけが痛い。その痛みが、立っているのを助けた。
翌朝、出域する商人の列へ加わった。
町外れで、監視兵は中央の紋章をつけた出域事務官へ書類を渡し、持ち場へ戻っていった。事務官から証書を返され、道を指定された。さらに先に、もう一つ門があるという。
「国境は、入る時に通りましたが」
「何を言っている。あれは東部の軍事境界だ」
事務官は、証書の裏を指した。
「こっちが外への許可。西部で仕入れた荷も申告する。お前の父親は教えなかったのか」
商人の証書には、東部、西部、中央の三つの欄があった。
エドガーはようやく、小さな印の意味を知った。
隣の国へ逃げたつもりだった。
まだ同じ国の中にいた。
どこまでの人間が知っているのかは分からない。監視兵は、エドガーがどこから来たかも気にしていない。武器の国で生まれた者は、鉄の国を何と教えられるのだろう。受取係なら答えを知っていたのだろうか。
引き返して尋ねる気にはなれなかった。
アンデルセンは、見てから決めさせたかったのかもしれない。もっと早く教えてくれれば、とも思った。教えられたところで、自分は商人を反逆者として報告していたかもしれなかった。
グラウスなら何と言っただろう。
それだけは、いくら考えても確かめられない。
本当の国境には、東西の軍旗がなかった。
石造りの門の上に中央政府の紋章があり、道路の脇に税関と厩舎が並んでいた。外から入る列と、出ていく列は別だった。両方の荷車へ同じ制服の兵が印を押している。
エドガーは前の馬車が進むたび、少しずつ手綱を送った。
あと二台になった時、検問所の中から新しい紙が運ばれてきた。
兵が受け取り、机へ広げる。別の兵を呼び、指で何かを示す。
エドガーは外套の中へ手を入れた。
「そこの御者。顔を上げろ」
グラウスの銃の握りに、小さな傷が触れた。
「西部で兵士が二人逃げた。年齢が同じくらいだ。もう一人はどこだ?」
エドガーは、空いた御者台を見た。
答えられなかった。
兵が腰へ手を伸ばす。エドガーは銃を抜いた。
肩に当てるつもりだった。弾がどこへ入ったかは見えなかった。兵が崩れ、紙が泥の上へ落ちる。その向こうで、前の荷車がまだ門をくぐっていた。
二頭を進ませた。
止まれという声。車輪が何かへ乗り上げる。馬が跳ね、御者台の縁へ胸を打った。外套が引かれたように揺れ、肩が熱くなった。
門を出ても銃を握っていた。手綱を両手で持つために、膝へ置いた。
遠くでまた銃声がした。振り返らなかった。
馬が歩く速さになっても、街道を進んだ。
肩へ押し当てた布が濡れる。眠りそうになるたび、噛み切った舌を歯で触った。シリウスもベガも首を下げている。もう走らせてはいけなかった。
道の脇に水が流れていた。馬を止め、降りようとして足を滑らせた。そのまま土へ座った。
風が吹いた。
顔を上げると、灰色の雲が途切れていた。
青いところがある。
小さな切れ間だと思って目で追った。木々の上へ続き、丘の向こうへ続き、どこにも端がなかった。
「……グラウス」
呼んでから、口を閉じた。
綺麗だ、と言えばいいのだと思った。アンデルセンは嘘をつかなかった。それを喜べばいい。
エドガーは何も言わず、しばらく座っていた。泥のついた手の下で、草が折れていた。足元にこんなに緑があることにも、その時初めて気づいた。
◆
「門で撃った兵がどうなったかは、知らねぇ」
エドガーが言った。
川岸の火は小さくなっていた。フレイアは、商人の膝に置かれた外套を見た。繕った跡が、肩にもある。
「確かめには戻らなかったのか」
「ああ」
それ以上の説明はしなかった。
フレイアは銃へ目を移した。一本は後に買った物で、もう一本はグラウスから持ち出した物だという。握りの古い傷を、商人は指で隠していた。
「貴様は、あの国を憎んでおるのか」
「憎んでる」
すぐに答えた。
「グラウスといた場所も、あそこなんだけどな」
川音が戻ってきた。フレイアは、その二つを分ける言葉を探した。商人は返事を待たず、火の上から小鍋を外した。
「腹減った。食うか」
袋から出したパンを割る。チーズも肉も載っていない。片方を差し出され、フレイアは受け取った。
「貴様の分が減るぞ」
「食いたいなら食え。いらないなら俺が食う」
フレイアはかじった。硬かった。
エドガーも半分を食べ、鍋の湯を飲んだ。悲しい過去を語った人間も、昼には腹が減る。そのことを、フレイアは記録しようとは思わなかった。
水をかけて火を消す。エドガーが馬の具合を見に行く間、フレイアは空の袋を畳んだ。隅に残っていたパン屑まで集めて、口へ入れた。
「急に気を遣うなよ」
振り返った商人が言った。
「いつも食べ物を残すなと言っておるだろう」
「そりゃ、そうだが」
ようやく、いつもの顔で笑った。
午後の道へ戻る頃、風に雨の匂いが混じった。エドガーが空を確かめ、宿へ向かう分かれ道を選ぶ。
フレイアは手綱を取るその指を見た。今日はもう、聞かずに隣へ座った。
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