第24話 鳥籠の鍵
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
地図を返そうとすると、アンデルセンは受け取らなかった。
「いらないなら、炉へ入れてくれ」
「焼くくらいなら、あなたが持っていればいい」
「私が持っていれば、また君たちに見せたくなる」
エドガーは差し出した手を引いた。倉庫の裏では、グラウスが荷馬車の車輪へしゃがんでいる。何を見ているのかと思えば、異国で取り替えたという車軸を指でなぞっていた。
「これも、その北の国で?」
「いや、それは南だ。北では車輪を橇へ載せることもある」
「馬ごと?」
「馬まで載せたら、誰が引くんだい」
グラウスが笑った。こんな間違いをしたら、訓練場では笑われる前に殴られる。アンデルセンは何も言わず、車軸の油を拭いた布を渡した。
エドガーは地図を折り直した。
「今日で、返すつもりでした」
「そうか」
「持っているだけで罰を受ける」
「分かっている。……渡す前に、もっと考えるべきだったね」
商人は顔を伏せたまま言った。初めて聞く、困ったような声だった。謝られて、エドガーの方が言うことを失った。
「もう、見ました」
地図を懐へ戻す。世界の大きさを覚えたあとで紙を焼いても、知らなかった頃には戻れない。
出国は翌朝の予定だった。積み残した荷をまとめ、御者台の下へ水袋を押し込む。アンデルセンが立ち上がった途端、咳が続いた。口を覆った布を見て、彼はすぐ握り込んだ。
グラウスが水を持ってきた。
「軍医に診てもらえよ」
「ありがとう。もう、別の医者に診てもらった」
「じゃあ薬は」
「飲んでいるよ」
それきり話が途切れた。薬を飲めば治るのだと思っていた。エドガーは、商人の細くなった首を見た。外套の襟に、前より隙間がある。
アンデルセンは水を少し飲み、二頭の馬を呼んだ。黒毛がシリウス、栗毛がベガ。グラウスが順番を取り違えると、黒毛の方が顔を背けた。
「こいつ、怒ったぞ」
「名前を呼んだのに隣へ餌をやればね」
「星の名前なんだろ。星って、何個あるんだ?」
「数えきれないほど」
「全部、名前がついてる?」
「知らない星の方が多いんじゃないかな」
グラウスはそれを聞いて、少し考えた。
「だったら俺が見つけたのに、俺の名前をつけてもいいか」
「先に誰かがつけているかもしれない」
「そいつとは、相談する」
アンデルセンは笑い、また咳をした。
彼が馬車の留め具を確かめている間に、エドガーは尋ねた。
「どうして、俺たちに話すんです」
「聞いてくれるからだよ」
「ほかの商人は、用事を済ませると帰る。あなたも、そうすればいい」
登録商人には決まった宿と道がある。監視の兵に近づかなければ、面倒を起こさず出国できる。アンデルセンはその手順を知らないわけではなかった。
「私も、昔は外を見たことがなかった」
留め具を締めた手が止まった。
「売られるのを待っていたんだ。君たちくらいの頃だよ。窓のない所でね」
「捕虜か?」とグラウスが聞く。
「奴隷だ」
エドガーは自分の袖を引いた。細い腕の上で、軍の徽章が持ち上がった。
「そこへ商人が来た。私を連れ出して、荷の数え方を教えてくれた。御者台に座らせてくれたんだ。最初の街へ着くまで、ずっと上を見ていたよ」
「空を?」
「ああ。首が痛くなった」
アンデルセンは自分の首をさすった。
「二人にも見せたくなった。それで、話した。君たちの都合を聞く前にね」
「見たい」
グラウスは即座に言った。
エドガーは口を開かなかった。見たいと言ったところで明日の任務は消えない。軍服を脱げば着る物も、銃を置けば食べる物もない。
アンデルセンは返事を求めず、御者台から降りた。
「今夜、二人分焼いて包んでおこう。明日の監視が君たちでなくても、出発前に渡せるように」
「また俺たちを規律違反にする気かよ」
「受け取らなくてもいい。今度は、本当に」
グラウスは馬の首に額を押しつけ、短く笑った。
地図は、帰ってから窓枠の割れ目へ隠した。枕の下では、寝具の点検ですぐ見つかる。押し込む時に木片が折れ、窓が少し閉めにくくなった。エドガーは手で隙間を確かめ、暗ければ見えないと思った。
夜の点呼のあと、兵舎から二人だけが呼び出された。
上官の机に、監視記録が開かれていた。商人との会話時間が、昨日から細かく書き込まれている。誰が書いたかを知る必要はなかった。倉庫には、ほかにも兵がいた。
「私語の内容を報告しろ」
「荷馬車と、積荷についてです」
「それで一刻もかかったのか」
エドガーは答えを探した。隣でグラウスの踵が鳴った。
「私が余計なことを聞きました」
「お前には尋ねていない」
上官は机の紙を揃えた。怒鳴らないことが、かえって怖かった。
寝室へ戻された時、寝台は壁から離され、床へ毛布が落ちていた。窓枠へ差し込んだ地図は、兵士が手に持っていた。
エドガーは、窓を閉めきれなかったことを思い出した。隙間を隠すために布を詰めておけばよかった。もっと別の所へ隠せばよかった。そんなことばかりが浮かび、取り上げた兵へ伸ばしかけた手を、途中で止めた。
「俺のです」
グラウスが言った。
「こいつは捨てろと言った。俺が――」
「黙れ」
エドガーの声に、友人が目を向けた。
続ければ、友人が自分を守ったことまで記録に残る。黙っていても、その地図を二人で見た事実は変わらない。
兵士が背後へ回り、二人の手首を縛った。
古い演習場には、火鉢が一つだけ置かれていた。赤い明かりの外側に、数人の兵が立っている。その中央にアンデルセンがいた。
膝をつかされ、両手を後ろへ縛られている。片目が腫れていた。二人を見つけると、口元を動かしたが、声になる前に咳が出た。
「この者が地図を渡したと認めた」
上官は少年たちの前へ立った。
「兵士を惑わせ、国外への逃亡をそそのかした。お前たちは利用された。そう処理することもできる」
エドガーの拘束が解かれた。手首に戻る血が痛んだ。兵士が短銃を握らせる。グラウスにも、同じ物が渡された。
「撃て」
エドガーは銃を見た。訓練で扱った回転式だ。重さで、空ではないと分かった。
「二人は、何も――」
アンデルセンが言いかけ、上官の手が肩を押した。商人は泥へ片手をつこうとして、縛られた腕を動かせなかった。
「商人の言葉を、まだ信じるか」
上官の問いに、誰も答えなかった。
エドガーは周囲を見た。壁へ沿って木箱が積まれ、その先に修理用の足場がある。銃を持つ兵が三人。暗がりにもいるかもしれない。グラウスが隣にいる。商人は、歩けるだろうか。
「拒めば、三人とも同罪だ」
銃口を上げる。それだけは、毎日やってきた動きだった。
アンデルセンは顔を上げ、エドガーの目を見た。
「パンは……倉庫の裏だ」
途切れながら、そう言った。
出国用の荷。水袋。つながれた二頭。明日の朝には、この国を出るはずだった馬車。
グラウスが息を吸う音がした。
エドガーは助けを求めるように商人を見た。逃げ道なら分かった。けれど、そこまで全員を連れていく方法が分からなかった。
アンデルセンは何も教えてくれなかった。頷いたのか、力が抜けたのか、顎がわずかに下がった。
「撃て!」
二つの銃声が重なった。
男の身体が後ろへ倒れた。さっきまでそこにあった顔が、火鉢の光から外れた。
エドガーの指は、引き金にかかったままだった。上官が銃を下ろせと命じる前に、グラウスの肩が動いた。
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