第23話 規律違反のチーズパン
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
青い空の話を確かめるつもりで来たのに、最初に気になったのは木箱の値段だった。
倉庫の係官が受領書を持って戻るまで、アンデルセンは荷の明細を広げていた。エドガーが監視のために覗き込むと、男は紙を伏せずに見せた。
「こちらが買い付けた鉄。こっちが運んできた銃だ」
鉄には重量が、銃には本数が書かれていた。エドガーは数字を追い、もう一度、箱を見た。
「これだけで、あの荷車一台分ですか」
「材料から形にする仕事にも代金がつく。細かい部品を作って、合わせて、使えるか試す。銃を手入れする君なら、少しは分かるだろう」
エドガーは昨日磨いた銃を思い出した。小さな部品が一つ欠ければ撃てなくなる。それは知っている。
「ここでは、作らないんですか」
「私が頼まれているのは、外で買って運ぶことだけだよ」
係官の声がした。アンデルセンは話を切り、受領書に署名した。
聞きたいことを一つ増やしたまま、エドガーは紙が片づけられるのを見ていた。
昼過ぎ、荷待ちの休憩になった。
グラウスは倉庫裏の壁へ背を預け、配給の黒パンを歯で引きちぎろうとしていた。ちぎれた途端、顔をしかめる。裂けた唇を舐め、パンの方を睨んだ。
「これ、鉄も入ってるだろ」
「噛む前に水を飲め」
「お前は、何でも正しく食えるな」
その時、馬車の向こうから脂のはぜる音がした。
グラウスが顔を上げる。エドガーにも匂いが届いた。温かい肉の匂いに、何か酸味のある、知らない匂いが混じっていた。
アンデルセンが小さな魔導炉を出し、鉄板へ白いパンを並べていた。上に薄く切った肉と、白い固まりが載っている。固まりの縁が、ゆっくりと垂れた。
「焦げてるぞ」
グラウスが声をかけた。
「もう少し。この端が色づくくらいが好きなんだ」
「白いの、腐ってるんじゃないか。溶けてる」
「チーズだよ。乳から作る。火を当てるとこうなる」
アンデルセンは鉄板から一枚を取り、息を吹きかけた。噛んだところから白い糸が伸びる。
グラウスが自分のパンを見下ろした。
「そんなのが、外じゃ普通なのか」
「好きな者は多いよ。食べてみるかい」
エドガーは、友人が返事をするより早く首を振った。
「受け取れません」
男の手が止まった。エドガーの視線を追って、倉庫の角へ目を向けた。今は誰もいない。そこを曲がって係官が来れば、三人とも見える。
「ああ……そうだった」
アンデルセンはパンを下ろした。
「悪かった。無理には勧めない」
「食べないとは言ってねえぞ」
「グラウス」
「休憩だ。毒なら、そいつだって食った」
「食べたところだけ入ってないのかもしれない」
グラウスは鉄板を眺め、男がかじった一枚を指した。
「じゃあ、それ」
アンデルセンが困った顔をした。
エドガーは友人の袖を掴んだが、グラウスは笑わなかった。
「毎回、そうやって止めなくてもいいだろ」
指に力が入った。ここで喧嘩をすれば、誰かが様子を見に来る。
手を離すと、グラウスは差し出されたパンを受け取り、端をかじった。熱かったのか、口を開けたまま何度も息を吐いた。それでも放さない。やがて黙って噛み始めた。
アンデルセンは別の一枚を鉄板から外した。焦げた底を確かめ、それを紙へ置く。
「君の友達を罰に巻き込むつもりはなかった」
小さな声だった。
「もう食べました」
「そうだね」
男は謝るように頷いた。国の規則を笑ったり、食べるよう説得したりはしなかった。その顔を見ていると、エドガーは余計に落ち着かなくなった。
グラウスが半分残したパンを差し出した。
「俺だけ食ったことにするから」
「見てるだろうが」
「こいつは言わないだろ」
男は答えなかった。
エドガーは黒パンを膝へ置いた。差し出された方を取り、一口だけ噛んだ。
歯が、抵抗なく沈んだ。
温かい塩気が舌に広がる。飲み込む前に、もう一度噛みたくなった。裂けた唇に脂が触れて、少し染みた。
「どうだ」
グラウスが聞いた。
「熱い」
「それは俺も知ってる」
もう一口食べた。返す時には、友人が残した半分より少なくなっていた。
グラウスは残りを二つにちぎった。小さい方をこちらへ押しつけ、大きい方を口に入れた。
食べ終わってからも、匂いが指に残った。
エドガーは水を少し使って掌を洗った。グラウスは名残惜しそうに指先を嗅いでいたが、こちらが睨むと同じようにした。
「さっきの紙、見せてください」
エドガーが言うと、アンデルセンは明細書の袋へ手を伸ばした。
「そっちじゃありません。パンを置いた方」
紙の裏に線が見えていた。
広げると、端の方に「アイアン・レイブン」とあった。エドガーは膝を寄せた。兵舎で習った地図と形が違う。訓練場も、塹壕も、守るべき鉱山の位置も書いていない。
「何の図ですか」
「旅に使った古い地図だ。道を調べるには粗すぎるけれど」
「俺たちはどこだ」
グラウスが聞いた。男の指が、小さな区画の辺りで止まる。
「この中」
「全部、この名前の国か?」
「そうだよ」
エドガーは区画の広さを見た。国の端がどこなのか、これでは分からない。男の指はすぐに離れ、周りのいくつもの名前を隠していた影も消えた。
「ここも国?」
「そこは海。塩辛い水が、ずっと広がっている」
「飲めない水を、そんなにどうするんだよ」
アンデルセンは短く笑った。
「船で渡ったり、魚を捕ったりする。眺めるだけでもいい」
「青い空も、そこで見えるのか」
「晴れていればね」
エドガーは紙の線を追った。山の向こうに隣国があり、その向こうは遠すぎて考えたことがなかった。紙にはまだ名前が続いていた。
鐘が鳴った。エドガーは背を伸ばした。グラウスも銃を取り直す。
「その紙は、私が片づける」
アンデルセンが手を出した。
「見つかると困るのだろう」
エドガーは紙を放さなかった。
届出を出せばいい。監視中に見つけたものとして差し出せば、それ以上は聞かれないかもしれない。そう考え、地図を折った。
「預かります」
男が何か言いかけた。エドガーは見ずに胸の内側へしまった。
消灯前、エドガーは地図を寝台の上へ広げた。
提出する機会はあった。帰り際にも、夕食の後にもあった。それを全部見送ったことは、グラウスに言わなかった。
「海まで、何日だと思う」
上の寝台から下りてきた友人が言った。
「縮尺が分からない」
「歩いたら」
「分からないって」
「そうか」
それでもグラウスは楽しそうだった。紙に触れないように、指を浮かせて道らしい線を辿った。
「戦争が終わったら行こうぜ」
「終わるのか」
口に出してから、エドガーは扉を見た。
廊下は静かだった。グラウスもそちらを見て、それから地図へ向き直った。
「終わったらだよ。終わらせるために戦ってるんだろ」
その言い方なら、間違ってはいなかった。
「二人で青い空を見て、海へ行く。パンも買う。な」
差し出された小指には、昼に拭き損ねた煤が残っていた。
エドガーは、自分の小指を引っかけた。
「お前が道を決めるなよ」
「お前、さっき分からないって言ったくせに」
足音がした。
二人は同時に手を離した。エドガーは地図を畳み、枕の下へ押し込んだ。見つかった時の言い訳を考える。拾った。提出するのを忘れていた。どれも上手く言えそうになかった。
足音が遠ざかっても、まだ胸が速く動いていた。
明日、返せばいい。そう決めたはずなのに、眠る前にもう一度だけ、紙の端を引き出した。海と書かれた場所までの道を、指で確かめた。
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