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第22話 空の色を知らない兵士

お読みいただき、ありがとうございます。

どうぞ、今回の旅もお楽しみください。

 報告書の端に、雨が一滴落ちた。

 エドガーは紙を外套の内側へ引き寄せた。汚して書き直すことになれば、銃の手入れが夕食に間に合わない。


「使用弾数」

「六発です」

「確認できた敵の数は」

「三人。残りは塹壕の陰へ入りました」


 上官のペンが動いた。エドガーはその先を見ていた。

 撃ったうちの一人は、落とした帽子を拾おうとしていた。報告に必要なことではない。敵が身を起こした時、胸が見えた。撃った。倒れた。それで三人になった。


「よし。明日は後方勤務だ」


 肩を叩かれた。銃床を当てていた場所が痛んだが、礼を言い、踵を揃えた。褒められている時に顔をしかめると、もう一度、何のために戦うのかを答えさせられる。

 祖国のため。山の鉄を奪いに来る隣国から、国民を守るため。

 十四歳のエドガーは、答えを知っていた。二年前、初めて戦場へ出る朝にも、同じ文句を唱えた。


 兵舎へ戻ると、グラウスが上の寝台から片脚を下ろしていた。


「生きてたか」

「お前もな」

「見りゃ分かるだろ」


 靴を避けて腰を下ろすと、首の後ろへ冷たいものが当たった。顔を上げる。グラウスが水筒を逆さにしていた。


「汗、ひでえぞ」

「やめろ。襟が濡れた」

「どうせ洗わないくせに」


 掴もうとした水筒が逃げる。エドガーは諦めて銃を膝へ置いた。掌に残る震えは、部品を順に外しているうちに収まった。

 グラウスとは孤児院から一緒だった。入隊する時も同じ列に並んだ。あの列にいた名前を、今でも全部思い出せる。兵舎で呼べる名前は随分減った。


「明日、商人の監視だってさ。お前と俺」

「聞いた」

「塹壕よりましだ。向こうから撃ってこない」

「分からないぞ」

「荷馬車に大砲でも隠してるのかよ」


 グラウスは笑った。エドガーは笑わなかった。針金を通し、銃身の内側の汚れを押し出した。

 窓の向こうでは、鉱石を積んだ車が門の方へ列を作っていた。赤茶けた山から下りてくるものは、いつも同じだった。荷車、鉱夫、鉄。その上を軍旗がはためき、鎧を着た烏の翼が折れたり伸びたりしている。


「鉄はあんなに出ていくんだな」


 グラウスが窓へ顔を寄せた。


「売ってるんだろう」

「敵に取られないように、俺たちはあそこで撃ってるのに」

「売るのと取られるのは違う」

「知ってるよ」


 返事が短くなった。エドガーは銃を組み直し、動きを確かめた。

 窓枠に煤が積もっている。指で拭うと、その下に木の色が出た。外の空は拭えない。朝も昼も、雨の日も、濃さの違う灰色だった。


 翌朝、商人の列が鉄門をくぐった。

 門番は馬車の札を確かめ、荷台の封を改め、商人が差し出す書類に判を押した。馬車は一台ずつ、指定された倉庫の前へ通された。道を外れることも、町の者へ勝手に声をかけることも許されない。

 エドガーは昨夜覚えた注意事項を頭の中で繰り返した。贈答品は受け取らない。任務に不要な会話をしない。軍に関する質問には答えない。


「私の荷はここでいいのかな」


 厚い外套を着た男が、御者台から慎重に下りてきた。最後の段で足を止め、胸を押さえる。咳を二度してから、何事もなかったように帽子を取った。


「アンデルセン。登録番号は札の通りだ。よろしく」

「荷下ろしを始めてください。終了するまで、ここで監視します」

「分かった。馬を繋いでも?」


 エドガーは倉庫横の柵を指した。男は勝手に動かず、頷いてから手綱を引いた。二頭の馬は大人しくついていく。黒い方がグラウスの袖へ鼻を伸ばすと、彼は反射的に腕を引っ込めた。


「噛むのか」

「食べ物を期待しているんだろうね。何も持っていないなら、そう言ってやって」

「馬に?」


 グラウスが男を見た。アンデルセンはもう荷台へ戻り、結び目を解いていた。

 最初の木箱には銃が入っていた。油紙を一枚ずつ外し、係の兵士が番号を読み上げる。エドガーは箱の陰になる男の手を見張った。怪しい動きはない。男は兵士に急かされても、銃を投げずに一本ずつ渡した。

 検品が半分ほど進むと、係の兵士は別の倉庫へ呼ばれた。

 男が手を休めて息をついた。指先が少し震えていた。寒いのだろうか。外套はエドガーの軍服よりずっと厚そうだった。


「水を飲んでも構わないかい」

「どうぞ」


 水筒を取り出すまで、エドガーはその手を見た。男は蓋を開けたところで、ふいに空へ目をやった。


「今日も雲が厚いな」

「雨になるのか?」


 グラウスが言い、すぐに口を結んだ。エドガーが横目で見たためだった。


「どうだろう。この辺りの空には慣れなくてね」


 アンデルセンは水を一口飲んだ。


「南の街道を来る間は晴れていた。青くて、風が強かったよ」

「青い?」


 今度はエドガーが言った。

 男の視線がこちらへ向いた。驚いたように眉が上がり、すぐに戻った。


「空だよ」

「空はこの色でしょう」


 グラウスも上を見ていた。二人に説明を求められていると気づいたのか、男は水筒をゆっくり閉めた。


「雲が途切れると、その向こうに見えるんだ。ここからでは見えないけれど」

「塗ってあるのか」

「塗ってはいないよ」


 笑いかけた口元を、アンデルセンは引き締めた。馬の方へ目を動かし、その先の門番を見た。


「実物を見せられればいいんだが」


 エドガーは空を見上げた。雲の向こうのものは見えない。飛行する敵を見逃すなとは教わったが、雲の向こうの色を確かめろとは言われたことがなかった。


「他の商人も、知っているのか」

「外を旅している者なら、何度も見ていると思う」


 数台先の荷馬車で、商人が退屈そうに欠伸をした。

 あの男も知っているのか。門番は。上官は。

 足音がして、検品係が戻ってきた。アンデルセンは水筒をしまい、残りの油紙へ手を伸ばした。

 青い空の話は、それで終わった。


 夕食後、エドガーは監視の記録を書いた。

 入庫時刻。荷の種類。数。終了時刻。

 最後に、異常の有無を記す欄が残った。


「書くのか」


 グラウスが肩越しに覗いた。


「何を」

「空」


 エドガーはペン先を紙につけなかった。外の様子を聞き出そうとしてくる商人は報告する。軍のことを聞かれたわけではない。だが、必要のない会話をしたのは確かだった。


「あれ、からかわれたんじゃないよな」


 友人の声は小さかった。

 からかうなら、笑えばよかった。あの商人は途中で笑うのをやめた。門番の方を見た。

 エドガーは「異常なし」と書き、紙を畳んだ。


「明日、確かめる」

「どうやって」


 分からなかった。けれどもう一度聞けば、嘘ならどこかで話が食い違うはずだ。

 翌日の勤務表を確かめに行くと、二人の名前は同じ欄にあった。エドガーはグラウスの名を指で叩き、寝床へ知らせに戻った。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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