第17話 人間を試す少女
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
男は、路地の奥で倒れていた。
壁へ背を預けた姿で、片手が空を掴むように開いている。酒に酔って眠っているのではない。胸へ小さな焼け跡があり、息がなかった。
フレイアは少女から目を離さず、男のそばへ膝をついた。
頸の脈を確かめる。戻ってくるものはなかった。
「お前が、殺したのか」
少女は、問われたことを隠そうとしなかった。
「はい。ここへ入るなと言われましたので」
「この男が住んでいたのか」
「分かりません。家ではないでしょう。誰が通ってもよい場所で、怒鳴られても困ります」
声は穏やかだった。
興奮も、後悔もない。フレイアは男の手の下に落ちた布を拾った。体温の抜けた指へ触れないよう、脇へ置く。
「怒鳴っただけか」
「手も伸ばしてきました」
「お前なら、避けられたであろう」
少女は少し首を傾げた。
「そうですね。ですが、こちらの方が早かったので」
フレイアは立ち上がった。
魔界なら、それで話を終える者もいる。弱いものが強いものへ逆らい、力の差を読み違えて死ぬ。その仕組みの中で育った自分には、少女の説明が理解できてしまう。
だが、路地の男は、目の前の魔族と命を懸けて争うつもりだったのか。
最後に何を言ったかも、もう聞けなかった。
「名を言え」
「ルシアと申します。お会いできて光栄です、魔王フレイア様」
少女は礼をした。
王への礼としては正しい角度だった。その傍らに、自分が殺した人間を置いたままであることだけが、どうにも釣り合わなかった。
「ここではレイと呼べ。それと、話が済めば衛兵へ説明してもらう」
「人間の、規則へ?」
「お前が殺したのは、その規則の中で暮らす者だ」
ルシアはフレイアを見た。
初めて相手の言葉を、想定外の情報として受け取った顔だった。
「庇っていただけるとは、思っていませんでしたが」
「庇うために来たのではない」
フレイアは路地の出口へ目をやった。まだ人は集まっていない。ルシアが目立たぬ場所を選んだのは、人間を怯えさせないためではなく、自分の時間を邪魔されぬためなのだろう。
「我へ、何の用だ」
問いに、少女の表情が少しだけ明るくなる。
「同じ旅をする方へ、お話を伺いたかったのです」
ルシアも、人間を知るために国々を巡っているという。
食事をし、取引を見て、話す言葉を記録する。広場へ来たのも、人間が一つの物へ何を与えるか知りたかったからだった。
「剣そのものは、皆、同じ形で見ています。ですが、そこへ見ているものは違います」
少女は広場の方を示した。
「王位が欲しい者。金が欲しい者。人へ誇りたい者。誰かを救うための力が欲しい者。一本の剣の前へ、その違いが集まる。とても、観察しやすい場所です」
フレイアにも、そこまでは分かった。
今朝、子供が語った願いと、家の大きさを語る青年の欲望は違う。それを同じ列へ並ばせる力が、あの剣にはある。
だが、ルシアの目は、そこで満足していなかった。
「それが手の届かないものになった時、もっと違う顔になるはずです」
「何をするつもりだ」
「何も、まだ。たとえば、抜けぬまま続くことを、誰かが終わらせたら」
ルシアは自分の掌を見た。
魔力が小さく集まり、すぐに消える。人間の皮膚なら、ただそれに触れただけでも傷つく量だった。
「穏やかな時には、皆、同じような言葉を使います。礼を言い、願いを語り、正しいと思う振る舞いをする。ですが、失うと分かった途端、それまで隠していたものが出てくる」
フレイアは黙って聞いた。
エレイナの手。店主の声。荷車を引く学生の父親。追い詰められた時に見えたものを、自分も人間についての大切な手掛かりとして受け取ってきた。
それを知りたがる気持ちまで、自分と無関係だとは言えない。
「だから、自分で追い詰めるのか」
「その方が、待つより確かです」
ルシアは頷いた。
「結果が起きるかどうか、人間の都合だけに任せる必要はありませんから」
フレイアは倒れた男へ目を戻した。袖から手が出ている。名を尋ねる相手は、もういなかった。
「余計な殺しをするな。あの広場にも、手を出すな」
声を落とした。
ルシアは視線を合わせたまま、少しだけ呼吸を止める。
「王としての、ご命令ですか」
「聞いていたか。人を弄ぶために旅をするなと言っている」
フレイアは少女へ近づいた。
まず身柄を確かめ、その後、男の身元を調べる者を呼ぶ。そう決めて腕を伸ばした時、ルシアの周囲の空間が薄く歪んだ。
床へ走ったのは、転移の術式だった。
「お話、参考になりました」
フレイアは即座に術式を押さえた。
だが、ルシアが先に仕込んでいた小さな魔力の結び目が、反対の壁で弾けた。崩れた煉瓦が、路地へ近づいていた通行人の方へ落ちる。
フレイアはそちらへ障壁を出した。
その一瞬に、少女の気配が抜けた。
魔力の痕は遠くへ散り、追う方向を一つに決められない。
フレイアは通行人が無事であることを確かめ、すぐに広場へ向かった。係員へ、魔法による妨害の恐れがあると告げ、警備を呼ばせる。
路地の男についても伝えた。衛兵の一人が帳面へ記録し、フレイアの滞在先を尋ねる。彼女は偽名と宿を告げた。王の名を使って済ませるつもりはなかった。
日が落ちても、ルシアは現れなかった。
無事な広場で、閉場の鐘が鳴る。今日も、誰も剣を抜かなかった。
フレイアは輪の外側に残り、台座を見た。
ルシアは、人間の反応を確かめたいと言った。
だが、去り際に向けていた目は、剣ではなく、彼女自身を見ていた。
自分が何を守るかも、少女の知りたいことに含まれている。
それに気づいた時、フレイアは今夜、この広場を離れられなくなった。
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