第12話 百年前の約束、今の道連れ
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
火を挟むと、エドガーの顔の片側だけが明るく見えた。
隣で眠った行商人は、もう静かな寝息を立てている。話すなら声を落とせばよい。それでも、フレイアはすぐには口を開かなかった。
最果ての国へ行く。
その目的を尋ねられるたび、行き先を知らぬとだけ答えてきた。フレイアは、火の向こうの男の横顔へ向き直った。
「レイドスに会った時、我は、まだ王ではなかった」
エドガーが頷いた。
名を聞いて驚くことは、もうしなかった。先代魔王を倒した男が、目の前の女へ旅の行き先を残した。それが昔話ではなく、彼女自身の記憶なのだと理解している。
「父が討たれ、軍も潰えた。次に我が死ぬのは、当然だった」
フレイアは胸元へ触れた。
古い傷は、服の上からは見えない。だが、自分の手がそこへ触れるまでに、何度も迷うことだけは、旅を始めてから気づいた。
「剣が、ここを通った。抜けば血が失われる。抜かねば、いずれ死ぬ。もう、どちらでも同じだと思った」
「……あいつは、助けたんだな」
「ああ」
火の向こうへ、あの日の石床が重なった。
父を倒した敵の前で、取り乱すことはしなかった。力で負けた。その結果として死ぬ。それ以外に、受け取るべきものはなかった。
なのに、男は剣を収めた。
傷へ手を当て、膝をつき、息の残る相手を見捨てなかった。
その時、フレイアは、屈辱を与えるつもりかと尋ねた。
「勇者は、違うと言った」
フレイアは目を上げた。
「我は次代の魔王になる。生かせば、いずれ人間へ牙を剥くかもしれぬ。そう言っても、剣を取らなかった」
エドガーは黙って聞いていた。
薪の表面が崩れ、赤い部分が内側へ落ちる。何かを足すべき時刻だったが、商人は立たなかった。
「『それなら、その前に見てほしい』と言った。人間の国を。そこへ暮らす者を。自分が敵と呼ぶ相手が、どのように生きているかを」
最初は、勝者の戯言だと思った。
力で負けた者へ、力で勝った者が好きなことを言っている。それなら、分かりやすい話だった。
だが、あの男はフレイアへ、従えとは言わなかった。
「この世界が滅ぼすべきものか、守る価値のあるものか。お前自身の目で確かめてくれ、と」
エドガーの指が、膝の上で止まった。
「その答えを、百年後に聞くって?」
「最果ての国へ来いと言った。なぜ百年なのか、どこにあるのか、教えなかった」
「そんな大事なことを、聞かなかったのか」
フレイアは少し眉を寄せた。
「胸を貫かれた直後に、旅の相談を続けられると思うか」
エドガーは口を開き、閉じた。
それから、悪かったと短く言った。彼女は頷き、膝へ手を戻した。
◆
「お前は、あいつが正しいと思ったから来たのか」
少しして、商人が尋ねた。
フレイアは首を振った。
「理解できなかったからだ。愚かな選択なら、あれほどの敵を倒した男が、なぜそれをした。我の知らぬ理由があるのなら、何だ」
人間の話は、魔界にも届く。
国が争い、王が替わり、街が焼け、また誰かがそこへ住み始める。百年あれば、いくつもの世代が入れ替わる。
助けた者の子供が、助けた者の名を忘れることさえある。
それでも、人間は何かを渡す。
馬車へ乗せる。パンを半分に切る。薬を買う。死んだ息子を描いた絵を磨く。そうした行為を、レイドスの手と同じ箱へ入れてよいのか、フレイアには分からなかった。
「人間を見て、どうだ」
エドガーは急かすつもりのない声で聞いた。
「ジマリハで、我は男を殺さなかった」
「聞いた」
「だが、妹は死んだ。姉が泣けぬ理由も、戻せぬ。ライドゼルでは、王の考えが理解できた。理解できぬから、間違いだと退けることもできなかった」
フレイアは、火の中の赤い筋を見た。
勇者から見ろと言われた時、見れば分かるのだと思っていた。自分の知識へ、足りぬ事実を加えれば済むと。
実際は違った。
事実が増えるたびに、同じ言葉で呼べるものが減っていく。助けたということも、間違ったということも、前ほど簡単には使えない。
「なら、最果てまで着いた時、分かってなかったら」
エドガーが尋ねた。
今まで考えてこなかったわけではない。だが、自分以外の口から聞くと、その可能性は、ずっと近くへ来た。
フレイアは少し考えた。
「分からぬと言う」
答えた後で、それでもよいのかと、自分へ問いが戻ってきた。
エドガーは、驚かなかった。
「そりゃ、そうだな。約束は、何でも知って来いじゃないんだろ」
彼はそこで初めて立ち上がり、細い薪を火へ足した。
「お前の目で見ろ、だ。だったら、誰かが作った答えを間に合わせるより、よっぽど約束どおりじゃないか」
フレイアは彼を見上げた。
胸の内側のどこかが、少し緩んだ。
「貴様は、最後まで来るつもりか」
「さあな。道の先に、商売になる町があるなら」
エドガーは笑い、馬の方へ歩いた。繋ぎ綱を見て、桶へ残る水を確かめる。最初に会った日と同じ順番だった。
戻ってきた時、彼はもう少し静かな顔をしていた。
「ただ、一つ聞いとく」
「何だ」
「お前が、人間には守る価値がないと決めたら、俺も、その中に入るのか」
薪の燃える音が、急に近くなった。
冗談にして返すことはできた。安心しろと一言言い、それ以上の話を終えることも。
だが、彼は今、その返事を聞くために自分の素性を確かめ、名前を呼んでいる。
フレイアは、目の前の顔を見た。
「貴様を見ずに、人間という言葉へまとめるつもりはない」
エドガーはしばらく黙った。
それから頷き、火の反対側へ座り直した。
「なら、今は、それでいい」
彼女も、頷いた。
人間を知る旅と呼びながら、知らぬ人間の名ばかり増やす必要はない。すぐ向かいへ座る男にも、まだ聞いていないことが多かった。
◆
翌朝、行商人を見送り、二人は川沿いの道へ進んだ。
エドガーは途中で馬車を止めた。水を汲むついでに、自分の道具を確かめるらしい。外套の内側から出てきた金属の形へ、フレイアは目を留めた。
銃だった。
魔法の気配は薄い。だが、分解された部品を確かめる男の指には、習慣が染みついている。向きも順番も、迷わなかった。
「それも、商品か」
「こいつは売らない。自分の身を守るためのだ」
「よく使うのか」
エドガーは布を止め、彼女へ目を向けた。
「使わずに済む方が、いいんだがな」
答えを詳しく聞く前に、風が変わった。
川の水と草の匂いへ、別のものが混じる。生々しい血と、強い魔力。フレイアは森の奥へ顔を向けた。
エドガーも、その変化に気づいた。銃を組み戻し、馬の近くへ下がる。
「獣か」
「もっと大きい」
フレイアは荷台から降りた。
木々の向こうで、何かが低く唸った。風ではなく、地面を通って足の裏へ届く音だった。
次に聞こえた声は、人間のものではなかった。
「……誰か、いるのか」
彼女は立ち止まった。
救いを求める声が、森の奥から続いた。
「この剣を、抜いてくれ」
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