第11話 アンドレアという老人
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
老人は、昨日と同じベンチにいた。
膝には本がなく、足元には旅用の袋がある。通りを門へ向かう人々が荷を運んでいたが、老人自身は、その流れへまだ加わっていなかった。
フレイアが近づくと、彼は顔を上げた。
「会えましたかな」
どこへ行ったか、尋ねなかった。
フレイアは鉄の鍵を取り出し、老人の前へ差し出した。
「ああ。お前が渡した理由も、少しは分かった」
「それは、よかった」
「よかったかどうかは、まだ言っておらぬ」
老人の笑みが、小さく止まった。
エドガーがその隣へ立ち、行き交う荷車を見た。
「こんな鍵、ただの案内好きの爺さんが持ってるもんじゃないだろ。何を見せたかった?」
老人は袋へ目をやった。ほどいた紐の先を指で揃え、また、ほどけたままにした。
「……少し、昔の話をしてもよいかね」
フレイアは頷き、ベンチの端へ座った。最初に会った時より、老人が小さく見えた。杖へ預けた身体の重さだけで、やっとその場へ残っているようだった。
◆
「この国の王は、発明が好きじゃった」
老人は、自分以外の者の話をする声で始めた。
壊れた器具を直し、面倒な仕事を一つ減らし、新しい仕組みが動くのを眺める。それが好きだった。研究の成果を見て喜ぶ顔も、嫌いではなかった。
だが、国家は道具と違った。
道を作れば金が減り、金を節約すれば道が崩れる。ある者を守るため出した命令で、別の者の暮らしが苦しくなる。失敗を直そうとして、また別の失敗を作った。
「よいことをしたいと考えておれば、よい王になれると思っておった。そうではなかったのじゃな」
老人は杖の先で、敷石の欠けた部分を触れた。
「それで、自分よりよく考えるものを作ることにした。研究者を集め、知識を繋ぎ、結果を比べる装置をな」
「初めから、王にするつもりだったのか」
エドガーが聞いた。
老人は首を振った。
「初めは、助言を得るためじゃった。装置の提案を、王が選ぶ。間違っておると思えば、採用しなければよい。それなら、責任は自分に残る」
水路の改修が成功した。食料の無駄が減り、工房の事故も少なくなった。
装置の提案に従う時の方が、王自身の案を選ぶ時より、よい結果が増えた。
だから、もう少し任せた。もう一つ、決定する権限を渡した。
上手くいくたびに、それを止める理由は見つけにくくなった。
「知っていることが足りなければ、民から集めればよい。そうして、知識税を始めたのですね」
老人の言葉が、途中から、自分で確かめる形へ変わった。
フレイアは彼を見た。
「お前が、作ったのだな」
老人は否定しなかった。
「装置が間違えた時に、正す王は残さなかったのか」
「残るつもりじゃった。だが、王自身が、自分より賢い相手へ、何を言えばよいのか分からなくなった」
フレイアは水晶の返答を思い出した。
何の条件を与えたか。何を優先して計算させたか。それを決めた者は、装置の外にいる。
「答えの善し悪しを決めることまで、知識の量で比べたのか」
老人の手が、紐から離れた。
少しして、深く頷いた。
◆
王は、名と統治権を渡した。
姿を消しても、政務は止まらなかった。代わりの者を探して困る者も、以前の王を呼び戻す者もいない。かつて彼が決めていたことは、彼より的確に処理された。
「役に立たぬ王が消えたのだから、民にはよいことじゃと思った」
老人は通りを見た。
制服の子供が、家族と荷車を引いていく。昨日まで学舎へ通った者なのだろう。荷の上へ本を置き、落ちぬよう手を添えていた。
「皆がよく学ぶようになった。知識を納め、賢王から次の答えをもらう。何を覚えるべきか、どんな研究が評価されるか。自分たちの暮らしを、答えへ合わせることが上手くなっていった」
「考えなくなったと?」
「考えておるよ。難しい本も読み、わしより詳しく説明できる。じゃが、何のためにそれを使うかは、あの方が決めるものだと」
フレイアは、掲示板の前で政策を説明した若い男を思い出した。何が書かれているかは、よく読んでいた。誰が出ていくかは知らず、調べてみるとも言わなかった。
「知識を一度納めた人間に、次の新しい知識を作れぬ日が来たら。あの装置は、何を残すか計算する」
老人は足元の袋へ視線を落とした。
「わしも、数日中には出ることになっておる」
自分の作った道具が、自分を要らぬ者に分けた。
それを笑い話にする顔ではなかった。だが、どこかで当然の結果だと受け取っているようにも見えた。
フレイアは鍵を差し出したまま言った。
「お前は、我に何をしてほしかった」
老人は答えなかった。
「壊してほしかったのか。それとも、お前に代わって、間違いだと言ってほしかったのか」
「……分からんのです」
ようやく返った声は、小さかった。
「人を知りたいと言う者が、何を思うか。自分とは違う見方があるなら、聞きたかった。だが、聞くだけで済ませたい気持ちが、なかったとも言えません」
フレイアは掌の鍵へ目を落とした。
旅人は国を出られる。王である自分も、他国のことだと言って去ることはできる。だが、この老人が同じ言葉で去れるかどうかは、彼自身が考えることだった。
「我は、水晶を壊さなかった」
「そうですか」
「だから、正しかったとも言わぬ」
彼女は鍵を、老人の袋ではなく、掌へ置いた。
「捨てるのなら、自分で決めろ」
老人は鍵を握った。
フレイアは立ち上がる。エドガーも帽子を被り直した。
「最後に、名を聞こう」
老人は口を開き、一度閉じた。
失ったはずの名を、改めて自分へ戻すように、ゆっくり答える。
「アンドレアです」
フレイアは頷いた。
城の水晶にも、この老人にも、同じ名がある。老人は膝に落ちたパン屑を、一つずつ拾った。
◆
幾日か後、二人は街道の休憩所で、逆向きに旅をする行商人と火を囲んだ。
エドガーと男は酒の銘柄を比べ、互いの仕入れ品について話した。フレイアには、温かい果汁が出された。酒を避ける理由は、もう説明しなくてもよくなっていた。
「そういや、ライドゼルは通りましたか」
行商人が聞いた。
エドガーは杯を持ち上げたまま頷く。
「この前までな。あそこじゃ酒が売れんぞ」
「ええ。品を広げる相手も見つからなくて。泊まる分には安かったんですが」
「学者向けの物なら、少しは出たんじゃないか」
男が不思議そうに顔を上げた。
「……学者?」
薪が一本崩れ、火の粉が上がった。
「学生も、研究者も多かっただろう。昼間は、通りを歩いてたぞ」
エドガーの声が少し低くなる。
男は首を振った。
「自分が歩いた所には、いませんでした。門も、宿も、食堂も、全部機械で。人に会ったのは、出国する時、外で一組すれ違ったくらいです」
フレイアは杯を置いた。
誰もいなくても国は続く。水晶は、そう答えた。
あの時、老人は鍵を手放さなかっただろうか。
行商人が眠った後も、エドガーは火の前に残った。
杯を置き、荷台へ繋いだ二頭を見てから、フレイアへ向き直る。
「なあ、レイ」
いつもの軽い呼び方だったが、目は笑っていなかった。
「最果ての国へ行って、お前は何を確かめる。場所が分かれば、それでいいのか」
フレイアは胸の傷へ触れた。
勇者が見ろと言った世界を、二つの国で、まだ少し見ただけだ。
「……生かされた理由だけでは、なくなった」
男は黙って、続きを待った。
フレイアは初めて、あの約束を最後まで、この旅の道連れへ話そうと思った。
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