第十九話 カオス
透は放心していた。
彼女すらできたことがない。それなのに、なぜか今、自分には竜人の嫁がいる。
いや。
正確には、本人がそう名乗っている。
別にルカが嫌なわけではない。むしろ明るくて、一緒にいると楽しい。笑顔も可愛いし、困っていたところを助けたことを心から喜んでくれているのも分かる。
だが――。
嫁。
嫁とは何だ。結婚する相手ではないのか。
今日会ったばかりなのに。
透の頭の中で、同じ言葉がぐるぐると回っていた。
そんな透の混乱など知る由もなく、ルカはすでに神代家へ完全に溶け込んでいた。
「それでね、私、お腹が空いて動けなくなってたの」
ルカは身振り手振りを交えながら、美琴たちに透との馴れ初めを説明していた。
「そこへ透様が来て、ご馳走してくれたんだ」
「まあ、それで透さんに?」
美琴が楽しそうに尋ねる。
「はい!」
ルカは満面の笑みで頷いた。
「それから私が竜の姿になって、透様を背中に乗せたの!」
「まあ!」
美琴がさらに嬉しそうな声を上げる。
「昔からの夢だったんですって」
明日華が補足する。
「強い騎士を背に乗せ、一緒に空を飛ぶことが」
「そうなの!」
ルカが勢いよく身を乗り出す。
「小さい頃から、おばあしゃまにずっと聞かされてたんだ。昔、竜人族と人族の騎士が一緒に戦ったお話!」
そこから話は、自然と竜人族の里へ移っていった。
高い山々に囲まれた土地。長い間、外の世界との交流が途絶えていたこと。最近になって外の世界へ出られるようになったこと。そして自分だけの騎士様を探しにルカが、一人で外へ出てきたこと。
「一人で?」
美琴が聞き返した。
「うん」
「ご家族は心配しているんじゃない?」
「たぶん」
「たぶん……」
美琴が苦笑する。
「でも大丈夫。ちゃんと帰るから」
「透さんと?」
「もちろん!」
即答だった。
透は頭を抱えた。
――帰るんだ。俺も一緒に。
初めて聞いた。
だが神代家の女性陣は、そんな透の苦悩などまるで気づいていない。
結衣と明日華は、すっかりルカに懐いていた。
それも無理はない。すらりとした長身。鍛え上げられていることが分かる引き締まった身体。それでいて女性らしい均整の取れた体つき。肩口まで伸びた青みがかった銀髪に、澄んだ瞳。
何より、笑うと一気に幼さが顔を出す。
「ルカさんって、格好いいよね」
結衣が目を輝かせる。
「え?」
「だって竜になれるんでしょ?」
「なれるよ」
「空も飛べる?」
「もちろん!」
「すごい!」
結衣の目がさらに輝く。
明日華もルカを見ながら微笑んだ。
「それに、とても綺麗です」
「ほんと?」
ルカは照れくさそうに笑う。
「ありがとう、明日華ちゃん」
「……もう名前で呼んでる」
透が呟く。
誰も聞いていない。
結衣にとっても明日華にとっても、ルカは憧れのお姉さんそのものだった。
強くて、綺麗で、明るくて。
そして何より――大好きな兄を、心から好いてくれている。
そんな相手なら。
「ルカさんがお姉ちゃんになるのも、いいかも」
結衣がぽつりと言った。
「結衣!?」
透が勢いよく振り向く。
明日華も少し考えてから頷いた。
「私も、そう思います」
「明日華まで!?」
「よろしくね、結衣ちゃん、明日華ちゃん!」
「うん!」
「よろしくお願いします」
「待て待て待て!」
透だけが取り残されていた。
その時。
宿の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
聞き覚えのある声に、透が振り返る。
セリナだった。その隣にはリーファもいる。
二人は神殿とハイエルフの工房へそれぞれ用事に出ていたのだが、帰り道で一緒になったらしい。
「ただいま」
リーファも宿へ入ってくる。
「おかえり!」
結衣が手を振る。
「おかえりなさい」
明日華も続く。
「おかえりー!」
真白も美琴のそばから声を上げた。
「お帰りなさい」
そして聞き慣れない女性の声。
セリナが足を止めた。リーファも止まる。
二人の視線の先には、美琴がいた。その隣には隆志。
「……え?」
セリナが目を瞬く。
リーファも驚いたように二人を見つめた。
透が立ち上がる。
「ああ。俺の父さんと母さん」
「えっ」
「地球から転移してきて、今日ドワーフの里に着いたんだ」
セリナの目がさらに大きくなる。
リーファも口元へ手を当てた。
「透様の……」
「ご両親?」
「ああ」
美琴が席を立った。
「初めまして。透の母の美琴です」
隆志も立ち上がる。
「父の隆志です。いつも息子がお世話になっています」
「い、いえ!」
セリナが慌てて姿勢を正した。
「こちらこそ、透様には何度も助けていただいております。私はセリナ・アストレアと申します」
丁寧に頭を下げる。
「アストレア王国国王の娘です」
「まあ」
美琴が微笑む。
「あなたがセリナさんね」
「……はい?」
その言い方に、セリナが僅かに首を傾げた。
続いてリーファが一歩前へ出る。
「リーファと申します。ハイエルフの里より参りました」
「あら」
美琴の表情が、ほんの少し変わった。
「あらあら」
「……?」
リーファが不思議そうに美琴を見る。
「あなたがリーファさんなのね」
「はい」
「お母様には、とてもお世話になりました」
「――え?」
リーファの表情が固まった。
「母に……会われたのですか?」
「ええ」
美琴はにっこりと笑う。
「とても話が合って」
「そ、そうなのですか」
「最後に『娘をよろしくお願いします』って」
「――っ!」
リーファの顔が一瞬で赤くなった。
「お母様!?」
結衣が吹き出す。
明日華は静かに目を伏せた。
透は嫌な予感しかしなかった。
――まずい。
何かが始まる。
その時だった。
「初めまして!」
元気な声が響いた。
セリナとリーファが振り向く。
そこにはルカが立っていた。
「ルクシェリア・ファフニールです。ルカって呼んでね!」
「あ、はい」
セリナが反射的に答える。
リーファもまだ赤い顔のまま、小さく頭を下げた。
「初めまして……」
ここで終わればよかった。
だがルカである。当然、終わらない。
「透様のお嫁さんです!」
時間が止まった。
「…………」
セリナが瞬きをした。
リーファも瞬きをした。
もう一度。
二人同時に透を見る。
透は目を逸らした。
「……透様?」
セリナの声が低い。
「あにさまは関係ありません」
明日華が静かに言った。
「いや、俺は関係あるだろ」
「おにぃもさっきからよく分かってないから」
「結衣!?」
セリナがルカを見る。
ルカを見る。
透を見る。
もう一度ルカを見る。
「……お嫁さん?」
「うん!」
「透様の?」
「うん!」
リーファもようやく口を開いた。
「いつから……ですか?」
「今日!」
沈黙。
「今日?」
セリナとリーファの声が綺麗に重なった。
透は両手で顔を覆った。
「だから俺にも分からないんだって……」
「透様がお腹いっぱい食べさせてくれて、私を背中に乗せて――」
「逆!」
透が即座に突っ込んだ。
「俺が乗ったんだ!」
「あ、そうだった」
「そこ間違えるなよ!」
セリナは何かを考えるように黙り込んでいる。
リーファも微妙な表情でルカと透を交互に見ている。
美琴はというと、三人を見比べていた。
セリナ。
リーファ。
ルカ。
そして透。
「……まあ」
美琴が小さく呟く。
「透さんも大変そうね」
「母さんのせいでもあるからな!?」
そこへ。
再び扉が開いた。
「戻ったぞー」
ノーノーが入ってくる。
その後ろからセシリアも姿を現した。
「ただいま戻りました」
二人とも広間へ入り――止まった。
普段より明らかに人数が多い。しかも妙な空気が流れている。
ノーノーが辺りを見回した。
「……なんじゃ?」
誰も答えない。
ノーノーは透を見る。セリナを見る。リーファを見る。知らない銀髪の少女を見る。美琴と隆志を見る。
「わしが出かけておる間に、何があった?」
「色々です」
明日華が答えた。
「色々で済む人数ではなかろう」
セシリアは美琴と隆志を見た。
「こちらの方々は?」
「ああ」
透が答えようとした、その前に。
「透様のお父様とお母様!」
ルカが答えた。
「そして私は透様のお嫁さん!」
「だから何でそこまで一緒に説明するんだ!」
ノーノーの眉が跳ね上がった。
「嫁?」
セシリアも透を見る。
「透さん」
「違う。いや、違わないらしいけど、俺はまだ――」
「どっちなんじゃ」
「俺が知りたい!」
ノーノーが腹を抱えて笑い始めた。
「はっはっはっは! なんじゃ透! ちょっと目を離した隙に嫁まで見つけたのか!」
「見つけてない!」
「見つけてもらった!」
ルカが胸を張る。
「ルカ、お願いだから今は黙って!」
「なんで?」
「話が進まないから!」
「もう十分進んどるぞ」
ノーノーは笑いが止まらない。
セシリアはそんな一同を眺めながら、こめかみに指を当てた。
「一度、順番に説明していただけますか?」
「私が説明する!」
ルカが手を挙げる。
「あなたは少し待ってください」
「はい」
セシリアには素直だった。
その時――。
三度、宿の扉が開いた。
「おう、戻ったぞ!」
ガルドの大きな声が響く。
その後ろからライガも入ってきた。
「随分賑やかだな」
二人は広間を見渡した。
そして止まる。
ライガが首を傾げた。
「……なんだ、この人数は?」
ガルドも腕を組む。
「朝より増えてないか?」
「増えました」
明日華が答える。
「誰が?」
「まず私たちの両親です」
「おお!」
ライガが美琴と隆志を見る。
「透の親か!」
「そして」
明日華が一拍置く。
「あにさまのお嫁さんです」
「明日華ぁ!?」
透が叫ぶ。
「おお!?」
ライガの目が輝く。
「嫁!?」
「はい!」
ルカが元気よく手を挙げた。
「私!」
「おお、そうか!」
「よろしく!」
「よろしくな!」
あっという間に握手を交わす。
「なんでライガまで即座に受け入れるんだよ!」
「何が問題なんだ?」
「そこから説明しないと駄目なのか!?」
ガルドが呆れたように息を吐いた。
ノーノーはまだ笑っている。
セシリアは状況整理を諦めかけている。
セリナとリーファは何とも言えない顔でルカを見ている。
結衣と明日華はすっかりルカを姉扱いし始めている。
真白は面白そうに眺めている。
蒼姫は静かに成り行きを見守り、ノアは何が起きているのか分からず、モモと顔を見合わせている。
美琴と隆志はなぜか満足そうだった。
その中心で、透だけが頭を抱えていた。
「……なんなんだよ、これ」
家族が増えた。
仲間も増えた。
父と母とも再会できた。
喜ぶべきことなのだ。間違いなく喜ぶべきことなのだが――。
なぜだろう。
今だけは、宗玄がいないことが少しだけ羨ましかった。
「じいちゃん……」
透は誰にも聞こえない声で呟いた。
「今、どこにいるんだよ……」
神代家集合。
ただし一名を除く。
そして宿の広間は今、かつてないほどの混沌に包まれていた。




