第十話 凱旋
獣牙族の里が見えてきた頃には、空はすでに夕暮れの色へと変わり始めていた。長い戦いを終えた討伐隊は、誰もが疲労の色を隠せずにいた。鎧には泥がこびりつき、衣服には煤が残り、ところどころに血の跡もある。それでも、足取りは重くない。全員、生きて帰ってきたのだ。
その先頭を歩くライガの肩には、巨大な牙が担がれていた。ザガンガの牙。災厄とも呼ぶべき魔獣を討ち取った、何よりの証だった。
「族長だ!」
「族長たちが帰ってきたぞ!」
里の見張り台から上がった声は、瞬く間に里中へ広がっていく。家々から人々が飛び出し、子供たちが走り、やがて里の入口には大勢の獣牙族が集まっていた。
ライガがその前で足を止める。後ろにはガルド。そして透、結衣、明日華、真白、蒼姫、セシリア、ノーノー。さらに共に戦った獣牙族の戦士たちが続く。
ライガはしばらく里の者たちを見渡し、肩に担いでいた巨大な牙を高々と掲げた。
「ザガンガは――討ったぞ!」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
ドンッ!
ライガが大地を踏み鳴らした。ガルドが続く。
ドンッ!
戦士たちも続いた。
ドン! ドン! ドン!
地面が揺れる。それに呼応するように、里に残っていた者たちも一斉に足を踏み鳴らした。
「ウォォォォォォ――ッ!」
轟音のような雄叫びが、夕暮れの里に響き渡った。戦士も、老人も、女たちも、子供たちまでもが拳を突き上げている。
「うおー!」
その中に混じって、真白も両手を上げていた。
結衣が吹き出す。
「真白までやってるし」
「勝ったのじゃ!」
「うん。勝ったね」
結衣は笑いながら答えた。
その瞬間、甲高い鳴き声が響く。
「きゅうっ!」
「ん?」
透が振り向くより早く、銀色の塊が一直線に飛んできた。
「うわっ」
透は反射的にそれを受け止めた。
「ラピス?」
『お帰り』
ラピスは透の胸へ顔を押しつけ、尻尾を千切れんばかりに振っている。
「はは……ただいま、ラピス」
透がその頭を撫でると、少し遅れて小さな足音が聞こえてきた。
「ラピス……待って」
ノアだった。人混みをかき分けるようにして走ってくる。透の前まで来ると、息を整えながらラピスを見る。それから透を見上げた。
「ノアも。ただいま」
ノアはしばらく透を見ていた。そして、小さく口を開く。
「……おかえり」
「ああ」
透は笑った。それだけで十分だった。
「ラピスー!」
結衣もやってきて、ラピスへ手を伸ばす。だが、その途中で顔が引きつった。
「いったたた……」
透がすぐに振り向く。
「結衣、大丈夫か?」
「平気平気」
「平気な顔じゃないだろ」
「ちょっと痛いだけだって」
そう言って結衣は笑う。ザガンガの尾にまともに吹き飛ばされたのだ。動けないほどではない。だが、何もなかったわけでもない。
「今日は大人しくしとけよ」
「分かってるって」
そう言いながらも、結衣はラピスの頭を撫で始めた。どうやら本当に元気ではあるらしい。それを見て、透もようやく肩の力を抜いた。
◇
「宴は明日だ!」
里へ戻って間もなく、ライガの声が響いた。
「今日は食って、風呂入って、寝ろ!」
その言葉に、戦士たちから笑いが起きる。
「族長が今日飲まないなんて珍しいな!」
「うるさい!」
「もう飲んでるんじゃないか?」
「誰が飲んでる!」
どうやら普段からこうらしい。透は苦笑した。
「……平和だな」
「そうですね」
隣にいたセシリアも、わずかに笑う。戦いの緊張が、ようやく切れ始めていた。
まずは湯へ入ることになった。泥と汗と血を落とさなければ、とてもではないが休めない。
湯に肩まで浸かった透は、深く息を吐いた。
「はぁ……」
隣ではガルドも同じように湯へ沈んでいる。
「疲れたな」
「ああ」
「……」
「……」
それ以上、特に話すこともなかった。今日はもう、それでよかった。
一方、女性たちの側はそう静かでもなかったらしい。結衣の痛む場所を明日華が気にし、真白が湯の中ではしゃぎ、ライガが大声で笑う。いつも通りの騒がしさが戻っていた。
湯を出た後は、軽い食事が用意された。明日の宴とは違い、温かい汁物と肉、それに腹を満たすための料理が中心だった。
透は食べながら、何度も欠伸をした。
「おにぃ、眠そう」
「眠い」
「私も」
「今日は早く寝よう」
「うん」
食事を終え、借りている部屋へ戻る。布団へ横になった途端、身体が沈んだ。
「おやすみ、おにぃ」
「ああ。おやすみ」
その直後、結衣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
「早……」
透は小さく笑う。だが、その透も数分ともたなかった。久しぶりに何も考えることなく、深い眠りへ落ちていった。
◇
翌日。
昼を迎える前から、里は騒がしかった。巨大な肉の塊が火にかけられ、酒樽が次々と運び込まれる。広場には長い卓が並べられ、その中央には昨日持ち帰ったザガンガの牙が置かれていた。
誰が見ても分かる。今日の宴の主役だ。
「飲めぇ!」
すでに酒杯を片手にしたライガが叫ぶ。
「今日は無礼講だ!」
ガルドが呆れたように見る。
「まだ昼だぞ」
「だからどうした!」
「いや、別にいいが」
里中から笑い声が上がる。楽器が鳴り始め、誰かが歌い出し、それに誰かが合わせる。子供たちは広場を走り回り、戦士たちは昨日の戦いを大げさに語っていた。
「俺がザガンガの前に立った時なんかな――」
「お前、後ろにいただろ」
「細かいことはいい!」
また笑いが起きる。
真白は焼き上がった肉を両手に持っていた。
「うまいのじゃ!」
「真白、それ何個目?」
「知らない!」
その足元ではラピスも肉をもらって夢中で食べている。
「ラピスまで……」
明日華が笑った。結衣も昨日の痛みなど忘れたように騒いでいる。完全にいつもの顔だった。
透はそんな光景を眺めながら、杯の中の飲み物を口へ運んだ。その隣にはセシリア。さらにノーノーもいた。
三人だけは、広場の騒ぎから少し離れた場所に座っている。視線の先には、巨大なアドの牙。
ノーノーが口を開いた。
「……やはり、おかしいのう」
透は杯を置く。セシリアも笑みを消した。
「ええ」
昨日の戦い。考えれば考えるほど、不可解なことが多い。
「魔法への耐性が高すぎました。通常の魔獣とは比較になりません。それに、あれほど強力な攻撃魔法を連続して使えること自体が異常です」
「周辺の魔素が減っても、ほとんど動きが鈍らなかった」
透も続ける。
ノーノーが腕を組んだ。
「普通の魔獣と考えるには、おかしなところが多すぎるのう」
「ええ」
三人が黙る。分からないことは多い。むしろ、戦う前より増えたと言ってもいい。
透は杯を手にしたまま、昨日の戦いを思い返した。
――それに、あれは……。
ザガンガと初めて刃を交えた時、見えるはずのものが見えなかった。
切断線。
これまでどれほど硬い相手でも、その存在を感じ取ることはできた。だが、ザガンガには何もなかった。まるで、斬るべき場所そのものが存在しないように。
それなのに――。
結衣が吹き飛ばされた、あの後。極限まで意識が研ぎ澄まされた中で、ほんのかすかに線が見えた。
そして、斬れた。
透はわずかに眉を寄せる。
問題は、見えたことではない。
――なぜ、最初は見えなかった?
あの線は何なのか。自分が見ているものなのか。それとも、相手の側に何か条件があるのか。
考えても答えは出なかった。
透は、その疑問を胸の奥へしまい込んだ。
アド『ザガンガ』は一体何だったのか。なぜ、あれほど強かったのか。なぜ、あれほど異常な性質を持っていたのか。
まだ答えはない。
その時。
「おーい! 透ぅ!」
広場の中央からライガの声が飛んできた。
「何を難しい顔してる!」
見ると、すでに顔を赤くしたライガが大きく手を振っている。
「こっち来い! 今日は宴だぞ!」
透は苦笑した。
ノーノーも肩をすくめる。
「まあ、今日はよかろう」
セシリアも微笑んだ。
「考えるのは、明日にしましょう」
「ですね」
透は立ち上がる。
広場ではまた、大きな笑い声が上がった。肉の焼ける匂い。酒杯のぶつかる音。歌声。子供たちの声。
真白とラピスが肉を巡って何やら騒いでいる。結衣がそれを見て腹を抱えて笑っていた。
透はしばらく、その光景を眺める。
分からないことは多い。課題も残っている。
だが――。
「まあ、今日はいいか」
透は笑った。
今日は勝った日なのだから。




