第八話 謎の生物
アドが倒れてから、しばらくの間、誰もその巨体へ近づこうとはしなかった。
洞窟の前に横たわった巨狼は、もう動かない。それでも、つい先ほどまで高位魔法を立て続けに放ち、傷つけば肉体を再生させ、刃さえ通さぬほど身体を硬化させていた魔獣である。
赤く燃えていた瞳から光が失われても、その姿にはまだ近寄りがたい迫力が残っていた。
最初に前へ出たのはガルドだった。
盾を構えたまま慎重に近づき、首筋へ手を当てる。しばらく様子を見たあと、大きく息を吐いた。
「……死んでる。今度こそ間違いねえ」
その言葉に、周囲から安堵の息が漏れた。ライガも肩の力を抜く。
「まったく。最後まで気の抜けない相手だったわ」
透は天羽乃斬を鞘へ収めた。
「これだけの魔獣です。何だったのか、調べておいた方がいいですね」
「ああ、それには賛成だ」
ガルドがアドの巨体を見下ろす。
「こんなのがもう一匹いたら、たまったもんじゃねえからな」
「もう一匹どころか、群れなんていたら笑えないわ」
ライガがそう言って、わずかに眉をひそめた。
討伐隊はまず負傷者の治療と休息を優先した。その間に、獣牙族の者たちを中心としてアドの解体が始まった。
巨体だけに、作業は容易ではない。獣牙族たちは手慣れた様子で厚い毛皮へ刃を入れていく。
硬化が解けた死後でさえ、皮膚は普通の魔獣とは比べものにならないほど分厚かった。
「うわ……」
透が剥がされた皮を見て思わず声を漏らす。
「これ、本当に刀が通ったんですね」
ガルドが鼻で笑う。
「お前、自分で斬っといて何言ってんだ」
「いや、改めて見るとですね」
「そこは素直に胸張っとけ」
「でも透の刃でも苦労していただろう?」
ライガが毛皮を指先で押す。
「生きている時は、これ以上に硬化していた。普通の武器じゃ無理だな」
その横で、ノーノーはしゃがみ込み、興味深そうに内部を覗き込んでいた。
「ふむふむ……これは面白いの」
「面白いで済ませるんですか」
透が苦笑する。
「こういうものはの、分からぬから面白いんじゃ」
ノーノーはそう言って、解体の進む胸部へ顔を近づけた。
太い筋肉。巨大な心臓。発達した肺。
どれも巨体を支える魔獣としては理解できる構造だった。
だが。
「……待て」
ノーノーの声色が変わった。
ガルドが振り向く。
「どうした?」
「魔核がない」
一瞬、誰も言葉を返さなかった。
「……ない?」
セシリアが聞き返す。
「そうじゃ。どこにもない」
ノーノーは胸腔の中を指差した。
「この大きさ、この魔力量。それなら相応の魔核があるはずじゃ。じゃが……ない」
透の表情がわずかに曇る。
「魔核を持たない生き物……」
ガルドも同じものを思い浮かべたらしい。
「魔鋼虫か」
空気が少し重くなる。
だがノーノーはすぐに首を振った。
「いや。身体の作りが違いすぎる。魔鋼虫と同じと考えるのは早計じゃ」
「じゃあ、どうやってあれだけ魔法を使ってたの?」
セシリアが問う。
「そこじゃ」
ノーノーが胸部の奥を指す。
心臓と肺の間に、見慣れない器官が存在していた。暗赤色で、拳よりも大きい。そこから太い管が何本も伸び、喉、筋肉、内臓へ複雑につながっている。
透が少し身を乗り出す。
「これ……何ですか?」
「分からん」
ノーノーは即答した。
「分からんが、ただの臓器ではなさそうじゃ」
慎重に触れる。
「わずかじゃが、まだ魔素の残滓がある」
ガルドが腕を組む。
「まさか、そいつが魔法を使わせてたってのか?」
「可能性は高いの」
ノーノーは器官から伸びる管を追う。
「喉へつながっておる。あの《フレア》とも関係がありそうじゃ」
「筋肉にもつながってますね」
透が言う。
「硬化……ですか?」
「それもあり得る」
ライガも覗き込んだ。
「治癒も?」
「おそらくはの」
ノーノーはさらに調べてから、胃や腸へ伸びる管を見つけた。
「ふむ……これは面白い」
ガルドが嫌そうな顔をする。
「またそれか」
「胃にもつながっておる」
ノーノーは嬉しそうに言った。
「つまり、食ったものから取り込んだ魔素を、この器官で何か別の形に変えておる可能性がある」
透が目を見開く。
「魔獣の魔核も?」
「あり得るの」
「じゃあ、自分では魔核を持たないけど、他の生き物の魔核を利用してるってこと?」
セシリアの問いに、ノーノーが頷く。
「そう考えれば、戦闘中の妙な継戦能力にも説明がつく」
ガルドが顔をしかめた。
「周りの魔素が薄くなって、こっちはどんどん動きづらくなってたのに、あいつだけは火を吐いて、硬くなって、傷まで治してやがったからな」
「周囲から直接取り込んでいたのかもしれませんね」
透が言う。
「それに、食べた魔獣の魔核から蓄えた分も使っていた」
「そうじゃな」
ノーノーは満足そうに髭を撫でた。
「魔核とは違う。じゃが、魔素を取り込み、変換し、必要な現象を起こすための器官。そう考えるのが自然じゃろう」
「厄介な生き物ね」
セシリアが小さく息を吐く。
「古文書には、そこまで書いてなかったの?」
「能力の記録はある。フレア、硬化、異常な治癒力。ただし身体の中身までは残っておらん」
ノーノーはアドを見下ろした。
「そもそも、今の時代に実物を見た者がおらんからの」
その時、解体を続けていた獣牙族の一人が手を止めた。
「ライガ」
「何?」
「こいつ、前にもかなり傷を負ってる」
剥がされた毛皮の下。筋肉には、いくつもの不自然な痕が残っていた。
表面からでは分からなかった古傷。刃物で裂かれたような跡。深く突き刺された痕。骨が一度砕け、その後癒着したと思われる部分まである。
ライガの表情が変わる。
「……治ったあとが残っているわね」
「ああ」
ガルドも近づいて確認した。
「こいつ、今回が初めての戦いじゃないな」
「ずいぶん前の傷でしょうか」
透が尋ねる。
「さあな」
ガルドが肩をすくめる。
「そもそも、こいつが何年生きるのかすら分からん」
さらに作業を進めていた獣牙族の一人が、筋肉の奥で刃を止めた。
「何かある」
周囲の肉を慎重に切り開く。
やがて、内部から古びた金属片が取り出された。
ライガが受け取る。
「……鏃?」
細長い形。独特の返し。長い間肉の中に埋まっていたらしく、表面は黒ずんでいる。
ガルドが手を差し出す。
「見せてみろ」
受け取って、しばらく眺める。
「人族の普通の矢じゃないな」
ライガも頷く。
「獣牙族でも、こんな形は使わないぞ」
透が横から覗き込む。
「かなり深くまで刺さっていたんですよね」
「ああ」
ガルドがアドの身体を見る。
「こんな化け物の皮と筋肉を抜いて、ここまで届かせたってことだ」
「相当な弓か、腕の持ち主ですね」
「そういうことになるな」
ノーノーも鏃を受け取り、しげしげと眺める。
「わしも見覚えがないの」
「ドワーフのものでもない?」
透が聞く。
「少なくとも、わしの知っておる形ではない」
しばしの沈黙。
アドは、誰かと戦ったことがある。それも一度ではない。
だが、その相手が誰なのか。どこで戦ったのか。何も分からない。
解体を終えると、一行はアドが棲みついていた洞窟の中も調べることにした。
入口は巨大だった。アドほどの巨体でも、身体を屈めることなく出入りできる。
先頭はライガ。その横にガルド。少し後ろに透とノーノー、セシリアが続く。獣牙族の手練れが周囲を固めた。
魔石灯を掲げながら奥へ進んでいく。
外の光はすぐに届かなくなった。聞こえるのは足音と、水滴が落ちる音だけ。
「静かですね」
透の声が洞窟内に響く。
「こんなところで、あんなものと鉢合わせしたくはねえな」
ガルドが前を見たまま答える。
「もう一匹出てきたら、私は帰るわよ」
セシリアがさらりと言う。
「お前がそれ言うのかよ」
「嫌なものは嫌よ」
そのやり取りに、透が少し笑った。
洞窟の内部そのものに、不自然なものはなかった。
自然にできた岩壁。湿った地面。ところどころに残る巨大な爪痕。
奥には、食い散らかされた魔獣の骨が積み重なっている。
ライガが一つ拾い上げる。
「牙猪ね」
別の骨も確認する。
「こっちは鹿型」
ガルドが周囲を見回した。
「この辺にいる連中ばかりだな」
「少なくとも、ここに来てからは普通に周囲の魔獣を食べていたようですね」
透が言う。
「そうみたいね」
さらに奥へ進む。
だが、人工物らしいものも、古い遺跡もなかった。
ただの巨大な洞窟。そして、アドの巣。
最奥まで調べても、それ以上の手掛かりは見つからなかった。
やがて一行は来た道を戻った。
洞窟の外へ出ると、傾き始めた陽の光が森を染めていた。
その先。遠くに連なる巨大な山脈が見える。
セシリアが立ち止まった。手には、先ほど見つけた鏃がある。
「古文書には記録がある。でも、今の私たちは誰も見たことがない」
ガルドが山脈へ視線を向ける。
「魔核もない。見たこともない臓器を持ってる。そのうえ、知らない鏃まで刺さってた」
「……どこか別の場所から来たんでしょうか」
透が静かに言った。
ノーノーが髭を撫でる。
「その可能性はあるの」
「たとえば」
ライガは遠くの山々を見つめた。
「……あの山の向こう、とか?」
誰もすぐには答えなかった。
風が森を渡り、木々の枝を揺らす。
透も山脈を見る。
その向こうに何があるのか。今の彼らには知る術がない。
「証拠はありません」
透が言った。
「でも、このアドがここで生まれたとは限らない」
「ああ」
ガルドが頷く。
「考える価値はある」
「じゃが、今すぐ確かめに行ける話でもない」
ノーノーが鏃を布へ包む。
「分からぬものを、無理に答えへ結びつける必要はないじゃろう」
「そうだな」
ライガも頷いた。
「今は持ち帰れるものだけ持ち帰る。それで十分」
未知の器官。古い鏃。そして、アドという存在そのもの。
それらを記録として持ち帰ることになった。
透は最後にもう一度、遠くの山脈を振り返った。
その向こうに何があるのか。
今はまだ、誰も知らない。
一行は洞窟を後にし、獣牙族の里へ向けて歩き始めた。




