第五話 族長との会談と宴
午後。
宿へ戻った透たちは身支度を整え、迎えに来た獣牙族の案内役とともに族長の館へ向かった。
町の中央から少し外れた高台。
そこには、周囲の家々より一回り大きな建物が建っていた。
「おお……」
館の中へ足を踏み入れた結衣が、思わず声を漏らす。
「なんか、想像してたのに近い」
「どんな想像してたの?」
明日華が尋ねる。
「もっとこう、強そうな感じ?」
「そのままだね」
実際、結衣の感想はそれほど間違っていなかった。
太い木材を組んだ梁に、石造りの壁。
床には大きな獣皮が敷かれ、壁には剣や槍、斧といった武器が並べられている。
どれも飾り物には見えない。
実際に使われてきたものなのだろう。
さらに奥の壁には――。
「……あれ、昨日の?」
結衣が指差した。
そこに掛けられていたのは、大きな黒い毛皮。
昨日倒したジャイアント・ブラックファングのものだった。
「もう飾ったんですか?」
透が驚くと、ライガが笑う。
「牙もそのうち飾るらしいぞ」
「早いですね……」
「うちはこういうの早いんだよ」
何がどう早いのか。
透にはよく分からなかった。
◇
館の奥には、大勢が集まれる広間が設けられていた。
その最奥。
大きな椅子に、一人の女性が座っている。
獅子を思わせる金色の鬣。
堂々とした体格。
年齢はライガより上だが、その眼光にも佇まいにも衰えはない。
現獣牙族族長――ファルガ。
「よく来た」
低く、よく通る声が広間に響いた。
「昨日のブラックファングの件では、うちの娘が世話になったそうだな」
「こちらこそ、突然加勢してしまって」
透が頭を下げる。
「はっはっは!」
ファルガが豪快に笑った。
「ライガから聞いたぞ。突然飛び込んできて牙を叩き折った大男に、目で追えんほど速い娘。それに、とんでもない弓を使う娘までいたとな」
ガルドが腕を組む。
「まあ、俺はちょっと殴り合っただけだ」
「剣でな」
「細けぇことはいいんだよ」
その横で、セシリアが小さくため息をついた。
ファルガは笑いながら一同を見渡す。
「して――」
そこで表情を少し改めた。
「そちらの代表は誰だ?」
その問いに、ノーノーが一歩前へ出る。
「わしが皆の代わりに務めよう」
「ほう」
「ノーノーという。まずはこちらを」
懐から二通の書簡を取り出した。
「一通は、極東の国アストレア王国からの親書。そして、もう一通はハイエルフの里の長からのものだ」
ノーノーはファルガの前へ進み、二通の書簡を差し出す。
「まずは一読していただきたい」
「分かった」
ファルガが受け取る。
広間が静かになった。
……ただし。
「みゃん」
完全な静寂にはならなかった。
透の腕の中で、ラピスが小さく鳴いた。
『ねむい』
「眠いのか?」
『うん』
「もう少しだからな」
「みゃ」
ラピスは透の胸へ顔を埋める。
そんな透は――。
なぜか広間のかなり上座に座らされていた。
「…………」
非常に居心地が悪い。
ノーノーより上。
セシリアより上。
しかもライガに近い位置である。
理由はもちろん、透自身ではない。
腕の中にいるラピスだった。
獣牙族にとってフェンリルは、ただの強大な魔獣ではない。
神の使い。
古くから獣牙族を見守り、時には共に暮らしてきた特別な存在だった。
かつてフェンリルは、この里の近くにいたという。
しかし、その存在が獣牙族に与える影響は、あまりにも大きかった。
何事もフェンリルに頼ろうとする者。
その存在を巡って争う者。
さらには、フェンリルを利用しようとする者まで現れた。
それを憂いたフェンリル自身が里を離れ、やがてハイエルフの里の祠へ移った。
それ以来、フェンリルが獣牙族の里へ戻ることはなかった。
数百年。
そして今。
その次代を担う幼いフェンリルが、突然帰ってきたのである。
里中が浮き足立つのも無理はなかった。
実際――。
「…………」
ファルガの視線が、ときどき親書から外れる。
ラピスへ。
戻る。
またラピスへ。
戻る。
透は気づかないふりをしていた。
隣では真白が、そんなファルガをじっと見ている。
そして、小声で透へ囁いた。
「とおるん」
「ん?」
「族長さん、ラピス抱っこしたそう」
「……やっぱり?」
「うん」
ものすごく分かりやすかった。
「みゃん」
『だっこ?』
「いや、今はいい」
『?』
ラピスが首を傾げる。
広間の反対側。
ファルガの脇にはライガが座っている。
そのさらに下座には――。
「…………」
ミルガ。
背筋を伸ばし、ぴしりと正座していた。
午前中、結衣へ勝負を挑んできた少女とは思えないほど緊張している。
結衣と目が合った。
「…………」
「…………」
ミルガが、わずかに目を逸らす。
結衣は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
やがて。
ファルガが二通目の書簡を読み終える。
「……なるほどな」
書簡を膝の上へ置く。
広間の空気が変わった。
「北の魔鋼虫が動き始めた。それも、千年前と同じ規模になる可能性がある……か」
「その可能性は高い」
ノーノーが答える。
「我々は南の各種族へ協力を求めて回っておる」
「ふむ」
ファルガは腕を組み、考え込む。
――かと思えば。
「分かった」
「……ほう?」
「うちからも戦える者を出そう」
あまりにも早い返事だった。
ファルガは隣を見る。
「ライガ」
「はい」
「お前が同行しろ」
「分かりました」
「戦が本格的に始まる時期が来たら知らせをよこせ。それまでに、こちらも兵をまとめておく」
「承知しました」
ノーノーが感心したように笑った。
「即決ですな」
「ああ」
ファルガは迷いなく頷く。
「最近、魔獣の動きがおかしいことは、こっちでも分かっていた」
昨日のブラックファング。
あれほどの個体が街道近くまで現れた。
それだけでも、何かが起きている兆候としては十分だった。
「それに――」
ファルガがハイエルフからの書簡へ手を置く。
「昔、ハイエルフの古老には世話になったことがある」
「ほう」
「あの方々が危機だと言うなら、信じない理由はない」
ノーノーがゆっくり頷いた。
「ありがたい」
「なに」
ファルガは口元を吊り上げる。
「敵が来るなら戦う。それだけだ」
ライガも笑っている。
ガルドなど、完全に気が合いそうな顔をしていた。
「では、細かな話については――」
ノーノーが続きを切り出そうとした。
が。
「よし!」
ファルガが突然、膝を叩いた。
バンッ!
広間に大きな音が響く。
「これで堅苦しい話は終わりだ!」
「……は?」
「宴だ!」
ファルガが立ち上がる。
「宴にするぞ!」
「母上……」
ライガが苦笑した。
セシリアが額へ手を当てる。
「この親にして、この娘ありですね……」
「何か言ったか?」
「いいえ。何も」
ファルガは満足そうに頷く。
そして――。
ちらり。
またラピスを見る。
「…………」
透は確信した。
この族長。
さっきからずっと、ラピスを抱きたくて仕方がないのだ。
真白が透の袖を引く。
「とおるん」
「うん」
「抱っこさせてあげたら?」
「……そうするか」
「みゃん?」
『なに?』
何も知らないラピスだけが、透の腕の中で不思議そうに首を傾げていた。
◇
会談を終えた一行は、そのまま館の奥にある大広間へ案内された。
天井は高く、全体が緩やかなドーム状になっている。
百人どころか、それ以上が集まっても余裕がありそうな広さだった。
普段は宴や集会に使われるが、時には屋内の闘技場としても使われるらしい。
「ここでも戦うんだ……」
結衣が呟く。
「獣牙族ですからね」
セシリアは、もう驚く気もないようだった。
広間にはすでに長机がいくつも並べられ、大皿料理や酒樽が次々と運び込まれている。
肉。
肉。
そしてまた肉。
もちろん野菜や豆料理、平パンもあるのだが、どう見ても主役は肉だった。
獣牙族たちが次々と広間へ集まってくる。
その数は、あっという間に百人を超えた。
やがてファルガが中央へ進み出る。
「皆、よく聞け!」
広間が静まった。
「遠方より、戦いの知らせを持って友が来た!」
ファルガの声が、ドーム状の天井へ響き渡る。
「そして――」
視線が透の腕の中へ向く。
「フェンリル様とともにな!」
「おおおおおおっ!」
広間が揺れた。
ラピスが驚いて耳を伏せる。
「みゃっ」
『びっくり』
「大丈夫だよ」
透が頭を撫でる。
ファルガは満足そうに頷くと、高々と腕を上げた。
「さあ!」
一拍。
「宴だぁぁぁぁ――!」
「うおおおおおおおっ!」
歓声が上がる。
酒杯が掲げられ、楽器が鳴り始める。
あっという間に宴が始まった。
◇
そして。
宴開始から、ほんの数秒後。
「…………」
透の目の前に、ファルガが立っていた。
「……族長?」
「…………」
返事がない。
ファルガは黙ったまま、透の腕の中にいるラピスを見つめている。
「みゃ?」
ラピスが首を傾げる。
ファルガの視線も、それに合わせてわずかに動いた。
透は少し考え――。
「あの」
「なんだ」
「ラピス、抱っこします?」
「…………!」
一瞬。
ファルガの肩がびくりと動いた。
透はラピスを見る。
「この人が抱っこしてくれるって」
「みゃん」
ラピスはファルガをじっと見る。
そして、小さな前脚を持ち上げるようにして、身体を前へ伸ばした。
『だっこ』
透が笑う。
「ラピスが、抱っこしてって言ってます」
「……本当か?」
「はい」
ファルガは両手を差し出した。
震えている。
「族長?」
「震えてなどおらん」
「いや、かなり震えてますけど」
「震えておらん!」
声まで震えていた。
透は苦笑しながら、そっとラピスを渡した。
「では」
「お、おお……」
ファルガがラピスを受け取る。
「みゃん」
その瞬間。
「…………」
ファルガの動きが止まった。
柔らかな銀色の毛。
腕の中に収まる小さな身体。
澄んだ青い瞳。
「フェンリル様が……」
抱いている。
「フェンリル様が……この腕に……」
「族長、大丈夫ですか?」
「少し……目眩がした」
「母上……」
隣にいたライガが呆れた。
しかし。
ファルガの周りには、いつの間にか側近たちが集まっている。
「おお……」
「なんと尊い……」
「フェンリル様……」
中には本当に両手を合わせ、拝み始める者までいた。
「ちょっと待て」
ライガが額を押さえる。
「宴だぞ。祭壇じゃねぇんだぞ」
誰も聞いていなかった。
「みゃん?」
『みんな、なにしてるの?』
ラピス本人だけが、何も分かっていない。
◇
そして。
広間の反対側にも、別の人だかりができていた。
中心にいたのは――真白だった。
「…………」
真白は何人もの獣牙族に囲まれ、少し困った顔をしている。
「これほど美しい毛並みは見たことがない」
一人の女性が、真白の白い耳を見つめる。
「見慣れぬ獣人だな。どこの里から来たのだ?」
「えっと……」
別の年老いた獣牙族が、真白をじっと見た。
「いや」
目を細める。
「この娘から感じる力……尋常ではない」
周囲が静かになった。
「そなた……神の使いなのか?」
「えっ」
真白が目を丸くする。
「ち、違うよ!」
「では、何者なのだ?」
「真白は……」
真白は困ったように周囲を見回す。
そして、一生懸命に答えた。
「真白は真白!」
「ほう」
「神代家の、結衣姉と明日華姉と蒼姫姉の妹で……」
指を折りながら続ける。
「それで、とおるんの妹!」
一同が沈黙する。
「……それだけ?」
「それだけ!」
真白は胸を張った。
「なるほど」
「分からん」
「だが可愛いな」
「うん、可愛い」
「え?」
女性の獣牙族が真白の頭を撫でる。
「わっ」
「本当に柔らかい」
「耳も可愛い」
「えへへ……」
最初こそ困っていた真白だったが。
撫でられ。
褒められ。
さらに別の女性から毛並みを褒められ。
気づけば――。
「むふー」
完全にご満悦だった。
◇
「おらぁ!」
「まだまだぁ!」
別の場所では、ガルドとライガが酒杯を叩きつけていた。
「次!」
「持ってこい!」
「お前、結構飲むじゃねぇか!」
「そっちこそ!」
酒樽がひとつ空になる。
「……何してるんですか、あの二人」
セシリアが冷たい目を向ける。
ノーノーが肩をすくめた。
「放っておけ」
「昨日もそれでガルドは朝起きなかったんですが」
「今日はライガも一緒だ」
「余計悪いでしょう」
その横では、結衣とミルガが肉を取り合っている。
「それ私が取った!」
「早い者勝ちだ!」
「今のなし!」
「勝負の世界に『なし』はねぇ!」
「食事で勝負しないでよ!」
明日華はその様子を見て笑い、ノアはラピスのための肉を小さく切っている。
人化した蒼姫は、珍しそうに獣牙族の酒を眺めていた。
ファルガは、まだラピスを離さない。
真白は女性陣の中心で撫で回されている。
ガルドとライガは飲み比べ。
結衣とミルガは何かにつけて張り合い始めた。
時間が経つにつれ。
歌う者。
踊る者。
腕相撲を始める者。
床の端では、いつの間にか即席の力比べまで始まっていた。
「……宴っていうか」
透が広間を見渡す。
「もうお祭りだな」
「獣牙族ですから」
セシリアが諦めたように言った。
そして、夜は更けていった。
◇
翌朝。
大広間には――。
「…………」
獣牙族も。
ガルドも。
ライガも。
あちらこちらに転がっていた。
椅子にもたれた者。
机に突っ伏した者。
壁際で肩を組んだまま眠っている者。
見事なまでの雑魚寝だった。
「……すごいな」
透が呟く。
その足元では、真白が丸くなって眠っている。
そして少し離れた場所には――。
ラピスを抱いたまま眠るファルガ。
「…………」
透はしばらくその姿を見つめた。
「まあ……いいか」
宴は、大成功だったらしい。




