第七話 帰る場所
懐かしい名前。
懐かしい家族。
遠く離れた地球から届いた、確かな想い。
結衣が、そっと透を見る。
「おにい」
透はしばらく画面を見つめていた。
やがて、静かに頷く。
「……見よう」
結衣が最初の動画に触れた。
画面が暗くなり、やがて一人の女性の姿が映し出される。
神代美琴。
透の母だった。
映像の中の美琴は、いつものように穏やかに微笑んでいた。
だが、その目元には、隠しきれない心配と強い決意が宿っている。
『透』
画面の中から、美琴が呼びかけた。
『無事でいてくれていると、信じています』
その声を聞いた瞬間、透はようやく、自分がどれほど遠くまで来てしまったのかを思い知らされた。
けれど同時に、自分は決して一人ではなかったのだと、そのことも胸の奥へ深く染み込んでいった。
『この映像を見ているということは、結衣たちはあなたのもとへ辿り着けたのですね』
美琴の声は穏やかだった。
『あなたのことですから、きっと結衣たちを危険から遠ざけようと考えるでしょう』
透は思わず息を呑んだ。
まるで、自分の胸の内を見透かされたようだった。
結衣たちの、これからのこと。
なし崩しのように、結衣も、明日華も、真白も、蒼姫も、魔鋼虫との戦いに関わることになってしまった。
結衣と明日華は、まだ十四歳の少女である。
真白も蒼姫も、神代家の大切な家族だ。
透にとって、何よりも守らなければならない存在だった。
本当なら、危険な戦いから遠ざけるべきではないのか。
自分一人が前に出ればよいのではないか。
そんな考えが、心のどこかにあった。
だが、画面の中の美琴は、その迷いさえ最初から分かっていたかのように続けた。
『でも、忘れないでください。どんなときも、結衣たちと一緒にいなさい』
美琴の声は穏やかで、それでいて強かった。
『家族は、離れてはいけません』
その一言が、透の胸に深く落ちた。
守るとは、遠ざけることだけではない。
一緒に立ち、一緒に生き、一緒に帰ること。
それが神代家の家族の在り方なのだと、母は最初から分かっていたのだ。
「……母さんには、かなわないな」
透は小さくつぶやいた。
ふと顔を上げると、結衣が端末を覗き込むように身を乗り出している。
明日華は真剣な表情で画面を見つめ、真白は結衣の膝の上で尻尾を揺らしていた。
蒼姫は明日華の肩にとまり、透を見つめている。
ノアもまた、少し離れた椅子の上から、何か大切なものを受け止めるように映像を見ていた。
無邪気で、まっすぐで、何よりも大切な妹たち。
そして、この世界で出会い、今は自分たちのそばにいる小さな少女。
透は皆の姿を見つめながら、改めて心に誓った。
必ず守る。
誰一人欠けさせず、必ず元の世界へ連れて帰る。
この先に、どれほど過酷な戦いが待っていたとしても。
神代透は、家族と共に進む。
その覚悟を、胸の奥へ深く刻み込んだ。
美琴の映像が終わると、部屋の中に余韻が残った。
結衣は袖で目元をこすっている。
明日華も、いつもの凛とした表情のまま、唇をきゅっと結んでいた。
真白は結衣の膝の上で小さく丸まり、黙っている。
蒼姫も何も言わなかった。
ノアは、カップを握る手に少しだけ力を込めていた。
透はしばらく暗くなった画面を見つめていたが、やがて次の動画に触れた。
『父より』
画面が切り替わる。
そこに映ったのは、神代隆志だった。
隆志は、いつもの穏やかな表情をしていた。
けれど、その声には父親としての厳しさがあった。
『透』
隆志が呼びかける。
『その世界がどのような場所なのか、父さんには分からない。だが、一つだけ覚えておいてほしい』
隆志は、少し間を置いてから続けた。
『この端末を現地の人々に見せるときは、慎重にしなさい』
透は、画面を見つめたまま息を呑んだ。
『場合によっては、とんでもないオーバーテクノロジーとして扱われるかもしれない。便利な道具は人を救うこともある。だが同時に、争いや軋轢を生むこともある』
父の言葉は淡々としていた。
だからこそ、重かった。
『すぐに公開してはいけない。まずは状況を見なさい。誰を信じられるのか。何を見せてよいのか。何を伏せるべきなのか。それをよく考えなさい』
隆志はそこで、少しだけ表情を和らげた。
『安心していい。この端末に入っているのは、良心的な一般社会のデータだけだ。危険な兵器の作り方や、人を傷つけるための知識は入れていない。結衣たちの学習には、安心して使わせなさい』
そして最後に、隆志はまっすぐ透を見た。
『結衣たちを頼んだよ、透』
その言葉に、透は目を伏せた。
「……父さんまで、全部分かっていたんだな」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
母は、家族は離れてはいけないと告げた。
父は、知識の扱いを誤るなと告げた。
どちらも、透たちがこの世界で生きていくために必要な言葉だった。
隆志のメッセージが終わったあと、画面には最後の動画が残されていた。
『宗玄より』
透は、その文字をしばらく見つめた。
祖父、神代宗玄。
天剣無限流十八代宗主。
透に剣を教えた人。
透を、神代の剣士として育てた人。
結衣が、そっと透を見上げる。
「おにい、見る?」
「ああ」
透は頷いた。
結衣が動画に触れる。
画面が暗くなり、やがて宗玄の姿が映し出された。
そこは、神代神社の道場だった。
宗玄は道着姿で、いつものように背筋を伸ばして座っている。
年老いてなお、その姿には一分の隙もない。
『透』
宗玄は、低く落ち着いた声で呼びかけた。
『お前がこの映像を見ているということは、結衣たちは無事にお前のもとへ辿り着いたのだな』
宗玄は少しだけ目を細めた。
『ならば、まずはよく生きていた。それだけでよい』
透の喉が、わずかに詰まった。
宗玄は、余計な慰めを口にする人ではない。
だからこそ、その一言が胸に響いた。
『透。お前が天羽乃斬を手にしたことは、偶然であって偶然ではないのかもしれん』
宗玄が続ける。
『だが、わしが語れるのは刀の縁ではない。わしが教えたのは、剣の理と心の置き所だけだ』
画面の中の宗玄が、まっすぐ透を見た。
『忘れるな。剣は、人を斬るためだけのものではない』
透は黙って、その言葉を受け止めた。
『守るべきものを、守るためにある』
宗玄は、ゆっくりと言葉を続ける。
『迷うな。だが、己を見失うな。怒りに呑まれるな。恐れに足を取られるな。お前の剣は、お前一人のものではない。お前を信じる者たちの想いを背負う剣だ』
宗玄はそこで、ほんのわずかに表情を和らげた。
『荷物の中に、小さな根付けを入れてある』
透は思わず顔を上げた。
『わしが若い頃より持っていたものだ。天剣無限流の宗主が、己の心を見失わぬために身につける守りのようなものと思えばよい』
宗玄は続けた。
『今のお前に、正式に宗主を継げと言うつもりはない。だが、お前はもう、神代の剣を背負って立っている』
その言葉に、透の胸が熱くなった。
『持っていけ。迷ったときは、それを握れ。そして思い出せ。お前には、帰る場所がある』
宗玄は最後に、深く頷いた。
『結衣たちを頼む。だが、透。お前自身もまた、必ず帰ってこい』
そこで映像は終わった。
部屋の中に静けさが戻る。
結衣は何も言わず、自分のリュックを探った。
やがて、小さな布袋を取り出す。
「これ……かな」
透はそれを受け取った。
中には、黒檀で作られた小さな根付けが入っていた。
掌に収まるほどの大きさ。
翼を畳んだ八咫烏をかたどっている。
裏側には、二文字が小さく刻まれていた。
『無限』
透はその文字を、親指でそっとなぞった。
天羽乃斬とは違う。
これは、武器ではない。
それでも、確かな重みがあった。
祖父の手から、父と母の想いを越えて、自分へ届いたもの。
神代家の剣を背負う者としての、静かな証だった。
「……爺ちゃん」
透は、根付けを強く握りしめた。
そして、胸の内で誓った。
必ず帰る。
結衣たちを連れて。
この手に託されたものを、決して見失わずに。
すべてのメッセージを見終えたあとも、透はしばらく端末を見つめていた。
父の言葉は、現実的だった。
この端末は、ただの便利な道具ではない。
この世界にとっては、使い方次第で危険な知識の塊にもなり得る。
むやみに見せるべきではない。
むやみに使うべきでもない。
透は息を吐くと、端末を丁寧に巻き戻した。
「これは、しばらくしまっておこう」
「えー、見ないの?」
結衣が少し残念そうな声を上げた。
「勉強用なんだろ。だったら、今すぐ始めなくてもいい」
「……おにい、それってつまり」
結衣の目が、期待にきらりと光る。
「しばらく勉強なし?」
「全部なしとは言ってない」
「言ってないけど、今はなしってことだよね?」
結衣が、ぱっと笑う。
明日華も小さく息をつき、わずかに肩の力を抜いた。
「確かに、今すぐ机に向かう気分ではありませんね」
「真白も! 真白もお勉強より、お外を見たい!」
真白が両手を上げると、蒼姫も明日華の肩の上で小さく鳴いた。
透は、そんな妹たちを見て苦笑した。
突然この世界へやってきて、戦いに巻き込まれ、知らない土地を旅している。
本来なら、夏休みに友達と遊びに行ったり、家でだらだら過ごしたりしていたはずの年頃だ。
ならば、少しくらいはよいだろう。
この世界を、怖い場所としてだけではなく、広く、不思議で、美しい場所として見てもらってもよいはずだ。
「落ち着いたら、ちゃんと勉強するぞ」
「はーい」
「返事が軽い」
「だって、今は夏休みみたいなものだもん」
結衣がそう言って笑う。
透はその言葉に、少しだけ胸を痛めた。
ここは、本当の夏休みではない。
魔鋼虫という脅威があり、戦いがあり、帰る方法もまだ分からない。
それでも、今この瞬間だけは。
妹たちがこの異世界に目を輝かせる時間を、守ってやりたいと思った。
「……そうだな。少しだけ、夏休みだ」
透は端末を筒に収めると、大切に荷物の奥へしまった。
その夜、王都グランセルの客室には、久しぶりに穏やかな空気が流れていた。
遠く離れた地球の家族の想い。
この世界で共に進む妹たちの笑顔。
そして、掌に残る黒檀の根付けの重み。
そのすべてを胸に抱きながら、透は夜の窓辺へ目を向けた。
王都の灯りは、まだ消えていない。
そして、神代家の旅もまた、終わってはいなかった。
そのとき、控えめなノックの音がした。
透が顔を上げる。
「はい」
扉の向こうから、聞き慣れた声が届いた。
「透様。セリナです。少しだけ、よろしいでしょうか」
透は一瞬、荷物の奥へしまった銀色の筒を見た。
父の言葉が、胸の中に蘇る。
誰を信じられるのか。
何を見せてよいのか。
何を伏せるべきなのか。
セリナを信じていないわけではない。
けれど、今はまだ、この端末を見せるときではない。
透は小さく息を吐き、根付けを懐へしまった。
「どうぞ」
扉が開き、セリナが部屋へ入ってくる。
その表情には、戦いの疲れと、透たちを気遣う優しさが浮かんでいた。




