第五十四話 蒼天の弓と新たな旅立ち
奉納の舞を終えた翌朝。
ハイエルフの里には、出立を迎える慌ただしさが漂っていた。
族長の家の前では、結衣とノアが荷物を確認し、真白は不必要なものまで鞄へ詰め込もうとして明日華に止められている。
人の姿を取った蒼姫は、少し離れた場所で、その様子を微笑みながら眺めていた。
透は自分の荷を背負い直すと、足元へ視線を落とした。
銀色の毛並みを朝の光に輝かせながら、ラピスがちょこんと座っている。
「ラピスの準備はできたか?」
「みゃん」
「それなら大丈夫だな」
何が大丈夫なのかは分からなかったが、ラピスは元気よく尻尾を振った。
そこへ、族長の家へ続く道から、一人のハイエルフが歩いてきた。
「明日華殿」
声をかけられ、荷物をまとめていた明日華が振り返る。
立っていたのは、明日華の弓を作っていた弓匠の長だった。
「弓が完成した。試してもらいたい」
明日華の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ。出立に間に合ってよかった」
弓匠の長はそう言うと、森の奥へ続く道を示した。
「試射場へ来てくれ。皆にも見てもらいたい」
◇◇◇
里の外れに設けられた試射場には、透たちだけでなく、ファルゼンやフィレオナ、リーファ、セリナたちも集まっていた。
前方には木で作られた的が並び、そのさらに先には大きな岩壁がそびえている。
やがて、数人の弓匠が細長い布包みを運んできた。
弓匠の長が、その布をゆっくりとほどく。
中から現れたのは、明日華がこれまで使っていた和弓よりも、ひと回り大きな弓だった。
弓身は深みのある青色を帯びている。竹にも似た節があり、朝の光を受けるたび、表面に淡い光沢が浮かんだ。
派手な装飾はない。
だが、無駄のない弧を描くその姿には、見る者を圧するほどの力強さがあった。
明日華は目の前の弓を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。
「この弓は、里の奥に育つ蒼い霊竹を芯に使っている」
弓匠の長が弓身へ手を添える。
「そこへ複数の素材を重ね、強度としなやかさを高めた。明日華殿の身体と、弓の引き方に合わせて作ったものだ」
「私のために……」
「ああ。ほかの者には、まともに扱えまい」
その言葉に、ガルドが眉を上げた。
「そりゃ、試してみたくなるな」
「ガルドさん?」
セシリアが嫌そうな顔をしたが、ガルドは気にせず前へ出る。
「壊したりはしねえよ。どれくらいの弓か確かめるだけだ」
弓匠の長から弓を受け取ると、ガルドは片足を引き、太い腕に力を込めた。
弓身が、ゆっくりとしなり始める。
「ぬ……!」
ガルドの腕と肩の筋肉が大きく盛り上がった。
それでも弦は、半ばほどまでしか引かれない。
「こいつは……とんでもねえな」
ガルドは息を吐き、慎重に弦を戻した。
「俺でもこれかよ」
「だから申したであろう。明日華殿のための弓だ」
弓匠の長はガルドから弓を受け取ると、明日華へ差し出した。
「持ってみてくれ」
「はい」
明日華は両手で弓を受け取った。
重さを確かめるように何度か握り直し、静かに構える。
透たちの視線が集まる中、明日華は弦へ指をかけた。
小さく息を吸う。
そして――一息に引き絞った。
青い弓身が、美しい弧を描く。
ガルドが半分までしか引けなかった弓を、明日華は震えることなく引き切っていた。
「おお……」
周囲のハイエルフたちから、感嘆の声が漏れる。
弓匠の長は、満足そうに何度もうなずいた。
「やはり、見込んだとおりだ」
明日華はゆっくりと弦を戻し、手の中の弓を見つめた。
「とても重いです。でも、力が逃げません。引いた力が、そのまま弓の中へ蓄えられていくように感じます」
「試してみるか?」
「お願いします」
弓匠から渡された矢も、通常のものより太く、長かった。
強い弓に耐えられるよう、鏃から矢羽まで特別に作られている。
明日華は射線へ立つと、遠くの岩壁を見据えた。
「的ではなく、あの岩を狙ってくれ」
弓匠の長が指し示したのは、試射場の最も奥にある大岩だった。
「分かりました」
明日華が矢をつがえる。
それまで小さく話していた者たちも、自然と口を閉じた。
風が止まる。
明日華の長い髪が、肩の後ろへ静かに流れた。
足を定め、腰を落ち着かせる。
弓を持ち上げ、呼吸に合わせて引き絞っていく。
青い弓身が大きくしなった。
狙いを定める明日華の横顔から、幼さが消える。
次の瞬間――
弦が鳴った。
放たれた矢は、目で追う間もなく姿を消した。
直後、空気を叩く鋭い音が響く。
遠くの大岩が、内側から弾けるように砕けた。
破片と白い粉塵が周囲へ飛び散り、遅れて低い音が試射場まで届く。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
「……岩が壊れた」
結衣が呆然とつぶやく。
「明日華ねぇ、すごい!」
真白が両手を上げて喜んだ。
「あにさま」
明日華自身も驚いた顔で、透を振り返る。
「矢が見えませんでした」
「俺にも見えなかった」
透は砕けた岩を見つめた。
これまでの明日華の矢も十分に速かった。
だが、今の一射はまるで違う。
矢が放たれた後を、音だけが追いかけてきたように感じられた。
ノーノーが目を細める。
「音より速かったかもしれぬのう」
「魔鋼虫の甲殻も、正面から射抜けそうだな」
ガルドが楽しそうに笑う。
セシリアは砕けた岩と明日華を交互に見た後、深く息を吐いた。
「味方で本当によかったわ」
明日華は弓を下ろし、改めて弓匠の長へ向き直った。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「その弓は、お前が引いて初めて完成する」
弓匠の長は静かに告げた。
「名は決めてある」
青い弓身を見つめ、ゆっくりと言葉を続ける。
「蒼天の弓」
「蒼天の弓……」
明日華が、その名を確かめるように繰り返した。
「はい。この弓とともに、皆様をお守りします」
弓匠の長は、満足そうにうなずいた。
◇◇◇
試射を終えた一行は、里の入口へ集まった。
森を抜けた先には、獣人族の里へ続く道が伸びている。
透たち神代家とノア、ラピス。
そしてガルド、セシリア、ノーノーは、まず獣人族の里へ向かう。
セリナとリーファは、アストレア王国とハイエルフを代表し、後ほどドワーフの里へ向かうことになっていた。
ファルゼンとフィレオナをはじめ、里の人々が見送りに集まっている。
「透殿」
ファルゼンが一歩前へ出た。
「短い間ではあったが、そなたたちをこの里へ迎えられたことを、うれしく思う」
「こちらこそ、本当にお世話になりました」
透は深く頭を下げた。
「千年前のことも、今のパンゲアで何が起きているのかも、この里へ来なければ知ることはできませんでした」
「知った者には、なすべきことが生まれる」
エルンファーゼンが、古老たちの前から告げる。
「されど、すべてを一人で背負う必要はない。昨日の舞で、そなたたち自身が示したようにな」
「はい」
透は家族の顔を見回し、うなずいた。
「みんなで進みます」
フィレオナはリーファへ向き直った。
「リーファ」
「はい、母様」
「あなたも、己の役目をしっかり果たしてきなさい。ただし、無理はしないように」
「分かっています」
リーファはそう答えたものの、視線が一瞬だけ透へ向かう。
目が合うと、リーファは慌てたように顔をそらした。
「リーファ?」
「な、なんでもないわ」
透は首をかしげる。
その横で、明日華が小さく笑った。
「何?」
結衣が明日華へ顔を寄せる。
「いいえ、何でもありません」
明日華は涼しい顔で答えた。
リーファはそれ以上透を見ようとせず、耳までわずかに赤くしていた。
「セリナ」
透が声をかけると、セリナは穏やかに微笑んだ。
「ドワーフの里でお待ちしています」
「はい。獣人族の里での話を終えたら、俺たちも向かいます」
「どうか、お気をつけて」
「セリナたちも」
セシリアがセリナの肩へそっと手を置いた。
「先に行って、話をまとめすぎないでくださいね。私たちの意見を残しておいてください」
「もちろんです」
ガルドが大きく笑う。
「俺たちが着く前に宴会を始めるんじゃねえぞ」
「そなたは何をしに行くつもりじゃ」
ノーノーが呆れた声を出した。
「ドワーフの里だぞ。酒があるに決まってるだろ」
「ガルドさん」
セシリアの冷たい声に、ガルドの笑いが止まる。
「……冗談だ」
「目が本気でしたけれど」
見送りの人々から、笑い声が上がった。
張り詰めていた別れの空気が、少しだけ和らぐ。
透は改めてハイエルフの人々へ頭を下げた。
「それでは、行ってきます」
「また来ます!」
結衣が大きく手を振る。
「お世話になりました」
明日華は蒼天の弓を背負い、丁寧に一礼した。
「真白もまた来る!」
「みゃん!」
ラピスも別れを告げるように鳴いた。
里の子供たちが、一斉に手を振り返す。
透たちは森の道へ足を踏み出した。
先頭を歩く透の隣に結衣が並び、明日華と真白がその後へ続く。
人の姿の蒼姫、ノア、ガルド、セシリア、ノーノー。
そしてラピスは、いつの間にか透の頭の上へ乗っていた。
「ラピス、そこが気に入ったのか?」
「みゃん」
透は苦笑しながらも、そのまま歩き続けた。
明日華が一度だけ振り返る。
神樹の大きな枝の下で、ハイエルフの人々がまだ手を振っていた。
リーファも、その中にいる。
「あにさま」
「どうした?」
「いいえ。ただ……また、ここへ戻ってきたいと思いまして」
「ああ。今度は母さんたちも一緒にな」
「はい」
明日華は笑顔でうなずき、前へ向き直った。
森の木々の間から、明るい光が差し込んでいる。
透たちの前には、まだ知らない獣人族の里への道が続いていた。
その先にはドワーフの里があり、さらにその先には、目覚めた魔鋼虫の巨大コロニー群が待っている。
千年前には分かたれていた人々を、今度こそ一つにつなぐために。
新たな旅が始まった。
◇
その頃。
誰もいないフェンリルの祠、その奥深く。
暗闇に閉ざされていた空間が、突如として白い光に満たされた。
――第二部 完




