第五十三話 奉納の舞
ハイエルフの里を発つ前日の午後。
透は、族長ファルゼンと古老たちの前に立ち、静かに頭を下げた。
「明日の出立を前に、一つお願いがあります」
「何だろうか」
「今夜、神樹の前で舞を奉納させていただけないでしょうか」
ファルゼンが、わずかに目を見開く。
「奉納の舞を?」
「はい」
透はうなずき、神樹を見上げた。
「この里の皆さんだけでなく、私たちを最初に受け入れてくださったアストレアの人々、旅の途中で出会った方々、そして、こうして私たちが生きて歩いているこの世界へ、感謝を捧げたいと思います」
見知らぬ世界へ突然放り出されてから、透たちは多くの人に助けられてきた。
グランドワイズの人々。
アストレア王国の兵士や冒険者たち。
ラザール、サーディル、ミルファで出会った者たち。
そして、森の奥深くへ入ってきた透たちを受け入れ、千年前の記憶を明かしてくれたハイエルフの人々。
どこか一つでも欠けていれば、自分たちはここまで来られなかった。
「言葉だけでは伝え切れません。ですから、神代家に伝わる舞をもって、感謝を表したいのです」
透の後ろにいた結衣が、すぐにうなずいた。
「私もやりたい。私たちも、この世界の人たちにたくさん助けてもらったから」
「私も賛成です」
明日華も迷いなく続く。
「真白も鈴を鳴らす!」
「では、笛は私が受け持ちましょう」
蒼姫も穏やかに微笑んだ。
ファルゼンは一人一人の顔を見渡したあと、深くうなずいた。
「ありがたく、その舞を受けさせていただこう。神樹の前に舞台を用意させる」
「ありがとうございます」
透は、もう一度頭を下げた。
◇◇◇
準備を始めることになり、透は荷物の中から一着の作務衣を取り出した。
この世界へ飛ばされた日に着ていたものだった。
普段、人と会う際に身に着けている衣服ではない。
こちらの世界で用意してもらった旅装を使うようになってからは、丁寧に畳み、荷物の奥へしまっていた。
しかし、この作務衣は透にとって、神代神社での日々と、この世界へ来た始まりをつなぐものでもあった。
「これを使おうと思います」
透が広げてみせると、明日華が作務衣を見つめた。
「それだけでは、少し寂しいですね」
「やはり、そうかな」
「奉納の舞に使うなら、白い布を合わせましょう」
結衣も作務衣の横へしゃがみ込む。
「時間はないけど、肩掛けと帯くらいなら作れるよ」
事情を聞いたフィレオナは、里で織られた白い布地を快く分けてくれた。
柔らかく、わずかに光沢を帯びた布だった。
結衣と明日華はそれを広げ、透の身体に合わせながら必要な長さを測っていく。
「兄さま、腕を上げてください」
「分かりました」
「もう少し右です」
「こうですか?」
「はい。そのまま動かないでください」
透が言われるまま両腕を上げて立っていると、真白が楽しそうにその周囲を歩き回った。
「とおるん、かかしみたい」
「真白、今は動かしてはいけませんよ」
「はーい」
白い布は肩から胸元へ斜めに掛けられ、腰には幅広の帯として結ばれた。
袖口にも細い白布が添えられ、動きを妨げないよう、明日華が丁寧に縫い留めていく。
正式な装束ではない。
華やかな刺繍も、きらびやかな飾りもない。
この世界へ来た日に着ていた作務衣へ、皆で白い布を加えただけの、急ごしらえの衣だった。
それでも、始まりの日の衣に、今ここにいる家族の手が加わることで、透にとって何にも代え難い装束になっていた。
最後に明日華が白布の位置を整え、一歩下がる。
「これで大丈夫です」
結衣も透の周囲を回り、満足そうにうなずいた。
「うん。ちゃんと奉納の衣に見えるよ」
「ありがとう。二人とも」
透は胸元に掛けられた白布へ、そっと手を添えた。
「これなら、皆さんへの感謝を込めて舞える」
◇◇◇
その夜。
神樹の根元には、平らに並べた木の板で簡素な舞台が設けられていた。
周囲には淡く光る花と精霊灯が並べられ、里の人々が静かに舞台を取り囲んでいる。
ファルゼンとフィレオナ、エルフィナ、エルディン。
古老たちも席につき、これから始まる異国の奉納を待っていた。
ノーノー、セシリア、ガルド、セリナ、リーファも、舞台を正面から見られる場所に並んで座っている。
今夜は、ほかの里の者たちと同じく、神代家が捧げる舞を見届ける側だった。
やがて、舞台を囲む精霊灯の光が静かに落とされた。
森が闇と静寂に包まれる。
話し声は消え、木の葉が触れ合う音だけが残った。
舞台の端へ、真白が進み出る。
手には、小さな神楽鈴が握られていた。
真白は皆を見渡したあと、鈴を静かに振った。
――シャラン。
澄んだ音が、夜の森へ広がっていく。
余韻が消えようとしたところで、もう一度。
――シャラン、シャラン。
その鈴の音に重なるように、蒼姫の笛が流れ始めた。
細く、高く、それでいて温かな音色だった。
森を渡る風のような旋律が、木々の奥深くまで染み込んでいく。
舞台の左右から、結衣と明日華が静かに姿を現した。
二人は白衣と緋袴に身を包み、手には榊に似た枝を持っている。
中央で向き合い、同時に一礼した。
真白の鈴が鳴る。
蒼姫の笛が、ゆるやかに調子を上げる。
結衣と明日華は、同時に一歩を踏み出した。
上げる腕の高さ。
足を運ぶ速さ。
顔を向ける角度。
袖が風を含み、ふわりと広がる瞬間まで、ぴたりと重なっていた。
まるで、一人の舞手が鏡に映って二人になったようだった。
結衣が右へ回れば、明日華は左へ回る。
二人は中央ですれ違い、再び離れ、同時に榊を掲げる。
長く共に稽古を重ねてきた双子に、言葉による合図は必要なかった。
互いの呼吸を感じ、互いの次の動きを知っている。
そのとき、神樹の根元に小さな光が浮かんだ。
淡い緑色の光だった。
それは宙へ昇ると、舞う二人の周囲をゆっくりと回り始める。
続いて、泉の方角から青い光。
木々の枝から黄色い光。
苔の間から白い光。
花の中から赤い光。
一つ、また一つと、森のあらゆる場所から光が湧き上がってくる。
里の子供たちが、驚きに目を見開いた。
光は瞬く間に数え切れないほどに増え、舞台の周囲を満たしていく。
結衣が袖を返せば、光が大きな円を描く。
明日華が榊を掲げれば、精霊たちも一斉に舞い上がる。
真白の鈴と蒼姫の笛に導かれ、森そのものが二人と共に舞っているようだった。
古老の一人が、震える声を漏らした。
「なんということだ……」
ファルゼンも椅子から立ち上がり、目の前の光景を見つめていた。
「森の一部の精霊が集まっているのではない」
光は舞台の上だけではなかった。
神樹の枝から、泉から、森の奥から、途切れることなく湧き上がってくる。
「森に宿る、すべての精霊が、あの娘たちと共に踊っておる」
長い時を森と共に生きてきたハイエルフたちでさえ、これほどの光景を見たことはなかった。
神樹の幹を光が昇り、巨大な樹冠へ広がっていく。
やがて神樹全体が淡く輝き、その光が里を優しく包み込んだ。
結衣と明日華は並んで神樹へ向き直る。
二人の動きが同時に止まり、榊を胸元へ捧げて、深く頭を下げた。
――シャラン。
真白の鈴が、一度だけ鳴る。
蒼姫の笛が、長い余韻を残して途切れた。
それでも、精霊たちの光は消えなかった。
結衣と明日華が舞台を降りる。
入れ替わるように、透が姿を現した。
この世界へ来た日に着ていた作務衣。
その肩と腰には、結衣と明日華が仕立てた白い布が重ねられている。
簡素な姿だった。
けれど、天羽乃斬を腰に差し、光に満たされた舞台へ歩み出る透の姿には、華美な装束にはない厳かさがあった。
透は舞台の中央へ進む。
最初に神樹へ一礼した。
次に、ファルゼンたちと里の人々へ向き直り、深く頭を下げる。
そして最後に、目を閉じた。
この場にはいない人々の顔が、心の中に浮かぶ。
アストレアで自分たちを受け入れてくれた人々。
共に戦った兵士や冒険者。
旅の途中で食事や寝床を用意してくれた人々。
笑顔を向けてくれた子供たち。
そして、この見知らぬ世界で出会った、すべての者たち。
透は心の中で、静かに感謝を告げた。
――ありがとうございます。
目を開き、鞘に収めた天羽乃斬へ右手を添える。
――シャラン。
真白の鈴が鳴った。
先ほどまでとは異なる、低く厳かな笛の音が流れ始める。
透は左足を一歩前へ出し、腰を落とした。
次の瞬間、天羽乃斬が音もなく鞘を離れた。
銀色の刃が、無数の精霊の光を映して輝く。
これは、敵を斬るための剣ではない。
邪を払い、穢れを清め、人々が歩む道を開くための剣舞だった。
透が踏み込む。
横一文字に振るわれた刃の軌跡を追い、白銀の光が弧を描いた。
里の者たちが、小さく息を呑む。
透が太刀を切り返す。
斜めに振り下ろされた刃から、新たな光が走る。
さらに一歩。
身体を回転させながらの薙ぎ。
幾重もの光の剣線が空中に残り、舞台の上で重なっていく。
速く、鋭い。
それでいて、そこに殺気はなかった。
太刀が振るわれるたび、空気が澄んでいく。
胸の奥に沈んでいた不安や恐れが、静かに洗い流されていく。
迫り来る魔鋼虫の脅威を知り、未来に心を曇らせていた者たちも、いつしか肩の力を抜いていた。
精霊たちは天羽乃斬を恐れなかった。
透が描く光の剣線に寄り添い、色とりどりの輝きとなって舞い続ける。
白銀の光。
森の緑。
泉の青。
花の赤。
それらすべてが一つとなり、透の周囲を巡っていた。
セリナは胸元で手を重ね、光の中で舞う透を見つめていた。
透が強い人であることは、初めて出会ったときから知っている。
けれど、今の透は、ただ敵を倒す剣士ではなかった。
自分が受け取ったものを忘れず、祈りと感謝に変えて返そうとしている。
「美しい……」
セリナの唇から、小さな声がこぼれた。
隣にいるリーファも、透から目を離せなかった。
太刀が振るわれるたび、肩に掛けられた白い布が翻る。
作務衣に急ごしらえの白布を重ねただけの姿が、どんな華やかな装束よりも美しく見えた。
「ええ……本当に」
リーファは胸元へ、そっと手を添えた。
セリナも、自分と同じ人を見つめている。
そのことに気づいても、今は透から視線を逸らすことができなかった。
透が舞台の中央で大きく踏み込む。
天羽乃斬を頭上へ振り上げた。
精霊たちの光が、刃へ引き寄せられるように集まっていく。
真白の鈴が高く鳴り、蒼姫の笛が最後の旋律を奏でた。
「はっ――!」
天羽乃斬が、正面へ振り下ろされる。
一本の白銀の光が舞台を走った。
光は神樹の根元へ届き、そのまま巨大な幹を駆け上がっていく。
次の瞬間、神樹全体が眩い光に包まれた。
枝葉が大きく揺れる。
無数の精霊たちが光の花びらのように舞い上がり、舞台と人々の頭上へ降り注いだ。
温かな風が、里を吹き抜けていく。
透はゆっくりと天羽乃斬を返し、鞘へ収めた。
澄んだ音が、夜の森へ響く。
透は神樹へ深く一礼した。
そして、この場にいる人々だけではなく、これまで出会ったすべての人へ届くように、もう一度、深く頭を下げた。
舞は終わった。
しかし、誰もすぐには言葉を発しなかった。
神樹の葉が一枚、光をまといながら舞台へ落ちる。
その小さな音をきっかけに、ファルゼンが両手を打ち鳴らした。
一度。
二度。
古老たちが続き、やがて里の人々が一斉に手を叩き始める。
静かだった森が、大きな拍手と歓声に包まれた。
子供たちは立ち上がり、透や結衣たちの名を呼んでいる。
真白は嬉しそうに何度も鈴を鳴らし、結衣と明日華は照れくさそうに顔を見合わせた。
舞台の中央に立つ透は、拍手を受けながら、もう一度頭を下げた。
神樹の周囲では、森の精霊たちが今も楽しげに舞っている。
それは、神代家からこの世界へ捧げられた感謝に、森そのものが応えているかのようだった。




