第四十六話 絆
熊野の山深く。
人の足がほとんど踏み入らない森の奥に、その小さな社はあった。
苔むした石段の先に建つ社殿は、長い年月を経て黒ずんでいたが、荒れている様子はない。
周囲には注連縄が張られ、深い森の中でありながら、その一角だけは凛とした空気に包まれていた。
隆志、美琴、宗玄の三人は、社殿の前に並んで座っていた。
目の前にいるのは、一羽の八咫烏である。
ただし、その姿は蒼姫よりも一回り大きい。
濡れたような漆黒の羽を持ち、三本の脚で社殿前の岩に立っている。
八咫烏は三人を順に見つめた後、低く落ち着いた声を発した。
『蒼き羽を持つ我らが同胞が、異なる世界へ渡ったことは分かった』
隆志は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
美琴も両手を膝の上で握りしめながら、八咫烏を見つめている。
「蒼姫を通して、向こうにいる子供たちへ連絡を取ることはできないでしょうか」
『声を届けたいと申すか』
「はい」
美琴は迷うことなく答えた。
「せめて、無事でいるのかだけでも知りたいのです」
八咫烏はしばらく沈黙した。
森を渡る風が、木々の葉を揺らしていく。
『声をそのまま遠き地へ届けるには、大きな力を要する』
「難しい、ということですか」
隆志が尋ねる。
『この世界の中であれば、不可能ではない。だが、あの子がいるのは、我らの知る地ではない』
八咫烏は空を見上げた。
『世界の隔たりを越え、互いの声をつなぐには、我にも確かなことは言えぬ』
美琴の表情が曇る。
だが八咫烏は、続けて胸元へ嘴を向けた。
『ただし、小さき物を送るだけであれば、試すことはできる』
「小さな物を?」
隆志が身を乗り出す。
八咫烏の首元には、細い黒紐が巻かれていた。
その先に、小さなお守りのようなものが下がっている。
八咫烏が嘴で触れると、お守りが淡い光を放った。
布に覆われていたものが形を変え、指先に載るほどの小さな箱となる。
『これは札箱と呼ばれるものだ』
「札箱……」
『我ら八咫烏は、神使として遠き地へ赴く。離れた同胞と文をやり取りするため、古くより、この箱を用いてきた』
八咫烏が札箱を開く。
中は非常に狭い。
紙片を小さく折り畳めば、ようやく収まるほどだった。
『箱に収まる物であれば、縁を結んだ別の札箱へ送ることができる』
「どのくらいの大きさまででしょうか」
隆志の問いに、八咫烏は少し考える。
『大きさは、そなたたちの尺度で一寸にも満たぬほど。重さも、ごく僅かな物に限られる』
「二センチ程度。重さは一グラムくらいか」
隆志が呟いた。
宗玄が隣から札箱をのぞき込む。
「紙に文字を書けば、何とか入るのではないか」
「いや」
隆志は、すぐに首を振った。
「もっと多くの情報を送れます」
「どうするのです?」
美琴が尋ねる。
「マイクロSDカードです」
隆志の言葉に、美琴が目を瞬かせた。
「結衣に持たせたタブレットなら、カードを読み込めます。これくらいの大きさなら、この箱にも入るはずです」
文字だけではない。
写真も、音声も、動画も保存できる。
一枚の小さなカードに、紙では収まりきらない量の情報を入れられる。
「では、透たちへ動画を送れるのですね」
美琴の顔に、わずかに希望が戻る。
「こちらから送ることができれば、ですが」
隆志は慎重に答えた。
そして八咫烏へ向き直る。
「蒼姫も、この札箱を持っているのでしょうか」
『持っているはずだ』
八咫烏は頷いた。
『幼き同胞には、札箱の意味を教えず、一族の守りとして身につけさせることがある』
「お守りだと思っているということですか」
『そうだ』
蒼姫が首から小さなお守りを下げていたことを、隆志は思い出した。
地球にいた頃から、蒼姫はそれを大切そうに身につけていた。
誰かから贈られた物だとは聞いていたが、詳しい由来までは尋ねたことがなかった。
「では、その札箱へ送ることができますか」
『分からぬ』
八咫烏の返答は、あまりにも率直だった。
「分からない?」
『蒼き羽のあの子が、この世界のどこかにいるのであれば、札箱同士の縁をたどることはできよう』
八咫烏は、静かに三人を見渡した。
『だが、異なる世界へ渡った今も、その縁が残っているかは、試した者がおらぬ』
こちらから物を送れるかどうかさえ、確かではない。
まして、向こうから送り返せるかどうかは、さらに分からなかった。
「それでも、試す価値はあります」
隆志は迷わず答えた。
美琴と宗玄も頷く。
『よかろう』
八咫烏は社殿の奥へ姿を消した。
しばらくして戻ってきた嘴には、先ほどと同じ形をした小さなお守りが咥えられている。
『これは、今は使われておらぬ札箱だ』
八咫烏はそれを隆志の前へ置いた。
『蒼き羽の同胞が持つ札箱との縁を探らせよう』
八咫烏が翼を広げる。
漆黒の羽の間から、淡い金色の光が溢れた。
光は足元の札箱を包み、やがて森の奥へ伸びるように細く流れていく。
しかし、その先はすぐに見えなくなった。
八咫烏は長い間、目を閉じていた。
やがて翼を畳み、静かに目を開く。
『微かではあるが、縁は残っている』
「届くのですか」
『それも、今はまだ分からぬ』
八咫烏は足元の札箱へ視線を落とした。
『だが、この札箱から物を送れば、蒼き羽のあの子が持つ札箱を目指すであろう』
隆志は小さな札箱を両手で受け取った。
見た目以上に軽い。
「まず、こちらから送れるかどうかを確認します」
『それがよい』
「向こうからも送り返せますか」
『本来であれば、札箱は双方向に物を送るものだ』
八咫烏はそう答えた後、僅かに首を傾けた。
『ただし、世界を隔ててなお同じように働くかは、我にも分からぬ』
まず地球からパンゲアへ送る。
それが届いたなら、次にパンゲア側から送り返してもらう。
二段階の確認が必要だった。
隆志が札箱を懐へ収めようとした時、八咫烏が告げた。
『我も、そなたたちと共に行こう』
三人が一斉に顔を上げた。
「神代神社まで、来てくださるのですか」
『それだけではない』
八咫烏は背後にある小さな社へ目を向けた。
長い年月を経た社殿は、深い森の中で静かに佇んでいる。
『我がこの地で果たすべき役目は、すでに終えている』
「役目が……」
『長く、この社と山を守ってきた。だが、今はこの地を離れても差し支えはない』
八咫烏の言葉には、寂しさも迷いもなかった。
ただ、長く務めてきた役目を終えた者の、静かな落ち着きだけがあった。
『それに、札箱を異なる世界へ確実に送るには、我が力を添えた方がよかろう』
「やはり、箱だけでは難しいのですか」
『同じ地にいる同胞へ送るのとは訳が違う』
八咫烏は隆志が持つ札箱を見つめた。
『蒼き羽のあの子との縁は、あまりにも細い。世界の隔たりを越える途中で、見失うこともあり得る』
札箱から物が消えたとしても、それが蒼姫のもとへ届くとは限らない。
異なる世界の狭間へ失われてしまう可能性もある。
『初めて送る時には、我が縁を支えよう』
「ありがとうございます」
隆志は深く頭を下げた。
八咫烏はさらに続ける。
『いずれ、そなたたちは蒼き羽のあの子がいる地へ渡るのであろう』
「はい」
「必ず、子供たちのもとへ向かいます」
『ならば、あの子の居場所をたどるにも、我が必要となろう』
蒼姫がいる世界へ渡れたとしても、その先のどこに透たちがいるのかは分からない。
だが、札箱に残された縁を感じ取れる八咫烏がいれば、蒼姫のいる方角を探れる可能性がある。
宗玄が頷く。
「異界へ渡る道を見つけても、着いた場所が同じとは限らぬからな」
『故に、我もそなたたちと行く』
八咫烏は静かに言い切った。
『まずは神代神社へ赴き、札箱が働くかを確かめよう』
美琴は胸の前で両手を重ね、深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
隆志と宗玄も、それに続く。
八咫烏は一度だけ振り返り、長く守ってきた社殿を見つめた。
森を渡る風が、注連縄と木々の葉を静かに揺らしている。
やがて八咫烏は、社殿へ深く頭を垂れた。
それは、役目を終えた場所へ別れを告げるような、静かな仕草だった。
『行こう』
八咫烏は翼を広げ、岩の上から飛び立った。
漆黒の身体が三人の頭上を越え、苔むした石段の先へ舞い降りる。
隆志たちは札箱を携え、八咫烏と共に熊野の山を後にした。
◇◇◇
神代神社へ戻ったその日の夜。
社務所の一室には、隆志、美琴、宗玄のほかに、熊野から来た八咫烏の姿があった。
八咫烏は窓辺に用意された台の上に立ち、机の上に置かれた札箱を見つめている。
隆志はパソコンの前に座り、マイクロSDカードの中身を確認していた。
「容量は十分です」
「動画や写真を入れても、まだ余裕があります」
「まずは何を伝えますか」
美琴が尋ねる。
「一番大切なのは、双方向に物を送れるかどうかの確認です」
隆志は新しいフォルダを作る。
フォルダ名は、
――最初に開いてください。
その中へ、三人で撮影した動画を保存した。
動画の冒頭には、隆志、美琴、宗玄が並んで座っている。
隆志がカメラへ向かって、落ち着いた声で話し始めた。
『透、結衣、明日華、真白、蒼姫。みんな、無事ですか』
隣の美琴は、泣きそうになるのを懸命に堪えていた。
『この動画を見ているということは、熊野の八咫烏が持つ札箱から、蒼姫の札箱へ物を送ることができたということです』
隆志は一度言葉を切る。
『ただし、こちらから送ることができるだけなのか、そちらからも送り返せるのかは、まだ分かっていません』
隆志は、最初に全員で集合写真を一枚撮り、カードを送り返してほしいと説明した。
『今すぐ、すべてのことに答えなくても構いません』
隆志の後を、美琴が引き継ぐ。
『まずは、みんなの顔を見せてください』
とうとう堪えきれず、美琴の目から涙が零れた。
『透も、結衣も、明日華も、真白も、蒼姫も。みんな一緒に写ってね』
美琴は涙を拭いながら、笑おうとした。
『母さんたちは、みんなに会いに行くつもりです』
隆志が再び話す。
『こちらも、そちらへ渡る方法を探しています』
『そのために、結衣たちが黄泉比良坂をどのように渡ったのか、覚えていることを整理してほしい』
『どこから入ったのか。どのような道を通ったのか。何を見て、何を感じたのか』
『着いた場所や、到着した後に何が起きたのかも教えてください』
最後に、宗玄が画面の中で口を開いた。
『慌てる必要はない』
いつもと変わらない、落ち着いた声だった。
『まずは己の身を守れ』
『我らも、そちらへ渡る道を必ず探し出す』
動画はそこで終わった。
隆志は、そのほかにも幾つかのフォルダを作った。
――双方向に送れるかの確認。
――こちらへ返すもの。
――黄泉比良坂について。
――現在の状況を教えてください。
――神代家のみんなへ。
「これでいいでしょう」
隆志が言う。
美琴は画面を見つめたまま、小さく頷いた。
「写真だけでも、返ってきてほしいですね」
「ああ」
隆志はマイクロSDカードをパソコンから取り外した。
そして、机の上に置かれた札箱を開く。
小さなカードは、箱の内側へぴたりと収まった。
「準備ができました」
隆志が八咫烏を見る。
八咫烏は台の上から翼を広げ、札箱のそばへ舞い降りた。
『では、蒼き羽のあの子との縁をたどる』
八咫烏は札箱の前に立ち、目を閉じた。
漆黒の羽の隙間から、淡い金色の光が溢れ出す。
光は札箱を包み込み、細い糸のように空中へ伸びていった。
だが、その先はすぐに揺らぎ、途切れそうになる。
八咫烏がさらに翼を広げる。
『やはり、遠い』
低い声が社務所に響く。
『だが、縁は消えておらぬ』
隆志、美琴、宗玄は、声もなくその様子を見守っていた。
八咫烏の金色の光が、札箱から伸びる細い光へ重なっていく。
揺らいでいた糸が、少しずつ真っ直ぐに伸び始めた。
『今だ。蓋を閉じよ』
隆志は札箱の蓋を閉じ、その上へ指を置いた。
札箱が白い光を放ち始める。
八咫烏の金色の光と重なり、部屋の中を明るく照らした。
『蒼き羽の同胞のもとへ』
八咫烏が告げる。
札箱が一度だけ、強く瞬いた。
次の瞬間、光は糸を引くように空中へ吸い込まれ、静かに消えた。
隆志が蓋を開く。
中に入れたはずのマイクロSDカードは、なくなっていた。
「送れたのでしょうか」
美琴が尋ねる。
八咫烏はしばらく目を閉じたまま、見えない縁の先を探っていた。
『少なくとも、我が感じ取れるところまでは、あの子へ向かって進んだ』
「途中で失われる可能性はありますか」
『ないとは言い切れぬ』
八咫烏は翼を畳む。
『世界の隔たりを越えた先までは、我にも見通せぬ』
カードが蒼姫の札箱へ届いたのか。
異なる世界の狭間で失われたのか。
今はまだ、誰にも分からない。
「後は、向こうから戻ってくるのを待つしかありませんね」
隆志が空になった札箱を机の上へ置く。
『我も、ここで待とう』
八咫烏は再び窓辺の台へ戻った。
『返事があれば、縁の変化を感じ取れるやもしれぬ』
「しばらく、神代神社にいてくださるのですか」
『この地を離れた今、急いで戻る場所もない』
八咫烏は境内の方角へ目を向けた。
『蒼き羽のあの子へ至る道が見つかるまで、そなたたちと行動を共にしよう』
美琴は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
三人には、ただ返事を待つことしかできなかった。
だが、今はもう三人だけではない。
熊野の社で役目を終えた一羽の八咫烏もまた、蒼姫へ続く細い縁を見守っていた。




