第四十五話 ラピス
祠を出ると、森には柔らかな朝の光が満ちていた。
石の扉は、透が外へ出ると再び重い音を立てて閉じた。
幼子は透の腕の中から扉を見つめていたが、やがて胸元へ顔を埋めた。
「大丈夫だ」
透は銀色の頭をそっと撫でる。
「また、会いに来よう」
幼子が透を見上げた。
瑠璃色の瞳に、悲しみはなかった。
自分を抱く透がどのような者なのか、確かめるようにじっと見つめている。
「これから、よろしくな」
透が声をかけると、幼子は小さく尻尾を動かした。
里へ戻る道中も、幼子は暴れることなく透の腕に収まっていた。
時折、森の木々や空を見上げ、興味深そうに鼻を動かしている。
透はその小さな反応を感じながら、ゆっくりと森を歩いた。
里が近づくと、遠くから木を打つ音や、子供たちの声が聞こえてくる。
それまで透の胸元で丸くなっていた幼子が、顔を上げた。
初めて聞く賑やかな音に、左右の耳が忙しなく動いている。
透が滞在している族長の家へ戻ると、庭先にいた結衣が真っ先に気づいた。
「おにい、おかえり――」
透の腕に抱かれたものを見て、言葉が途中で止まる。
「なに、その子!」
結衣の声に、家の中から明日華と真白が顔を出した。
少し遅れて、蒼姫も姿を見せる。
「兄様、その子は?」
明日華が驚いた表情で歩み寄ってきた。
「神獣フェンリル様の子だ」
「フェンリル様の?」
蒼姫が幼子へ視線を向ける。
突然大勢に囲まれた幼子は、透の胸元へ身体を寄せた。
透は安心させるように、その背をゆっくりと撫でる。
「フェンリル様から、この子を託された」
「託されたって……おにいが連れていくの?」
「ああ」
透は、祠での出来事を皆へ話した。
フェンリルが代々この森を守ってきたこと。
この幼子も、いつの日か次代の守護者となること。
そのために森の外へ出て、多くの種族や世界を知る必要があること。
そして、その役目を自分に託されたことを。
話を聞き終えた結衣は、透の腕の中にいる幼子を見つめた。
「それじゃ、この子も一緒に旅をするんだ」
「そうなる」
「すごくかわいい……」
結衣がそっと手を伸ばす。
だが、触れる直前で手を止め、幼子の様子を窺った。
「触っても大丈夫かな」
「急に触らなければ大丈夫だと思う」
結衣がゆっくりと手を近づける。
幼子は鼻を動かして匂いを嗅いだあと、結衣の指先へ鼻を触れさせた。
「わあ……」
結衣の顔が一気にほころぶ。
「毛がふわふわだよ、おにい」
「見れば分かる」
「見るのと触るのは違うよ」
結衣が慎重に幼子の頭を撫でる。
幼子は嫌がる様子もなく、気持ちよさそうに目を細めた。
真白も透の隣へ来て、幼子をのぞき込む。
「この子、真白よりだいぶ小さいね」
「まだ生まれて一月ほどらしい」
「じゃあ、真白がお姉さんだね」
真白は少し得意そうに胸を張った。
幼子は真白の白い耳と尻尾が気になるのか、じっと見つめている。
「名前はなんていうの?」
真白に尋ねられ、透は首を横へ振った。
「まだ名前はないそうだ」
「名前がないの?」
「ああ。フェンリル様は、俺たちに決めてほしいと言っていた」
明日華は、透の腕の中にいる幼子を黙って見つめていた。
銀色の毛。
まだ幼さの残る丸い顔。
そして、こちらを見上げる瑠璃色の瞳。
明日華は、その瞳を見つめたまま小さく呟いた。
「ラピス……」
透が顔を上げる。
「ラピス?」
「はい」
明日華は幼子の前に膝をついた。
「地球に、ラピスラズリという青い宝石があります。この子の瞳が、その石の色に似ていますから」
「ラピスか……」
透は腕の中の幼子を見つめた。
瑠璃色の瞳が、朝の光を受けて宝石のように輝いている。
「この子に合っていると思う」
「私もそれがいい」
結衣も頷いた。
蒼姫が口元へ手を添え、微笑む。
「呼びやすく、美しい名前だと思います」
透は幼子の顔を見つめた。
「ラピス」
その名を呼ぶ。
幼子は透の声に反応して、ぴんと耳を立てた。
明日華も優しく微笑みかける。
「ラピス」
次の瞬間。
幼子の身体から、眩い光があふれ出した。
「わっ!」
結衣が目を細める。
透は驚きながらも、幼子を落とさぬよう腕に力を込めた。
銀色の毛が青白い光を帯び、その光が小さな身体を包み込む。
風もない庭で、周囲の草花が一斉に揺れた。
蒼姫がラピスを見つめ、目を見開く。
「名を受け入れ、神獣としての力が目覚めたのでしょうか」
やがて光が収まった。
ラピスは、自分の名を確かめるように嬉しそうに尻尾を振った。
『ラピス』
幼い声が、今度ははっきりと皆の頭の中へ届いた。
「本当に話した!」
結衣が目を輝かせる。
「名前を得たことで、念話の力が目覚めたのでしょうね」
蒼姫が感心したようにラピスを見つめた。
真白は透の腕の中をのぞき込み、不意に首を傾げる。
「この子、男の子? 女の子?」
「そういえば、聞いていなかったな」
透がラピスへ目を落とす。
蒼姫がそっと確かめると、すぐに顔を上げた。
「女の子ですね」
「……」
透が思わず肩を落とす。
「何よ、そのがっかりした顔は」
結衣が頬を膨らませた。
「いや、別に嫌だというわけじゃない。ただ、俺の周りは女の子ばかりだと思って」
「おにいには、女の子の面倒を見る運命があるんだよ」
「そんな運命はいらないかな。できれば男子の話し相手が欲しい」
透の言葉に、明日華と蒼姫が小さく笑った。
真白はラピスの頭を優しく撫でる。
「真白がお姉さんだから、ちゃんと面倒を見てあげるのじゃ」
『おねえ……さん?』
「そう。真白お姉さん」
真白は満足そうに胸を張った。
「ところでおにい、この子は何を食べるの?」
結衣に尋ねられ、透は祠でフェンリルから聞いた話を思い出す。
「生まれて一月ほどだけど、神獣は普通の獣より成長が早いらしい。もう乳離れの時期だから、柔らかくした肉を食べさせればいいそうだ」
「母乳が必要だったら、どうするのかと思ったよ」
「俺も聞いたときは、そこが一番心配だった」
透はラピスの小さな身体を抱き直した。
「魔素も身体に取り込めるから、普通の狼ほど大量の餌は必要ないらしい。ただ、育つ間はできるだけ質の良い肉を食べさせてほしいと言われた」
「どれくらいで大きくなるのですか?」
明日華が尋ねる。
「半年ほどで大型犬くらい。一年もすれば、人を背に乗せられるほどになるそうだ。ただし、立派な神獣になるには、まだ何年もかかるらしい」
「一年でそんなに大きくなるの?」
結衣が驚いてラピスを見つめる。
透の腕の中に収まっている姿からは、とても想像できない。
「今のうちに、たくさん抱いておいたほうがよさそうだね」
「結衣は抱き潰しそうだから駄目だ」
「そんなことしないよ!」
言い返す結衣を見て、ラピスは不思議そうに首を傾げた。
そして、小さな口を開く。
「みゃん」




