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超大陸パンゲアへ渡った神代家の異世界奮戦記  作者: 久遠 遙人


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第四十四話 神樹の祠

 朝靄の残る森に、鋭い風切り音が響いていた。


 里の外れにある開けた場所で、透は天羽乃斬を振るっていた。


 一歩踏み込み、上段から振り下ろす。


 刃が朝の冷たい空気を裂き、足元の草がわずかに揺れた。


 間を置かずに身体を返し、横薙ぎから切り上げへとつなぐ。


 速さだけを求めるのではない。


 足の運び、重心、呼吸。


 一つ一つの動作を確かめるように、透は黙々と型を繰り返していた。


 額から流れた汗が顎を伝い、地面へ落ちる。


「透殿」


 背後から穏やかな声がかけられた。


 透は刀を止め、振り返った。


 森へ続く小道に、一人の古老が立っていた。


 長い銀髪を背に流し、手には木の杖を持っている。


 以前、古老たちの語りを聞いたときにも、その傍らに座っていた人物だった。


「おはようございます」


 透は天羽乃斬を鞘へ納めた。


「朝の鍛錬中にすまぬな」


「いえ。何か御用でしょうか」


 古老は透の前まで歩いてくると、白い眉の下から静かにその顔を見つめた。


「透殿。そなたが里におるうちに、ぜひ会っていただきたい御方がおる」


「俺に、ですか?」


「うむ。この里の守り神でもあられる、神獣フェンリル様じゃ」


 透はわずかに目を見開いた。


「フェンリル……」


「森の奥深く、ひときわ大きな神樹の根元に祠がある。フェンリル様は、その奥におられる」


 古老は、木々が幾重にも重なる森の奥へ目を向けた。


「我らとて、そうそうお会いできる御方ではない。祠を訪ねたところで、扉が開くとは限らぬ」


「それなら、なぜ俺に?」


「さて、それはわしにも分からぬ」


 古老は白い眉をわずかに上げ、穏やかに笑った。


「ただ、透殿ならば、あるいはと思ったのじゃ。会えば、きっと良いことがあろう」


「良いこと、ですか」


「うむ。ただし、透殿の前で祠の扉が開けば、の話じゃがな」


 古老は手にした杖で、森の奥を指した。


「ここからまっすぐ進めばよい。神樹を見間違えることはあるまい。気が向いたなら、訪ねてみなされ」


「分かりました」


 透が頭を下げると、古老は満足そうに頷いた。


 それ以上は何も語らず、ゆっくりと来た道を戻っていく。


 透はその後ろ姿を見送ったあと、静まり返った森の奥へ目を向けた。


 なぜだろう。


 まだ見ぬ祠のことを聞いただけなのに、胸の奥が微かにざわめいていた。


◇◇◇


 朝の鍛錬を終え、汗を拭った透は、一人で森の奥へ向かった。


 結衣たちには、少し森を歩いてくるとだけ告げてある。


 神獣に会えるかどうかも分からない以上、皆を巻き込む必要はないと思ったのだ。


 古老に教えられた方角へ進むにつれ、周囲の木々は次第に太く、高くなっていった。


 根は地面から大きく隆起し、幾重にも絡み合いながら、森の奥へと続いている。


 頭上を覆う葉の隙間から、細い光が差し込んでいた。


 里の近くでは絶え間なく聞こえていた鳥の声も、いつの間にか途絶えている。


 獣の気配もない。


 聞こえるのは、風に揺れる葉の音と、苔を踏む自分の足音だけだった。


 透は時折立ち止まり、周囲を確かめながら進んだ。


 道らしい道はない。


 それでも、不思議と迷う気はしなかった。


 どちらへ進めばよいのか、森そのものが教えているように感じられた。


 やがて前方の木々が途切れた。


 その先に、天を支える柱のような巨大な神樹がそびえていた。


 透は思わず足を止める。


 幹は何人もの大人が腕を広げても囲めないほど太く、枝は遠く四方へ伸びている。


 地面を這う根の一本一本が、里に立つ大木ほどの太さを持っていた。


 その根と根の間に、古びた石の扉が埋め込まれていた。


 文字も紋章も刻まれていない。


 飾り気のない、ただの石扉に見える。


 透はゆっくりと近づいていった。


 扉の前に立った瞬間、胸の奥に不思議な感覚が込み上げてくる。


「ここは……」


 初めて訪れた場所のはずだった。


 それなのに、懐かしい。


 幼い頃、美琴に手を引かれて神代神社の社殿へ入ったときのような。


 夕暮れの境内で、家族の帰りを待っていたときのような。


 遠く離れていた故郷へ、ようやく帰ってきたような安らぎがあった。


 透が胸へ手を当てる。


 鼓動は穏やかだった。


 恐ろしさはない。


 むしろ、この扉の向こうにいる何者かが、ずっと自分を待っていたような気さえした。


 森を吹き抜けていた風が止まった。


 葉の揺れる音も消える。


 次の瞬間。


 重い石の擦れる音が、静寂の中に響いた。


 扉の中央に細い隙間が生まれ、そこから淡い光が漏れ出した。


 透は息を呑んだ。


 誰の手も触れていないにもかかわらず、石の扉がゆっくりと左右へ開いていく。


 その奥には、神樹の根の下へ続く薄暗い通路が伸びていた。


 声は聞こえない。


 それでも、はっきりと分かった。


 ――来い。


 この先にいる何者かが、自分を招いている。


 透は天羽乃斬の柄へ軽く触れたあと、静かに扉の内側へ足を踏み入れた。


 背後で、石の扉がゆっくりと閉じていく。


 完全に扉が閉まると、森の音は聞こえなくなった。


 通路の壁には、神樹の太い根が幾重にも絡み合っていた。


 根の隙間には青白い光を放つ小さな花が咲き、透が進むたびに、道を示すように次々と明かりを灯していく。


 空気は冷たく澄んでいた。


 土や苔の匂いに混じり、どこか神代神社の森にも似た香りがする。


 透は足音を響かせながら、通路の奥へ進んだ。


 やがて前方が大きく開けた。


 そこには、地下とは思えないほど広い空間が広がっていた。


 天井から無数の根が垂れ下がり、その隙間を淡い光が満たしている。


 床は柔らかな苔に覆われ、小さな泉から流れ出した水が、細いせせらぎとなって空間の中央を横切っていた。


 そして、その奥。


 巨大な銀色の獣が、静かに伏せていた。


 狼に似た姿。


 だが、横たわっていても透の背丈を遥かに超えるほど大きい。


 全身を覆う銀色の毛は、淡い光を受けて静かに輝いていた。


 巨大な前足。


 長く豊かな尾。


 神獣フェンリル。


 その姿を目にした瞬間、透は立ち止まった。


 圧倒的な力を感じる。


 巨大な魔獣と対峙したときとは違う。


 空間そのものがフェンリルの一部であるかのような、深く静かな力だった。


 だが、不思議と恐怖はなかった。


 フェンリルはゆっくりと瞼を開いた。


 深い青色の瞳が、真っ直ぐに透を捉える。


『よく来た』


 低く穏やかな声が、透の頭の中へ直接響いた。


 透は驚きながらも、姿勢を正した。


「あなたが、フェンリル様ですか」


『いかにも』


 フェンリルは大きな頭をわずかに持ち上げた。


『待っていたぞ。理の外より来た者よ』


「俺を……?」


『そうだ』


 フェンリルの青い瞳は、透の身体だけでなく、その内側まで見通しているようだった。


『そなたがこの世界へ現れたとき、森を流れる理がわずかに揺らいだ』


 透は思わず自分の胸へ手を置いた。


「俺が来たことを、知っていたんですか」


『この森に根を張るものは、遠く離れた地の変化をも感じ取る。まして、そなたほど理を外れた存在であればな』


 フェンリルは静かに透を見つめ続けた。


『だが、そなたから感じるものは、それだけではない』


「それだけではない?」


『懐かしい気配がする』


 透の胸が微かにざわめいた。


 祠の前で感じた懐かしさ。


 それと同じものを、フェンリルも自分から感じている。


「俺も、この場所を懐かしく感じました。初めて来たはずなのに」


『そうか』


 フェンリルは何かを確かめるように目を細めた。


『今は、それでよい。いずれ、そなた自身が知る時が来よう』


 それ以上は語らず、フェンリルは傍らへ視線を向けた。


 銀色の毛の陰で、何かが小さく動いた。


 透が目を凝らす。


 そこには、一匹の幼い獣がいた。


 狼の子に似た姿。


 銀色の柔らかな毛に包まれ、まだ生まれて間もないのか、身体は透の腕に収まりそうなほど小さい。


 幼子はフェンリルの大きな前足にもたれ、丸くなって眠っていた。


「この子は……」


『我が子だ』


 フェンリルの声に、幼子の耳が小さく動いた。


 ゆっくりと瞼が開く。


 現れたのは、透き通るような青紫色の瞳だった。


 幼子はしばらく透を見つめていた。


 やがてフェンリルの前足に身体を預けながら、よろよろと立ち上がる。


 前足は身体に比べて少し大きく、立っているだけでも危なっかしい。


『この子を、そなたに託したい』


 透はフェンリルへ顔を向けた。


「この子を、俺に?」


『そうだ』


 フェンリルは静かに頷いた。


『我らフェンリルは、代を重ねながら、この森を守ってきた。いずれこの子も、我に代わり、この地を守る者となる』


「代わりに……」


『まだ遥か先のことだ。我はこれからも、この森を守り続ける』


 フェンリルの声には、老いや衰えを感じさせるものはなかった。


『だが、守るべきものを知らぬ者に、森を託すことはできぬ』


 幼子が小さな前足を踏み出した。


 一歩。


 また一歩。


 覚束ない足取りで、ゆっくりと透へ近づいてくる。


『森の外へ出て、多くの種族と出会い、さまざまな命に触れねばならぬ。喜びも、悲しみも知る必要がある』


 幼子は途中で前足を滑らせ、柔らかな苔の上へ転がった。


「あっ」


 透が思わず手を伸ばす。


 だが幼子は、自分ですぐに起き上がった。


 何事もなかったように身体を震わせ、再び透へ向かって歩き始める。


『この世界がいかなる場所であるのかを、自らの目で見なければならない』


「そのために、俺たちと一緒に?」


『そなたは、一つの地に留まる者ではない。これから多くの土地を巡り、多くの者と出会うだろう』


 フェンリルの青い瞳が、真っ直ぐに透を見据えた。


『この子に、世界を見せてほしい』


 幼子はようやく透の足元へたどり着いた。


 小さな鼻先を近づけ、透の匂いを確かめるように何度か息を吸う。


 透はその場に膝をついた。


 手を差し出すと、幼子は少しだけ首を傾げた。


 やがて恐る恐る鼻先を近づけ、透の掌へ触れる。


 温かい息が指先にかかった。


 幼子はしばらく透の匂いを嗅いでいたが、やがて安心したように頬を擦り寄せてきた。


『この子も、そなたを受け入れたようだ』


 透は幼子の柔らかな毛を、指先でそっと撫でた。


「俺に、この子を育てられるかは分かりません」


 フェンリルは何も言わず、透の言葉を待っていた。


「俺自身、この世界について、まだ知らないことばかりです。この子に何を教えられるのかも、今は分かりません」


 透は幼子から目を離さず、ゆっくりと言葉を続けた。


「それでも、この子を託してくださるのなら、俺は受け入れます」


 顔を上げ、フェンリルを見つめる。


「何があっても、しっかり守ります」


 フェンリルはしばらく透を見つめていた。


 やがて、その大きな瞳が穏やかに細められる。


『その言葉が聞きたかった』


 透は両腕を差し出した。


 幼子は一度だけ、母であるフェンリルを振り返った。


 フェンリルが小さく頷く。


 それを見た幼子は、ためらうことなく透の腕の中へ身体を預けた。


「軽いな……」


 小さな身体は、驚くほど軽かった。


 銀色の毛は柔らかく、その奥から確かな命の温もりが伝わってくる。


 幼子は透の腕の中で身体の向きを変えると、胸元へ頬を寄せた。


『今はまだ、何も知らぬ幼子だ』


 フェンリルは、透に抱かれた我が子を静かに見つめた。


『いずれこの森へ戻るときには、そなたと見た世界を我に語ってくれるだろう』


「その時は、必ずここへ連れてきます」


『ああ。その日を楽しみにしている』


 フェンリルは大きな顔を近づけ、幼子の額へ鼻先を触れさせた。


 幼子も透の腕から首を伸ばし、母の鼻先へ自分の鼻を重ねる。


 二匹はそのまま、しばらく動かなかった。


 言葉ではない何かを、互いに伝え合っているようだった。


 やがてフェンリルがゆっくりと顔を離す。


『行くがよい』


 透は幼子を抱いたまま、深く頭を下げた。


「この子は、俺が必ず守ります」


『頼んだぞ、神代透』


 透が踵を返す。


 腕の中の幼子は何度も振り返り、母の姿を見つめていた。


 フェンリルは立ち上がることなく、穏やかな眼差しで我が子を見送っている。


 通路へ戻る直前、透も一度だけ振り返った。


 淡い光の中に伏せるフェンリルの姿は、森そのもののように静かで、力強かった。


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