第四十三話 明日華の弓
ハイエルフの里に滞在して、三日目の朝。
明日華は里の外れに設けられた弓の鍛錬場に立っていた。
周囲を囲む巨木の枝葉から朝の光が差し込み、苔むした地面に幾筋もの光の帯を落としている。
正面には、藁を幾重にも束ねた丸い的が並んでいた。
その後ろには、外れた矢を受け止めるための分厚い木板が立てられている。
明日華は背負っていた矢筒を下ろすと、中を確かめた。
残っている矢は、わずか五本。
北方の牧畜町での戦いと、ラザール防衛戦。
二度の大きな戦いで、地球から持ってきた矢のほとんどを使い果たしていた。
戦いの後に回収できたものもあったが、魔鋼虫の甲殻に当たって折れた矢や、戦場の混乱の中で失われた矢の方が多い。
「本当に、それだけしか残ってないの?」
隣から矢筒をのぞき込んだ結衣が、驚いた声を上げた。
「うん。使えるものを選んだら、これだけ」
明日華は一本の矢を取り出し、矢羽根の乱れを指先で整えた。
その様子を、透と真白もそばで見守っている。
蒼姫は八咫烏の姿で、鍛錬場を見下ろす枝に止まっていた。
少し離れた場所には、数人のハイエルフの弓士たちが集まっている。
ハイエルフにとって弓は、狩りの道具であると同時に、里を守るための大切な武器でもある。
当然、この里にも数多くの弓があった。
しかし、明日華の使う和弓は、彼らの弓とは形が大きく異なっている。
ハイエルフの弓は、握りをほぼ中央に置いた短弓や長弓が中心である。
一方、明日華の和弓は、彼女の身長を大きく超えるほど長く、握りの位置も中央より下にある。
若い弓士の一人が、明日華の弓を興味深そうに見つめた。
「ずいぶんと長い弓なのですね」
「はい。私たちの国では、昔からこの形の弓が使われています」
「矢も、我らのものとは少し違うようです」
「長さも重さも、矢羽根の形も違います」
明日華は手にした矢を見せた。
「こちらにある材料でも、似た矢は作れると思います。でも、重さや重心が変われば、飛び方も変わりますから」
長い間使い慣れた弓であっても、矢が変われば同じように射られるとは限らない。
矢の長さ、太さ、重さ。
矢羽根の大きさや付け方。
わずかな違いが、飛び方に影響を与える。
「矢がなくなったら、どうするの?」
結衣が心配そうに尋ねた。
「母さまから、これを預かってる」
明日華は腰に下げていた小袋を開いた。
中には、細長く折り畳まれた白い符が収められている。
明日華はそのうちの一枚を取り出した。
「お札?」
「矢代符。矢が足りなくなった時に使うようにって」
明日華は符を弓の弦へ添えた。
指先が触れた瞬間、符に書かれた文字の上を、淡い白光が走る。
紙片が宙で細く伸びていった。
白い光が棒状に形を変え、先端には鏃が、後端には矢羽根が現れる。
やがて、明日華の指の間には、一本の白い矢が収まっていた。
「わあ……」
真白が目を丸くする。
「本当に矢になった」
ハイエルフの弓士たちも、驚きの声を漏らした。
「魔法で作られた矢なのですか?」
「魔法ではありません。母さまが、一枚ずつ法力を込めて作ったものです」
明日華は白い矢を見つめた。
輪郭が、かすかに揺らいでいる。
実物の矢ではない。
符に込められた法力が、短い時間だけ矢の形を取っているのだ。
「残りは、二十七枚しかありません。それに、普通の矢より軽くて、風の影響も受けやすいんです」
明日華は弓から符矢を外した。
すると、矢は白い光となって縮み、再び一枚の符へ戻った。
「一度射ったら消えてしまうので、できれば使いたくありません」
「非常用ってことだね」
「うん」
結衣の言葉に、明日華は頷いた。
その時。
「その弓を見せてもらえるか」
弓士たちの後ろから、低い声がした。
集まっていたハイエルフたちが、左右に道を空ける。
そこから、一人の老いたハイエルフが歩いてきた。
白銀の髪を後ろで束ね、腰には小刀や木槌、削り道具を収めた革袋を下げている。
細身ではあるが、その両手は節くれ立っていた。
長い年月、木を削り、弦を張り、弓を作り続けてきた手だ。
「匠長」
弓士の一人が頭を下げる。
老人は軽く頷くと、明日華の前まで歩み寄った。
「私は、この里で弓作りを任されている者だ」
老人の視線は、明日華の和弓へ向けられていた。
「先ほどから見ていたが、随分と変わった弓だ。その弓を、少し見せてもらってもよいか」
明日華は一瞬だけ迷ったものの、すぐに両手で弓を差し出した。
「どうぞ。ただ、長く使っているものですので」
「長く使われた弓だからこそ、分かることもある」
老人は両手で和弓を受け取った。
まず全体を眺め、上下の長さを見比べる。
次に握りの位置を確かめ、弦を指で軽く弾いた。
乾いた音が鳴る。
老人は弓の表面に指を滑らせた。
「これは、一つの材料だけで作られているのではないな」
「はい。竹と木を組み合わせて作られています」
「異なる素材を重ね、それぞれのしなりと強さを生かしているのか」
老人の目に、次第に強い光が宿っていく。
「なるほど。実に面白い」
明日華の和弓は、神代神社で使われていたものを、彼女の体格に合わせて整えたものだった。
地球では十分に強い弓だった。
だが、パンゲアへ渡り、魔素によって肉体が変化した今の明日華には、少しずつ物足りなくなっている。
老人は和弓を明日華へ返した。
「その矢を使い、射ってみてくれ」
「はい」
明日華は残り少ない矢の一本を手に取った。
「使ってしまっていいの?」
結衣が尋ねる。
「壊れなければ回収できるから」
明日華はそう答えると、的の正面へ進んだ。
足を止める。
身体を的に対して横へ向け、左手に弓を構えた。
矢をつがえる。
静かに息を整えながら、弓を押し開いていく。
左腕がまっすぐに伸び、右手が頬のそばを通り過ぎる。
弦は耳の後ろまで引かれた。
明日華の背筋が伸びる。
肩は自然に開き、細い身体全体が、弓と一つにつながっているように見えた。
周囲のハイエルフたちが、息を呑む。
森を渡る風が、明日華の髪を揺らした。
明日華は射らない。
風が通り過ぎるのを待つ。
葉擦れの音が止んだ。
次の瞬間。
鋭い弦音が、朝の森に響いた。
放たれた矢は、ほとんど軌道を見せることなく、的へ吸い込まれていく。
乾いた音。
矢は、的の中心を正確に射抜いていた。
「おお……」
弓士たちから、感嘆の声が漏れる。
老人だけは、的ではなく明日華を見ていた。
「もう一度、引いてみよ。今度は射らなくてよい」
明日華は矢を回収すると、再び弓を構えた。
老人は、その姿を横から見つめる。
足の位置。
腰の向き。
肩の動き。
左腕の伸び。
右手の引き。
まるで明日華の身体そのものを測るように、目を細めていた。
「もう少し引けるか」
「はい」
明日華はさらに弦を引いた。
和弓が大きくしなる。
だが、明日華の腕にはまだ余裕がある。
「まだ引けるか」
「引けます」
老人の眉が、ゆっくりと持ち上がった。
「もうよい」
明日華は静かに弓を戻した。
老人は、しばらく何も言わなかった。
「どうでしょうか」
明日華が尋ねる。
「この弓では、そなたの力を受け止めきれておらぬ」
老人は断言した。
「そなたが本来放てる矢の、半分も引き出してはいない」
周囲の弓士たちがざわめく。
結衣が透の袖を引いた。
「おにぃ。明日華って、そんなに力が強くなってるの?」
「俺にも、正直分からない」
透は明日華を見た。
魔素による肉体の変化は、一人一人に異なる形で現れている。
透は剣を振るうための速さと感覚が鋭くなった。
結衣は、重い鉄棍を自在に振り回せるほどの力と速さを得た。
明日華もまた、細い身体からは想像できないほどの力を身につけている。
「私も、少し軽く感じるようになっていました」
明日華が自分の弓を見つめる。
「少し、ではない」
老人は近くにいた弓士へ顔を向けた。
「里にある最も強い弓を持ってこい」
「最も強い弓、ですか」
「狩猟用ではない。大型魔獣に使うものだ」
弓士は一礼すると、鍛錬場を走って離れていった。
しばらくして戻ってきたその手には、濃い緑色をした長弓が握られていた。
ハイエルフの弓としては大きい。
弓の厚みもあり、張られた弦も太い。
老人は、その長弓を明日華へ差し出した。
「引いてみよ」
明日華は和弓を透へ預け、長弓を受け取った。
自分の弓とは、握りの位置も形も異なる。
明日華は手の中で弓を確かめると、ゆっくりと弦を引いた。
ぎりぎりと、弓が音を立てる。
弦が張り詰めていく。
やがて、弓は限界まで引き絞られた。
周囲から驚きの声が上がる。
「引いた……」
「あの弓を……」
ハイエルフの弓士の中でも、その弓を完全に引ける者は多くないらしい。
だが、明日華は苦しそうな様子を見せていなかった。
「どうだ」
老人が尋ねる。
「先ほどの弓より重いです」
「限界か」
「いいえ。まだ引けます」
「まだ、か」
老人の口元に、笑みが浮かんだ。
長く探し続けていたものを、ようやく見つけたような顔だった。
「その弓で射ってみよ」
「でも、私の矢では……」
「これを使え」
老人が一本の矢を差し出した。
明日華は受け取ると、長さと重さを確かめた。
和矢とは異なる。
それでも明日華は、長弓に矢をつがえた。
いつもより慎重に足を置き、姿勢を整える。
弦を引く。
見慣れない弓。
使い慣れない矢。
それでも、明日華の視線は真っ直ぐに的を捉えていた。
一瞬、森の音が遠ざかる。
弦音。
矢は激しい風切り音を残し、的へ突き刺さった。
次の瞬間。
藁の的が大きく揺れた。
その後ろに置かれていた木板から、鈍い音が響く。
矢は的を貫き、分厚い木板の奥深くまで突き刺さっていた。
「すごい……」
結衣が呟く。
「明日華姉、すごい」
真白も目を輝かせている。
だが老人は、的を見ながら首を振った。
「この弓でも、まだ足りぬ」
明日華は長弓を下ろした。
「これでもですか?」
「弓が、そなたの力に負けておる」
老人は、木板に刺さった矢へ歩み寄った。
鏃の周囲には亀裂が走り、矢軸にも細かなひびが入っている。
「矢も耐え切れておらぬな」
老人は矢を抜くと、折れかけた矢軸を明日華へ見せた。
「これ以上の力で射れば、矢は放たれた瞬間に砕ける」
明日華は、ひび割れた矢を見つめた。
「私に、そんな力が……」
「力だけではない」
老人が振り返る。
「強いだけの者に、よい弓は扱えぬ。力任せに引けば、矢は乱れる」
老人は明日華の前まで戻った。
「だが、そなたは初めて持った弓と矢で、正確に的を射抜いた」
明日華は黙って老人の言葉を聞いていた。
「立ち方、呼吸、弦の離し方。そのすべてに、長い積み重ねがある」
「幼い頃から、母に教わってきました」
「よき師に学んだのだな」
「はい」
明日華は、はっきりと答えた。
老人は深く頷いた。
そして明日華の持つ和弓へ、もう一度目を向ける。
「頼みがある」
先ほどまでとは違う、真剣な声だった。
「そなたのための弓を、私に作らせてほしい」
明日華が目を見開く。
「私のための弓を、ですか」
「そうだ」
老人は森の奥へ視線を向けた。
「この森には、古くから弓材として使われてきた、蒼い木がある」
「蒼い木……」
老人の白銀の髪が、森を渡る風に揺れた。
「あまりにも強すぎるため、満足に引ける者がおらず、これまで弓にすることができなかった」
老人の視線が、明日華へ戻る。
「そなたならば、あの素材の力を引き出せるかもしれぬ」
明日華は、すぐには答えなかった。
透から自分の和弓を受け取る。
弓の表面を、そっと指先で撫でた。
この弓には、地球で積み重ねてきた時間が刻まれている。
母に教えられ、何度も失敗し、何度も矢を放った。
明日華にとって、ただの武器ではない。
老人は、その迷いを見抜いたようだった。
「今の弓を捨てろというのではない」
静かに言う。
「その弓は、そなたが歩んできた道そのものだ」
明日華が顔を上げる。
「新しい弓は、その道の先を歩むためのものになる」
老人の目には、偽りのない職人の情熱があった。
ただ自分の腕を試したいのではない。
明日華の技に応える弓を作りたい。
その思いが、真っ直ぐに伝わってくる。
「お願いします」
明日華は和弓を抱えるように持ち、深く頭を下げた。
「私の弓を、作ってください」
「うむ」
老人は満足そうに頷いた。
「必ず、そなたにふさわしい弓を作ろう」
「矢も、作れるのですか?」
明日華が尋ねる。
老人は、残り少ない和矢と、折れかけたハイエルフの矢を見比べた。
「強い弓だけがあっても、それに耐える矢がなければ意味がない」
老人は明日華の和矢を一本、手に取った。
長さを測り、指の上に載せて重心を確かめる。
「この矢も預からせてもらいたい」
「同じものが作れますか?」
「同じものが作れるとは言わぬ」
老人は正直に答えた。
「だが、この森の素材を使い、そなたの射法に合う矢を作ってみよう」
明日華は少し考えた後、矢を老人へ差し出した。
「お願いします」
「うむ」
「どれくらいかかるんですか?」
結衣が尋ねる。
老人は指を折り、少し考えた。
「里を発つのは、いつだ」
「あと四日ほど滞在する予定です」
透が答える。
老人の眉間に、深いしわが寄った。
「四日か」
「難しいでしょうか」
明日華の問いに、老人は即答した。
「難しい」
明日華の表情が、わずかに曇る。
だが老人は、すぐに口元を緩めた。
「だが、間に合わせる」
「え?」
「あの素材を弓にしたいと考えて、すでに百年以上になる」
老人は腰の道具袋を確かめた。
「ようやく、その弓を引ける者が現れたのだ。四日程度、眠らずとも惜しくはない」
「匠長、それはお身体が……」
そばにいた弓士が、慌てて声をかける。
「百年待ったのだぞ」
老人は振り返りもせずに答えた。
「四日を惜しんでどうする」
そう言い残すと、老人は足早に鍛錬場を離れていった。
数人の弟子らしきハイエルフたちが、慌てて後を追っていく。
明日華は、その背中を呆然と見送った。
「なんだか、大変なことになったね」
結衣が言う。
「うん……」
明日華は手の中の和弓を見つめた。
やがて、その頬に小さな笑みが浮かぶ。
「でも、楽しみ」
普段は落ち着いている明日華には珍しい、年相応の少女らしい笑顔だった。
枝の上から、蒼姫が短く鳴いた。
その声は、新たな弓の誕生を告げる先触れのように、朝の森へ響いていった。




