第四十二話 それぞれの役目 後編
その日の午後。
族長館の奥では、ハイエルフたちが古い記録を広げていた。
族長ファルゼン。
古老エルンファーゼン。
リーファ。
そして、里の記録係たち。
卓の上には、木簡、皮紙、古い石板の写しが所狭しと並べられている。
午前中、ノーノーたちが地球の昆虫について調べ始めたと聞き、ファルゼンもまた、里に残る記録を可能な限り探すよう命じていた。
「ありました」
記録係の一人が、慎重に古びた皮紙を広げた。
「魔鋼虫の巣について記されたものです」
リーファが身を乗り出す。
そこには、簡素な線で奇妙な景色が描かれていた。
大地から立ち上がる、幾つもの尖塔。
その周囲には、小さな点のようなものが無数に描かれている。
「これが……コロニィ」
「そう伝えられています」
正確な写生ではない。
大きさも分からない。
だが、その形は午前中に見た地球の白蟻の巣を思わせた。
リーファは、その記録を別に取り分ける。
「これは、ノーノー様たちにも見ていただきましょう」
「うむ」
ファルゼンもうなずいた。
別の記録係が、色の薄れた地図を広げる。
「こちらには、旧パンゲア連邦の都市が記されています」
幾つもの印。
今では名さえ失われた都市。
北方の首都。
そして、南へ向かって伸びる幾筋もの線。
「この線は?」
「避難民が南へ逃れた道だとされています」
リーファは地図を見つめた。
「でも、南の国々には、千年前のことがほとんど伝わっていません」
「すべてが失われたわけではない」
エルンファーゼンが静かに答えた。
「言葉も、文字も、数の数え方も。学問の基礎も、貨幣も、衛生や医術の一部も」
古老は、ゆっくりと言葉を続ける。
「形を変えながら、南へ逃れた者たちによって受け継がれておる」
リーファは目を見開いた。
「では、今の南方諸国に共通するものの中にも……」
「旧パンゲアの名残はある」
エルンファーゼンがうなずく。
「じゃが、肝心の滅亡の記憶は残らなかった」
「なぜでしょう」
しばらく沈黙があった。
「語れなかったのであろう」
エルンファーゼンが答える。
「故郷を捨てた者たちには、逃げたという痛みがあった」
見えぬ瞳が、遠い過去を見るように伏せられる。
「北に残した者への悔いもあった。家族を失った者もおった。何もかも失い、ただ生き延びることしかできなかった者もおったじゃろう」
誰も口を挟まない。
「故に語らず、記さず。やがて子らにも伝えなくなった」
ファルゼンが険しい表情で地図を見つめる。
「そして、千年が過ぎた」
「そうじゃ」
「だが、今は掘り起こさねばならぬ」
ファルゼンの声に力がこもった。
「同じ災厄が、再び動き始めている」
「断片は、まだあります」
記録係が別の木簡を並べた。
「魔鋼虫の初期分類。大型種の目撃記録。脱皮についての記述。群れを統率したと思われる個体。そして、巣についての記録」
リーファが一つずつ見ていく。
「でも、全部ばらばら……」
「そうじゃ」
エルンファーゼンが古い記録に手を置いた。
「断片は残っておる。じゃが、つながっておらぬ」
千年前の人々が残した、小さな欠片。
戦い。
避難。
魔鋼虫。
都市。
巣。
生き延びた者たち。
「ならば今こそ、一つにつなぐべき時なのだ」
ハイエルフたちの役目。
それは、戦場に立つことだけではない。
千年の記憶を掘り起こし、今を生きる者へ手渡すこと。
それもまた、彼らにしかできない戦いだった。
「リーファ」
ファルゼンが娘を見る。
「お前は、透殿たちと共に行くのだな」
「はい」
迷いはなかった。
「私は森の外を見ました。ラザールで戦い、ミルファで人々の祈りを見ました」
胸に手を当てる。
「透たちと旅をして、この世界がどれほど危うい場所にあるのかを知りました」
父の目をまっすぐに見る。
「だから、もう何も知らなかった頃には戻れません」
ファルゼンは黙って聞いている。
「私は、森と外の世界をつなぐ役目を果たしたいのです」
長い沈黙。
父としてなら、娘を危険な旅へ送り出したくはない。
だが、族長として。
そして今を生きる一人として。
その決意を止めることはできなかった。
「分かった」
ファルゼンが静かに告げる。
「ならば行け」
「はい」
「だが、必ず戻れ」
リーファの表情が柔らかくなった。
「はい。必ず」
エルンファーゼンが穏やかに目を細める。
「若き者は外へ出る」
その手が、古い記録へ触れる。
「古き者は記憶を掘り起こす」
窓から、静かな風が吹き込んだ。
「そうして、長く眠っていた森もまた、動き始めるのじゃ」
◇◇◇
その頃。
森の外れでは、まったく別の声が響いていた。
「そこだ! 逃がすな!」
ガルドの太い声が、木々の間を駆け抜ける。
巨大な大剣を担ぎ、ハイエルフの精鋭たちと共に森を走っていた。
目的は魔獣狩り。
だが、食料調達だけではない。
互いの戦い方を知るための共同訓練でもあった。
ハイエルフたちは速い。
木々の間を音もなく駆け、枝へ飛び乗り、次々に位置を変える。
放たれた矢へ風の魔法をまとわせ、途中で軌道すら変えてみせた。
「なるほどな!」
ガルドが楽しそうに笑う。
「森でお前らを敵に回すのは御免だ」
枝の上から、精鋭の一人が答える。
「正面から魔獣の突進を受けようとするあなたも、十分に理解できません」
「受けられるなら、受けた方が早いだろ」
「普通は避けます」
「そうか?」
その瞬間。
茂みが大きく揺れた。
巨大な黒い大猪が飛び出してくる。
「来たぞ!」
ハイエルフたちが一斉に左右へ散った。
矢が飛ぶ。
脚。
目。
進路。
倒すためではない。
動きを制限するための矢だ。
「上手い!」
ガルドは大剣を構えた。
巨体が真正面から迫る。
「おおおおっ!」
激突。
地面がえぐれた。
ガルドの靴が土へ沈む。
だが、下がらない。
「重いじゃねえか!」
歯を見せて笑う。
「だが、魔鋼虫の大型に比べりゃ、まだ素直だ!」
「それと比べますか!」
ハイエルフの声が飛ぶ。
「他にちょうどいいのがいねえ!」
大剣が振り上げられた。
同時に、四方から矢が飛ぶ。
大猪が大きく体勢を崩した。
「今だ!」
ガルドの大剣が振り下ろされる。
やがて。
巨大な魔獣は、地響きを立てて倒れた。
森に静けさが戻る。
「ふう」
ガルドが大剣を肩へ担ぐ。
「いいじゃねえか」
精鋭たちを見る。
「俺が前を止める。お前らが周りから削る」
「あなたほど頑丈な前衛が、毎回いるとは限りませんが」
「なら、俺がいる時だけやればいい」
精鋭の一人が苦笑した。
「ですが、悪くありません」
「だろ?」
ガルドが豪快に笑う。
「次に魔鋼虫とやる時は、試してみようぜ」
互いの強さを知る。
戦い方を知る。
それもまた、これから必要になる備えだった。
◇◇◇
夕方。
族長館へ、それぞれが戻ってきた。
ハイエルフたちは、大量の古い記録を抱えている。
ガルドは、巨大な大猪の肉を担いでいた。
その姿を見つけた真白の目が輝く。
「お肉!」
「おう!」
ガルドが笑う。
「今日も肉だぞ!」
「やったー!」
真白が両手を上げる。
結衣が苦笑した。
「真白、虫の絵を描いてた時と全然顔が違う」
「虫は食べないもん」
「猪は食べるのじゃな」
ノーノーの言葉に、皆が笑った。
重い話ばかりでは、人は前に進めない。
食べる。
笑う。
眠る。
そしてまた、立ち上がる。
それも、生きる者の強さだった。
◇◇◇
夜。
族長館の広間に、主だった者たちが集まった。
ノーノーの前には、地球の昆虫について書き写した資料。
ファルゼンの前には、千年前の古い記録。
その二つが、同じ卓の上へ置かれていた。
「面白いことになってきたのう」
ノーノーが、白蟻の巣を写した図と古い皮紙を並べる。
「やはり、似ておりますね」
セシリアが言う。
「はい」
リーファもうなずいた。
「午前中に見せていただいたものを思い出して、すぐにお持ちしました」
透も二つを見比べる。
地球の白蟻の巣。
千年前の魔鋼虫のコロニィ。
同じものではない。
だが。
無関係とも思えない。
「まだ分からないことだらけじゃ」
ノーノーが言う。
「だからこそ、調べる」
セシリアも続けた。
「ドワーフの里では、外殻や関節を効率よく破壊できる武器について相談しましょう」
「古い記録の整理はこちらで続ける」
ファルゼンが答える。
「必要なものは写しを作り、リーファに持たせよう」
「俺はハイエルフの連中と戦い方を詰める」
ガルドが腕を組む。
「森や山なら、こいつらはかなり強い」
「王都も動き始めています」
セリナが告げた。
「これから各都市へも警戒が伝わるはずです」
それぞれに役目がある。
セリナは伝える。
ノーノーとセシリアは調べる。
ハイエルフは記憶を掘り起こす。
ガルドは戦い方を整える。
リーファは森と外をつなぐ。
そして神代家は、自分たちの世界から持ち込んだ知識と力を使って前へ進む。
「透さん」
セリナが透を見る。
「これから、さらに多くのことをお願いすることになると思います」
「僕たちにできることなら」
透が答えると、すぐ横から声が飛んだ。
「お兄」
「ん?」
「ちゃんと休むのも役目だからね」
結衣だった。
「結衣の言う通りです」
明日華もうなずく。
「あにさまは、すぐ自分を後回しにしますから」
「とおるんは、ちゃんと寝る役目もあるよ」
真白まで加わる。
「寝るのも役目なのか?」
「役目だもん」
蒼姫が静かに微笑んだ。
「守る者が倒れては、守られる者も困りましょう」
「決まりだな!」
ガルドが声を上げて笑う。
「神代家遊撃隊の隊長には、休む役目も追加だ!」
「だから、いつ僕が隊長になったんですか」
「他に誰がいる」
「……」
透は返す言葉に困った。
笑い声が広間に響く。
重すぎるものを、一人に背負わせるのではない。
誰もが、それぞれにできることをする。
神代家に託すのではなく。
神代家と共に戦う。
その思いは、この日、確かな形を取り始めていた。
◇◇◇
夜が更ける。
ハイエルフの里に、静かな灯がともる。
遠くから、ピクシーたちの小さな歌声が聞こえていた。
森は変わらず美しい。
だが。
その森もまた、千年の眠りから目を覚まそうとしていた。
◇◇◇
その頃。
遠く離れた、もう一つの世界。
日本。
深い山々に囲まれた道を、一台の車が走っていた。
ハンドルを握る隆志。
助手席の美琴は、黙って前を見つめている。
後部座席では、宗玄が腕を組み、静かに目を閉じていた。
目指す先は熊野。
古より、八咫烏の伝承が残る地。
届かぬはずの声を。
もう一度、子どもたちへ届けるために。
山は深く。
道はさらに、その奥へと続いている。
その時。
神代家は、奥熊野の山並みを目指していた――。




