第三十九話 理の外から来た者達 前編
翌朝。
ハイエルフの里には、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
昨夜の重い空気が、すべて消えたわけではない。
古老エルンファーゼンの語った千年前の歴史は、透たちの胸に深く残っていた。
旧パンゲア連邦。
北に残った者たち。
南へ逃れた者たち。
語られなくなった歴史。
忘れたのではなく、忘れようとした記憶。
それは、一晩眠ったくらいで整理できる話ではなかった。
だからこそ、その日は無理に話し合いを進めないことになった。
族長ファルゼンも、リーファの母フィレオナも、静かにそう勧めてくれた。
「昨日のお話は、すぐに心の中で整理できるものではありません。今日は里でゆっくりお過ごしください」
そう言われ、透たちはそれぞれの形で一日を過ごした。
前日のキノコ採りでは、真白が得意げに籠を抱え、蒼姫が空から森を見張り、結衣と明日華も年相応の笑顔を見せた。
ガルドの狩りも無事に終わり、夜には大きな猪肉が振る舞われた。
ハイエルフたちも、旅の一行も、久しぶりに心から笑っていた。
だが、その明るさは、すべてを忘れるためのものではなかった。
重すぎる話を受け止めるために、必要な休息だったのだ。
◇◇◇
そして翌日、昼前。
族長館の奥にある広間に、透たちは集まっていた。
広間には、族長ファルゼン、古老エルンファーゼン、リーファの姿がある。
旅の一行からは、透、セリナ、セシリア、ガルド、ノーノー、ノア。
そして結衣、明日華、真白、蒼姫も同席していた。
真白は透のすぐ隣に座り、少し眠そうに目をこすっている。昨日はしゃぎすぎたせいだろう。
蒼姫は明日華の肩ではなく、今日は人の姿で静かに座っていた。
広間の中央には低い卓が置かれ、温かな茶が並べられている。
だが、誰も軽々しく口を開こうとはしなかった。
昨日までの宴の空気とは違う。
ここから先は、笑って済ませられる話ではない。
最初に口を開いたのは、ノーノーだった。
「さて」
小さな金猿族の賢者は、手にした杖を軽く床に突いた。
こん、と乾いた音が広間に響く。
「森で騒ぎ、肉を食い、酒を飲み、少しは皆の心もほぐれたじゃろう。ならば、そろそろ逃げずに話さねばならぬ」
その言葉に、透は静かに背筋を伸ばした。
セリナも表情を引き締める。
結衣と明日華は顔を見合わせ、それから黙ってノーノーへ視線を向けた。
「これまで起こったことを、今一度整理しておきたい」
ノーノーはそう言って、ゆっくりと周囲を見回す。
「始まりは、アストレアで下された不吉な神託じゃった」
セリナの肩が、わずかに揺れた。
あの時のことを思い出したのだろう。
王都アストレアに下された神託。
災厄の予兆。
そして、セリナの祈り。
「この世界に大きな災いが迫っている。そう告げられた。じゃが、その災いが何であるか、はっきりと分かった者はおらなんだ」
ノーノーの声は低く、しかしよく通った。
「その祈りに応えるかのように、異世界より導かれた者がいる」
全員の視線が、自然と透へ向いた。
透は一瞬、居心地悪そうに目を伏せる。
「神代透。おぬしじゃ」
「……はい」
透は小さく答えた。
ノーノーは続ける。
「おぬしは、この世界の者ではない。魔核を持たず、魔法も使えぬ。にもかかわらず、魔鋼虫を斬る力を持っていた」
透は黙って聞いていた。
「グランドワイズの戦い。あの戦いで、もしおぬしがおらなんだら、関門は落ちていた可能性が高い」
ガルドが重く頷く。
「ああ。あれは間違いねえ。俺たちだけじゃ、あの指令種までは届かなかった」
セシリアも静かに言った。
「魔導砲も、魔法も、兵も、すべてを尽くしました。それでも最後に流れを変えたのは、透様でした」
「透さんだけではありません」
セリナが口を挟んだ。
彼女の視線は、結衣たちへ向けられていた。
「その後、危機的な状況の中で、結衣さん、明日華さん、真白さん、蒼姫さんが現れました。まるで、透さんを支えるために導かれたように」
結衣が少し肩をすくめた。
「いや、あれは……おにぃを追いかけてきただけっていうか」
「そうです。兄さまを一人にするわけにはいきませんでしたから」
明日華も静かに言う。
真白は胸を張った。
「真白も、とおるんを助けに来たんだもん」
蒼姫は真白の隣で、わずかに目を細めた。
「我らは神代の護り。主らの行くところに従うのみです」
その言葉に、エルンファーゼンが深く息を吐いた。
「異界より来たりし者たち……か」
ノーノーは頷く。
「そして、ラザールの戦いじゃ」
空気が、さらに重くなった。
ラザール。
あの砂の都市で、透たちは魔鋼虫の群れと戦った。
グランドワイズとは違い、あの戦いは都市のすぐ外で起こった。
南方にまで魔鋼虫が現れたという事実は、重かった。
「ラザールでも、透たちの働きがなければ、被害はさらに大きくなっていたじゃろう。魔鋼虫の群れが都市へ迫る中、それを退けた」
ファルゼンが腕を組み、静かに問いかける。
「ノーノー殿。つまり、貴殿はこう言いたいのか。これらは偶然ではないと」
「そうじゃ」
ノーノーは即座に答えた。
「わしには、偶然とは思えぬ」
広間に沈黙が落ちた。
茶の湯気だけが、ゆっくりと揺れている。
ノーノーは、さらに言葉を重ねた。
「魔鋼虫は、この世界に現れた災厄じゃ。しかも、ただの魔物ではない。魔核を持たず、既存の理から外れた存在。千年前、北の大地に現れ、人族の国を滅ぼした」
古老エルンファーゼンが目を閉じる。
彼は、その歴史の一部を知っている。
語り継いできた者であり、忘れぬために生きてきた者でもある。
「しかし」
ノーノーは声を低めた。
「その後、千年もの間、魔鋼虫は南へ大きく広がらなかった。アストレアをはじめとする南の国々、都市、亜人たちの里。それらは危ういながらも、均衡の中にあった」
セリナが小さく頷いた。
アストレアでは、魔鋼虫の存在すらほとんど知られていなかった。
「その均衡が、破れた」
ノーノーの言葉に、誰も反論しなかった。
「北方の町は焼かれた。ラザールにも現れた。グランドワイズにも押し寄せた。魔鋼虫は明らかに、生息域を広げ始めておるように見える」
結衣が膝の上で拳を握る。
明日華の表情も硬い。
真白は透の袖を、そっとつかんでいた。
「そして、その時期に合わせるかのように、神代透が現れた。さらに、結衣、明日華、真白、蒼姫が現れた」
ノーノーは透たちをまっすぐ見た。
「これを、ただの偶然と言い切れるかのう」
透は答えられなかった。
偶然。
そう思いたい気持ちはある。
けれど、自分自身もどこかで感じていた。
この世界へ来たこと。
セリナたちと出会ったこと。
魔鋼虫と戦うことになったこと。
そして、結衣たちがこの世界へ来たこと。
あまりにも出来すぎている。
「創造神の御心なのか」
ノーノーはぽつりと言った。
「あるいは、この世界そのものが災厄に対して求めた答えなのか。わしには分からぬ」
セリナが祈るように両手を合わせた。
その横顔は、聖女というより一人の少女のものだった。
「ですが、私も感じています。透さんたちは、ただ巻き込まれただけではないのではないかと」
「セリナ様……」
透が困ったように名前を呼ぶ。
セリナは、すぐに首を横に振った。
「もちろん、透さんたちに重荷を押しつけたいわけではありません。けれど、これまでの出来事を振り返れば、そう考えずにはいられないのです」
ノーノーが頷く。
「魔鋼虫がこの世界の理から外れた災厄であるならば、神代家の者たちもまた、この世界の理から外れた存在なのじゃ」
その言葉に、広間の空気が張り詰めた。
理の外。
それは否定の言葉ではなかった。
この世界の常識では測れない、という意味だった。
「透は魔核を持たぬ。ゆえに魔法は使えぬ。じゃが、魔素枯渇の影響を受けにくい。魔鋼虫からも餌として認識されにくい。そして、その剣は魔鋼虫の外殻を断つ」
ノーノーは次に、結衣を見た。
「結衣もまた、この世界の者とは違う力を持っておる。魔法ではなく、鍛えた身体と技で戦う。魔核に頼らぬ戦い方じゃ」
「私は、まだまだです」
結衣は少し照れたように言った。
だが、ノーノーは首を振る。
「謙遜はよい。おぬしの鉄棍は、すでに魔鋼虫相手に通用しておる」
結衣は口を閉じた。
ノーノーの視線は、明日華へ向かう。
「明日華。おぬしの弓も同じじゃ。この世界の弓兵とは異なる理で放たれる矢。魔法ではなく、技と集中で敵を射抜く」
「……はい」
明日華は静かに答えた。
次に、真白。
「真白は、癒やしと守りの力を持つ。じゃが、それもまた、この世界の治癒魔法とはどこか違う。魔素の流れだけでは説明できぬものがある」
真白は首を傾げる。
「真白は、みんなを守りたいだけだよ」
「それでよい」
ノーノーは少しだけ微笑んだ。
「その心こそ、力の根じゃ」
最後に、蒼姫。
「蒼姫。おぬしは八咫烏という名の霊獣なのだろう。空を行き、炎を操り、時に人となる。この世界の魔物とも聖獣とも違う存在じゃ」
蒼姫は静かに頭を下げた。
「私の力は、明日華とその縁者を守るためのものです」
「うむ」
ノーノーは杖を握り直した。
「つまりじゃ。魔鋼虫という、この世界の理から外れた災厄に対し、同じく理の外より来た神代家の者たちが立ち向かっておる」
その言葉は重かった。
透は思わず息を呑んだ。
自分たちが特別だと言われることには、まだ慣れない。
いや、慣れたくなかった。
透にとっては、ただ目の前の人を助けたいだけだった。
セリナを助けたい。
ノアを守りたい。
ガルドやセシリア、ノーノー、リーファたちと共に戦いたい。
そして、結衣たちを守りたい。
それだけだった。
「ある意味では」
ノーノーは、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「神代家は、この世界にとっての救世主なのかもしれぬ」
その言葉に、広間の空気が止まった。
透は、すぐには答えられなかった。
救世主。
あまりにも重い言葉だった。




