第三十七話 眠れぬ夜
その夜。
ハイエルフの里に用意された宿舎は、静まり返っていた。
窓の外では森を渡る風が木々を揺らし、かすかな葉擦れの音だけが夜の闇に溶けている。
透は自室の寝台に横になりながら、昼間に聞いた古老エルンファーゼンの話を思い返していた。
千年前の戦い。
滅びた国々。
逃げ惑う人々。
北に残った者たち。
南へ逃れた者たち。
そして今なお続く、魔鋼虫との戦い。
考えれば考えるほど、重い話だった。
戦った者たちを責めることはできない。
逃げた者たちを責めることもできない。
どちらも守りたいものがあり、どちらも何かを失った。
透は天井を見つめたまま、小さく息を吐く。
古老の言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
――斬るべきものを見誤るな。
それは、ただ魔鋼虫を倒せという意味ではないのだろう。
何を守るのか。
誰を守るのか。
そのために、何を選ぶのか。
それを見失うなということなのだと思った。
そんな時だった。
こんこん。
小さなノックの音が響いた。
「ん?」
透が起き上がる。
こんな時間に誰だろうと思いながら、扉の方へ視線を向けた。
「とおるん……起きてる?」
聞こえてきたのは、真白の声だった。
「真白?」
透は寝台から降り、扉を開けた。
そこには、着ぐるみの寝間着姿の真白が立っていた。
小さな腕で枕を抱え、白い耳を少しだけ伏せている。
いつものような得意げな顔ではない。
どこか不安そうだった。
「どうした?」
「うん……その……」
真白はもじもじと視線を泳がせた。
「今日は、なんだか怖いのじゃ……」
透は何も言わず、真白を見た。
昼間の話を思い出しているのだろう。
滅びた国。
逃げた人々。
残された者たち。
そして、魔鋼虫。
真白は守護霊獣であり、法術も使える。
けれど、見た目はまだ幼い少女だ。
すべてを理解できなくても、あの場に流れていた重さは感じ取っていたはずだった。
「そっか」
透は小さく笑った。
「仕方ないな」
真白の耳がぴくりと動く。
「いいの!」
「少しだけだぞ」
「うん!」
真白はぱっと顔を明るくすると、てててっと寝台へ駆け寄った。
そして迷いなく布団に潜り込み、満足そうに丸くなる。
「あったかい」
「子供か」
「子供じゃ」
真白は布団の中で胸を張った。
そのあまりにも堂々とした返事に、透は思わず苦笑する。
「開き直ったな」
「真白は正直者なのじゃ」
「はいはい」
透が扉を閉めようとした、その時だった。
ばたばたばた。
廊下を走る足音が聞こえてきた。
次の瞬間、勢いよく扉が開く。
「おにぃ!」
「結衣?」
結衣が慌てた様子で飛び込んできた。
その手には、しっかり自分の枕が抱えられている。
「真白がいなくなった!」
「ここにいるぞ」
布団の中から、真白が顔だけを出した。
「いた!」
結衣はほっとした顔をする。
だが、すぐに表情を変えた。
「……じゃなくて!」
びしっと透を指差す。
「ずるい!」
「何で」
「真白だけ、おにぃの部屋で寝てる!」
「いや、まだ寝てないのじゃ」
「もう寝てるじゃん!」
「寝てない。ぬくぬくしてるだけ」
「同じ!」
結衣はぷくっと頬を膨らませた。
そして、何かを決意したように頷く。
「私も一緒に寝る」
「は?」
「今日は特別!」
「いや、結衣――」
「決定!」
そう言うなり、結衣は透の返事を待たずに布団へ潜り込んできた。
「おい」
「今日はいいの」
結衣はそう言って、透の横にぎゅっと身体を寄せる。
いつものような勢いはある。
けれど、その声はどこか小さかった。
透は文句を言いかけて、やめた。
結衣も怖かったのだ。
昼間は真剣な顔で古老の話を聞いていた。
分かったことも、分からなかったこともあっただろう。
それでも、たくさんの人が故郷を失い、家族と別れ、語れないまま千年が過ぎたということは、結衣にも伝わっていたはずだった。
「……少しだけだからな」
「うん」
結衣は小さく頷いた。
その時だった。
こんこん。
今度は遠慮がちなノックが響いた。
「失礼します……」
入ってきたのは明日華だった。
だが、その手には、やはりしっかり枕が抱えられている。
透は嫌な予感がした。
「明日華?」
「……」
明日華は少しだけ視線を逸らした。
「その……」
「うん」
「私も……今日は少しだけ、眠れそうになくて」
珍しく弱気な表情だった。
明日華は普段、結衣よりも落ち着いている。
自分の不安を表に出すことも少ない。
だが今は、胸の奥にあるものを隠しきれていないようだった。
「古老様のお話を聞いていたら、色々と考えてしまいました」
明日華は枕を抱きしめる手に、少しだけ力を込める。
「もし、私たちがあの時代にいたらどうしたのだろう、とか。もし、兄さまが北に残ると言ったら、私はどうするのだろう、とか」
透は黙って明日華を見る。
その問いは、透自身も考えていたことだった。
戦うのか。
逃がすのか。
残るのか。
生き延びるのか。
簡単に答えなど出ない。
透は少しだけ表情を緩めた。
「おいで」
明日華の顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。
「はい」
明日華は静かに部屋へ入り、そっと布団へ潜り込んだ。
だが、すでに寝台には真白と結衣がいる。
当然、広さには限界があった。
「狭い!」
結衣が小声で抗議する。
「結衣ねぇが広がりすぎなのじゃ!」
「真白が場所取ってる!」
「わらわは小さいのじゃ!」
「二人とも、静かに」
明日華が苦笑しながらたしなめる。
結果。
透の寝台は、あっという間にぎゅうぎゅう詰めになった。
左に真白。
右に結衣。
その向こうに明日華。
寝返りどころか、身動きすらまともに取れない。
「……狭いな」
「我慢して」
結衣が小さく言った。
「おにぃは大きいから大丈夫」
「どういう理屈だ」
「おにぃだから」
「理屈になってない」
透が呆れると、真白が透の腕にしがみついた。
「とおるんは、あったかいのじゃ」
「湯たんぽ扱いか」
「違う。とおるんじゃ」
「それはどうも」
そんなやり取りをしていると、結衣がぽつりと呟いた。
「……昔の人たち、かわいそうだったね」
部屋の空気が、少しだけ静かになる。
透は結衣の方を見る。
結衣は布団の端を握りしめ、視線を落としていた。
「残った人も、逃げた人も、どっちもつらかったんだよね」
「そうだな」
透は静かに答える。
「どっちも、守りたいものがあったんだと思う」
明日華が小さく頷いた。
「残った方が正しいとも、逃げた方が間違っているとも、簡単には言えません」
「うん」
結衣は唇を結んだ。
「でも、家族を置いていくのは嫌だよ」
その声は、少し震えていた。
「置いていかれるのも嫌」
透は何も言えなかった。
昼間、古老の話を聞きながら、透も同じことを考えていた。
もし、結衣たちを逃がすために、自分だけが残ることになったら。
もし、自分が戦場に残り、結衣たちだけを南へ向かわせることになったら。
それは本当に、守るということなのか。
それとも、別の傷を残すことなのか。
答えは出なかった。
「真白も嫌じゃ」
真白が透の腕をぎゅっと抱きしめる。
透は真白を見る。
真白は白い耳を伏せたまま続けた。
「でも、とおるんだけ残るのは嫌じゃ」
その言葉が、透の胸に静かに刺さった。
真白は幼い。
だからこそ、言葉がまっすぐだった。
結衣も明日華も、黙って透を見ている。
透は少しだけ困ったように笑った。
「そうだな」
そして、ゆっくりと言う。
「俺も、みんなを置いていくのは嫌だ」
「本当?」
結衣がすぐに聞き返す。
「本当だ」
「勝手に一人でどこか行かない?」
その問いに、透はすぐには答えなかった。
絶対に死なない。
絶対に離れない。
そんな約束はできない。
これから先、どんな戦いが待っているか分からない。
魔鋼虫は強大で、世界はまだ分からないことだらけだ。
だから、軽い言葉で安心させることはできなかった。
けれど。
「勝手に一人で背負って、どこかへ行ったりはしない」
透は静かに言った。
「約束する」
結衣はじっと透を見ていた。
「ほんとに?」
「ああ」
透は頷く。
「戦う時も、逃げる時も、何かを決める時も、ちゃんとみんなと話す」
明日華の表情が、少しだけ和らいだ。
「兄さまらしい約束ですね」
「絶対に大丈夫、とは言えないからな」
透は苦笑した。
「でも、一人で決めないことなら約束できる」
結衣は少し考えてから、こくりと頷く。
「じゃあ、それでいい」
「上からだな」
「妹だから」
「それも理屈になってない」
結衣は透の袖を掴んだ。
「でも、それならいい」
その声は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
明日華も、透の反対側で小さく息を吐く。
「私も、それなら安心できます」
「うん」
真白も頷いた。
「とおるんは、一人で無茶ばかりするし」
「俺、そんなに信用ないか?」
「あるぞ」
真白は真面目な顔で答えた。
「でも、心配なのじゃ」
その言葉に、透は何も返せなくなった。
信用と心配は、別なのだろう。
ふと、部屋の隅から羽音がした。
蒼姫が八咫烏の姿のまま、止まり木にとまっている。
金色の瞳が、静かに家族を見守っていた。
「蒼姫も寝ろよ」
『私は見張りをしております』
「真面目だな」
『当然です』
その声はいつも通り落ち着いていた。
けれど、どこか優しかった。
『透様が約束を破らぬよう、見張る必要もありますので』
「そこも見張り対象なのか」
『はい』
結衣が布団の中でくすっと笑う。
「蒼姫、えらい」
『ありがとうございます、結衣様』
透は軽くため息をついた。
「味方がいない」
「おにぃが悪い」
「真白もそう思う」
「私も少しだけ」
「明日華まで」
小さな笑いが、部屋に広がった。
それは昼間の重い話を忘れるための笑いではなかった。
忘れないまま、それでも今ここにいる温かさを確かめるような笑いだった。
やがて、結衣の声が小さくなっていく。
「おにぃ……」
「ん?」
「昔の人たちも……誰かと一緒に眠れたらよかったね」
透は言葉を失った。
結衣は半分眠りに落ちかけながら、それでもぽつりと続ける。
「ひとりぼっちは、嫌だもん」
「……そうだな」
透は静かに答えた。
「そうだな」
結衣は安心したように目を閉じる。
やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。
真白も透の腕を抱いたまま、すやすやと眠りにつく。
明日華は最後まで起きているつもりだったのかもしれない。
けれど、いつの間にか透の袖を軽く握ったまま、穏やかな寝顔を浮かべていた。
蒼姫は静かに翼をたたむ。
窓の外では、森の葉擦れが夜に溶けていた。
透は身動きできないまま、天井を見つめる。
――斬るべきものを見誤るな。
古老の言葉が、また胸の奥で響いた。
透は、眠る結衣たちを見る。
守るべきものは、ここにある。
それだけは、見誤らない。
そう思いながら、透もゆっくりと目を閉じた。
ハイエルフの里の夜は、静かに更けていった。




