第三十六話 忘れようとした歴史
古老の語りが終わった。
誰も、すぐには言葉を発することができなかった。
広間には、静かな沈黙だけが落ちていた。
千年前。
旧パンゲア連邦。
北の大地に栄えた、人族の巨大な国家。
魔導飛行船が空を行き交い、魔導ポッドが都市と都市を繋ぎ、十二の支族が共和制のもとで共に生きていた時代。
そして、地下に開いた得体の知れない裂け目から現れた魔鋼虫。
首都の陥落。
地方都市への分散。
膨大な魔素を使い果たし、都市ごと衰えていった人々。
指令種。
コロニーの分散。
魔鋼虫がただの魔物ではなく、組織的に増殖し、生息域を広げる存在であったという事実。
その一つ一つが、透たちの胸に重く沈んでいた。
セリナは、膝の上で両手を握りしめていた。
王国の聖女として、アストレアの歴史は学んできたつもりだった。
だが、今聞かされた話は、そのどこにもなかった。
いや、なかったのではない。
伝わっていなかったのだ。
セシリアも、珍しく言葉を失っていた。
王国最高の魔法使いである彼女にとって、魔法とは誇りであり、知識であり、力であった。
けれど、古老が語った大規模魔法の末路は、あまりにも重かった。
魔素を使い果たした土地。
癒やしの届かぬ戦場。
魔法を放つ者が、自らの命を削って倒れていく光景。
それは、魔法の栄光ではなく、魔法の限界を示す話でもあった。
ノーノーは、いつものような軽い調子を見せなかった。
金猿族の大賢者は、ただ黙って杖の先を見つめている。
千年前にも、人々は知恵を尽くした。
それでも敗れた。
その事実は、ノーノーの小さな背中に、見えない重みを乗せていた。
ガルドは腕を組み、じっと黙っていた。
戦士である彼には分かるのだろう。
百年戦い続けた者たちのことが。
そして、最後まで勝てなかった者たちのことが。
リーファは、父である族長ファルゼンの隣で顔を伏せていた。
ハイエルフとして、古き時代の話を断片的には聞いていた。
けれど、これほど詳しく、これほど痛みを伴う形で聞いたのは初めてだった。
結衣も、明日華も、真白も、言葉を失っていた。
古老の話を聞くのだと、最初は張り切っていた結衣でさえ、今は膝の上で両手を握りしめたまま黙り込んでいる。
明日華は蒼姫を胸元に抱くようにして、じっと古老を見つめていた。
真白は結衣の隣で、白い耳を伏せている。
ノアもまた、いつものように透のそばへ駆け寄ることなく、リリアとモモの近くで小さく座っていた。
幼い者たちには、すべてを理解することは難しかったかもしれない。
それでも、今語られたものがただの昔話ではないことだけは、誰にも分かっていた。
透は、しばらく黙っていた。
古老の言葉を、胸の中で一つ一つ噛みしめている。
そして、ふと一つの疑問が浮かんだ。
それは、今まで旅をしてきたからこそ感じた疑問だった。
王都アストレア。
ラザール。
サーディル。
ミルファ。
どの町でも、旧パンゲア連邦の話を聞いたことはなかった。
北の大地が危険であることは、漠然とは知られている。
だが、今古老が語ったほどの歴史は、どこにも残っていなかった。
透は静かに手を挙げた。
「一つ、聞いてもいいですか」
その声に、皆の視線が透へ向いた。
古老は、盲いた瞳をわずかに動かす。
「よい。申してみよ」
透は少しだけ言葉を選んだ。
誰かを責めるための問いではない。
ただ、知らなければならないと思った。
「旧パンゲア連邦ほどの国があったのなら、どうして今の人族国家にその話が残っていないんですか」
セリナが、わずかに顔を上げた。
透は続ける。
「アストレアでも、ラザールでも、そんな話は聞いたことがありませんでした。魔鋼虫についても、ほとんど伝わっていません」
その言葉に、セリナの表情が曇る。
透は彼女を責めているわけではない。
それは、セリナにも分かっていた。
それでも王国の王女として、自分たちが何も知らなかった事実は重かった。
「どうしてなんでしょう」
広間に、再び沈黙が落ちた。
古老は、すぐには答えなかった。
白く長い眉の下で、見えぬ瞳を閉じる。
その表情には、ただ古い知識を思い出す者の顔ではなく、深い痛みを抱えた者の影があった。
やがて、古老はゆっくりと口を開いた。
「……それはな」
低く、静かな声だった。
「人々が忘れたからではない」
透は息を止めた。
古老は続ける。
「忘れようとしたからじゃ」
一同が、わずかに息を呑んだ。
忘れたのではない。
忘れようとした。
その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
古老は、ゆっくりと顔を上げる。
「千年前、連邦の民は一つではなかった」
誰も口を挟まなかった。
「故郷を取り戻すため、最後まで戦うべきだと考える者たちがおった」
古老の声は、遠い戦場の風を運んでくるようだった。
「首都を奪われ、家族を失い、都市を焼かれてなお、北の大地に残り、魔鋼虫と戦い続けるべきだと考えた者たちじゃ」
ガルドの拳が、わずかに握られた。
「一方で、もはや勝てぬと悟った者たちもおった」
古老は言葉を切る。
「これ以上戦えば、民そのものが絶える。ならば、生き残った者を連れて南へ向かうべきだ。そう考えた者たちじゃ」
セリナが、そっと胸元に手を当てた。
戦う者。
逃れる者。
どちらが正しいのか。
簡単に答えの出せる話ではなかった。
「連邦の民は、二つに分かれた」
古老の声が、静かに広間へ響いた。
「北に残った者たちは戦い続けた。南へ向かった者たちは、生き延びることを選んだ」
リーファが唇を噛んだ。
南へ向かった者たち。
その中には、今の人族国家の祖となった者たちもいたのだろう。
「どちらも、民を守ろうとしておった」
古老は、はっきりとそう言った。
「北に残った者たちは、故郷を守ろうとした。奪われた大地を取り戻そうとした。死んでいった者たちの無念を背負っておった」
ガルドが目を伏せる。
「南へ向かった者たちは、命を繋ごうとした。子を連れ、老人を連れ、傷ついた者を連れ、まだ生きている民を絶やすまいとした」
セリナの瞳が揺れた。
「どちらも間違っていたとは言えぬ」
古老は深く息を吐いた。
「じゃが、その決断は互いに深い傷を残した」
沈黙が重くなる。
「北に残った者たちから見れば、南へ向かった者たちは故郷を捨てた者に見えたであろう」
セシリアが小さく息を吸う。
「南へ向かった者たちから見れば、北に残った者たちは、帰らぬ戦いへ身を投じた者たちであった」
ノーノーが目を閉じた。
「互いに、互いを理解しきれなかった」
古老は遠くを見るように顔を向ける。
「そして、生き残った者ほど重いものを背負った」
その言葉に、透は胸の奥が痛むのを感じた。
生き残った者ほど、重いものを背負う。
それは、戦いの中で生きて帰った者にしか分からない痛みなのかもしれない。
「南へ逃れた者たちは、自らが故郷を捨てたという思いを抱え続けた」
古老の声が、少しだけ震えた。
「家族を北に残してきた者もおった。友を残してきた者もおった。親を、兄弟を、師を、恋人を、戦場に置いてきた者もおった」
誰も言葉を発しなかった。
「故に、語らなくなったのじゃ」
古老は静かに言った。
「敗北を」
その一言が、広間に落ちた。
「故郷を失った日を」
誰も動かなかった。
「そして、北に残った者たちのことを」
透は、無意識に拳を握っていた。
古老は続ける。
「語れば、痛む」
その声は、とても静かだった。
「語れば、責められる」
「語れば、あの日に戻ってしまう」
広間の空気が、さらに重くなる。
「だから、子へ語らず」
古老は、ゆっくりと言葉を置いた。
「孫へ語らず」
「そのまた子へも語らず」
セリナの瞳に、涙が浮かんでいた。
「やがて、歴史そのものが封じられた」
古老は目を閉じたまま告げる。
「千年という歳月の中でな」
長い沈黙が落ちた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
透は古老の言葉を、胸の中で繰り返していた。
忘れたのではない。
忘れようとした。
いや、忘れようとしなければ、生きていけなかったのかもしれない。
「……忘れたんじゃなくて」
透は小さく呟いた。
「語れなかったんですね」
古老は、ゆっくりと頷いた。
「その通りじゃ」
透は顔を伏せた。
そして、少し離れた場所に座る結衣たちを見る。
結衣。
明日華。
真白。
蒼姫。
ノア。
もし、自分が千年前の人々と同じ立場に置かれたら、どうしただろう。
戦えと言えるのか。
逃げろと言えるのか。
最後まで残れと命じられるのか。
生き延びろと背中を押せるのか。
簡単に答えなど出なかった。
「どちらも」
透は、ゆっくりと口を開いた。
皆の視線が再び透へ向く。
「どちらも、人々を守ろうとしたんですね」
古老は、透の方へ顔を向けた。
見えぬはずの瞳が、まるで透の内側を見つめているようだった。
「北に残った人たちは、故郷を守ろうとした。南へ逃れた人たちは、命を繋ごうとした」
透は一度、言葉を切った。
「どちらも、守りたいものがあったんだと思います。だから……どちらかを責めることは、俺にはできません」
古老は、しばらく透を見つめるように黙っていた。
やがて、かすかに口元を緩める。
「そう言える者が、今この場におることに、意味があるのかもしれぬな」
「意味、ですか」
「千年前、人々は分かたれた。戦う者と逃れる者。残る者と去る者。守るものが同じであったにもかかわらず、その道は二つに分かれた」
古老は杖の先を床に軽く置いた。
「じゃが今、おぬしたちは共におる」
その言葉に、透は周囲を見た。
セリナ。
セシリア。
ノーノー。
ガルド。
リーファ。
結衣。
明日華。
真白。
蒼姫。
ノア。
そして族長たち。
種族も立場も違う者たちが、今、同じ場所に座っている。
「千年前には、分かたれた」
古老は言った。
「ならば今度は、分かたれてはならぬ」
セリナが顔を上げた。
「魔鋼虫は、種族を選ばぬ。人族も、エルフも、ドワーフも、獣人も、魔核を持つ者すべてを喰らう」
古老の声に、かすかな力がこもった。
「ならば、立ち向かう者もまた、種族を選んではならぬ」
ノーノーが、ゆっくりと目を開けた。
「確かにのう。千年前の敗因の一つは、情報と力が分散しすぎたことかもしれん」
いつもの調子には戻りきっていないが、その声には大賢者としての鋭さがあった。
「知識を隠し、痛みを封じ、互いに語らぬまま千年が過ぎた」
セシリアが頷く。
「私たちは、魔鋼虫についてあまりにも知らなすぎました」
その声には悔しさが滲んでいた。
「知らなかったことを恥じるより、これから知ることの方が大切ですね」
ノーノーが小さく笑った。
「うむ。知らぬことを知らぬと認められる者は、まだ伸びるわい」
「ノーノー様に言われると、少々腹が立ちますね」
「ほっほっほ。元気が戻ってきたようで何よりじゃ」
重かった空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、誰も笑いきることはできなかった。
セリナは、改めて古老へ向き直る。
「エルンファーゼン様。今のアストレアには、この歴史はほとんど伝わっていません」
セリナの声は震えていたが、そこには王女としての意志があった。
「けれど、知らなかったままでいるわけにはいきません。私はアストレアに戻ったら、父にこの話を伝えます」
セシリアも頷く。
「魔法運用も見直す必要があります。大規模魔法の使用と、魔素の枯渇が戦場全体に与える影響も、再検証しなければ」
「魔導具の方もじゃな」
ノーノーが杖を撫でた。
「魔導爆裂砲、魔核爆裂弾、バリスタ、騎獣運用。できることは多い。じゃが、千年前の失敗を知らずに力だけ増やしても、同じ穴に落ちるやもしれん」
ガルドが低く言った。
「なら、俺たちは戦い方を変えるしかねえな」
透がガルドを見る。
ガルドは腕を組んだまま続けた。
「根性で突っ込んで勝てる相手じゃねえってことだ。魔鋼虫の生態、指令種、撤退の条件。そういうのを全部考えて戦わなきゃならねえ」
「はい」
透は頷いた。
古老は、そのやり取りを静かに聞いていた。
「忘れられたからといって、消えたわけではない」
古老はぽつりと言った。
「語られなくなったからといって、無かったことになったわけでもない」
誰もが、その言葉を聞いていた。
「わしら古老は、その記憶を伝えるために生き残った」
古老は杖を握りしめる。
「今日、おぬしたちは聞いた。そして、受け止めた」
その声は静かだった。
「ならば、わしが生きてきた千年にも、まだ意味はあったということじゃ」
誰も言葉を返せなかった。
それは、あまりにも重く、あまりにも静かな言葉だった。
透は静かに頭を下げた。
「話してくださって、ありがとうございました」
セリナも続いて頭を下げる。
「私からも感謝いたします。エルンファーゼン様」
セシリア、ノーノー、ガルド、リーファも、それぞれに礼を示した。
少し遅れて、結衣と明日華も頭を下げる。
真白も、結衣の隣で小さく頭を下げた。
ノアはその意味を完全に理解しているわけではないのかもしれない。
それでも周囲にならうように、ちょこんと頭を下げた。
やがて、族長ファルゼンがゆっくりと口を開く。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
その声に、一同が静かに頷いた。
「皆様も、お疲れでしょう。今日聞いたことは、すぐに整理できるものではありますまい。宿舎に戻り、まずは休まれるとよい。明日以降、必要であれば改めて話し合いの場を設けます」
セリナが頷く。
「ありがとうございます」
透も頭を下げた。
「お願いします」
古老は、最後にもう一度だけ透へ顔を向けた。
「神代透」
「はい」
「おぬしの周りには、不思議な光がある」
透は思わず言葉に詰まった。
最初に出会った時、古老は透を見てそう言った。
魔核を持たぬ者。
それでいて、どこか光を帯びている者。
「その光が何であるか、わしにもまだ分からぬ」
古老は言った。
「じゃが、一つだけ言える」
透は黙って古老を見つめた。
「斬るべきものを見誤るでない」
その言葉は、静かに透の胸へ落ちた。
透は、腰に差した天羽乃斬へそっと意識を向ける。
祖父から受け継いだ剣。
神代家に伝わる剣。
そして今、この世界で魔鋼虫と向き合うための剣。
「はい」
透は静かに頷いた。
「忘れません」
その返事を聞いて、古老は満足したように目を閉じた。
質疑の場は、そこで終わりとなった。
だが透たちの胸には、古老の言葉が深く残り続けていた。
忘れたのではない。
忘れようとした。
語れなかった歴史。
封じられた痛み。
北に残った者たち。
南へ逃れた者たち。
どちらも、人々を守ろうとした。
その事実を胸に、透は広間を後にした。
外へ出ると、ハイエルフの里の夜は静かだった。
空に月はない。
星もない。
ただ、森の奥から届く風の音だけが、木々の葉を揺らしていた。
透は、その暗い空を見上げる。
この世界には、まだ知らないことが多すぎる。
けれど、知らなければならない。
知ったうえで、選ばなければならない。
戦うのか。
逃がすのか。
守るのか。
進むのか。
透は、古老の言葉を胸の奥で繰り返した。
斬るべきものを見誤るな。
その言葉は、これから先の旅の中で、何度も透を支えることになるのかもしれなかった。




