第三十五話 古老の語り 後編
神樹の下に、静かな風が流れていた。
切り株を削って作られた大きな卓を囲み、透たちはエルンファーゼンの話に耳を傾けている。
同席しているのは、透、リーファ、セリナ、セシリア、ノーノー、ガルド。そして、族長ファルゼンと古老エルンファーゼンである。
先ほど語られたのは、千年前に栄えていた人族の都。
パンゲア連邦。
十二の支族。
共和制。
空を飛ぶ魔導飛行船。
地上を走る魔導ポッド。
そして、誰もが平和を信じていた首都パンゲアの姿だった。
だが、その繁栄は永遠には続かなかった。
首都の地下で悲劇が起き、パンゲアは陥落した。
エルンファーゼンは、しばらく目を閉じていた。
まるで遠い過去に沈んだ記憶を、一つずつ掘り起こしているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「首都が陥落した後も、人族は諦めなかった」
その声は静かだった。
だが、そこには千年という時間を越えてなお消えない重みがあった。
「我らハイエルフも、やがて南の一都市へ避難した。人族もまた地方都市へと散り、生き残った者たちを集めて反攻作戦を始めたのじゃ」
ガルドが腕を組み、低く呟く。
「まあ、そうなるよな。首都が落ちたからって、そのまま滅ぶのを待つわけにはいかねえ」
「うむ。当時の者たちも、そう考えたのじゃろう」
エルンファーゼンは頷いた。
「だが、相手が悪すぎた」
その言葉に、場の空気が少しだけ重くなる。
「倒しても倒しても、魔鋼虫は湧いてきた。百を倒せば千が来る。千を倒せば万が来る。都市を守るために戦えば戦うほど、次の群れが押し寄せてきたのじゃ」
セリナが小さく息を呑んだ。
「そんな……」
「人族も、ただ戦っていたわけではない。やがて魔鋼虫そのものの研究を始めた」
その言葉に、ノーノーの目が鋭くなる。
「研究記録が残っているのですか?」
「わずかにな。多くは戦火の中で失われた。しかし、断片的な記録と、当時の生き残りから伝え聞いた話はある」
ノーノーは真剣な表情で頷いた。
エルンファーゼンは続ける。
「まず分かったのは、魔法は魔鋼虫にも有効だということじゃ」
セシリアが少し身を乗り出した。
「やはり、効くのですね」
「効く。だが、万能ではない」
古老は静かに首を振る。
「人族も、エルフも、ドワーフも、多くの種族は魔核を持ち、魔素に依存して生きておる。大規模な魔法を放てば、周囲の魔素を大量に消費する。それは術者だけの問題では済まぬ」
セシリアの表情が曇った。
彼女には、その意味が分かったのだろう。
「周囲の者たちまで、魔素欠乏に陥る……」
「その通りじゃ」
エルンファーゼンは重々しく頷いた。
「初期の攻防戦では、魔鋼虫の大群を押し返すため、広範囲を焼き払う大規模魔法が繰り返し使われたという」
そこで一度、言葉が途切れた。
古老の目が、わずかに伏せられる。
「だが、その代償はあまりにも大きかった」
誰も口を挟まない。
「数十万人が、魔素欠乏障害で死亡した」
空気が凍った。
セリナが手を胸元で握りしめる。
「数十万人……」
「敵を倒すために放った魔法が、守るべき民の命を奪ったのじゃ」
セシリアは唇を噛んだ。
グランドワイズ防衛戦でも魔素の消耗を経験している彼女だからこそ、その現実は重かった。
「魔鋼虫は魔核を喰らう」
エルンファーゼンはさらに続ける。
「だが、奴ら自身は魔素に依存して生きているわけではない。周囲の魔素が枯渇しても動き続ける」
透が眉を寄せた。
「つまり、大規模魔法を使えば使うほど、人族側だけが消耗していく……ということですか」
「そうじゃ」
古老は頷く。
「敵は倒せる。だが、倒すための力が味方の命を削る。これが、当時の人族を苦しめた大きな理由の一つじゃ」
重い沈黙が落ちた。
しばらくして、エルンファーゼンは話を進める。
「研究で分かったことは、他にもある」
ノーノーが身を乗り出した。
「どのようなことですか?」
「まず、魔鋼虫には複数の種類が存在することじゃ」
古老はゆっくりと語る。
小型種。
大型種。
飛行種。
掘削種。
そして、一呼吸置いた。
「群れを率いる指令種じゃ」
その瞬間、ノーノーの目が見開かれた。
「やはり……!」
透も思わず顔を上げる。
「本当にいたんですね」
エルンファーゼンが透を見る。
「知っておるのか?」
「はい」
透は頷いた。
「俺たちはグランドワイズ防衛戦で、指令種と思われる個体と戦ったことがあります」
ガルドも腕を組んだまま頷く。
「あの化け物か」
セリナの表情も引き締まった。
あの戦いは、今でも鮮明に記憶に残っている。
「奴が現れてから、群れの動きが変わりました」
透は静かに言った。
「それまでとは違って、魔鋼虫が明らかに統率された動きを見せるようになったんです」
ノーノーが続ける。
「我々は、そのような個体をアルファ種と呼んでいます」
「アルファ種か」
エルンファーゼンは小さく頷いた。
「呼び名は違うが、同じものじゃろう。わしらも調査の末、その存在に辿り着いた」
群れを率い。
群れを導き。
群れを戦わせる存在。
「そして、その指令種を倒せば群れは混乱する」
ノーノーが深く頷く。
「現在の観測結果とも一致します」
「統率を失った群れは動きが鈍り、混乱する。そうなれば討伐もしやすくなる」
エルンファーゼンは静かに頷いた。
「魔鋼虫との戦いで得られた、数少ない成果の一つじゃった」
しばらく沈黙が流れる。
やがて古老は、再び口を開いた。
「そして研究を進めるうち、人族はさらに別の事実へ辿り着いた」
ノーノーが耳を動かす。
「別の事実?」
「奴らは巣を作る」
その言葉に、場の空気が変わった。
「巣……ですか」
透が小さく呟く。
「そうじゃ。奴らは地中や地上に、尖塔のような巣を築く。そして年月をかけて巨大化していく」
古老の声が少し低くなる。
「さらに一定の規模に達すると、群れが分かれる」
そこで透が反応した。
「それって、蜂の分蜂みたいなものですか?」
「ぶんほう?」
エルンファーゼンだけでなく、ファルゼンやリーファも首を傾げた。
透は苦笑する。
この世界には昆虫がいない。
「ああ、俺たちの世界の話です」
透は言葉を選びながら説明した。
「蜂という小さな生き物がいるんです。群れで生活していて、女王がいて、巣を作ります」
ノーノーが興味深そうに目を細める。
「ほう」
「その巣が大きくなりすぎると、群れの一部が新しい女王を連れて別の場所へ移動するんです。それを分蜂と呼びます」
エルンファーゼンは感心したように頷いた。
「なるほど。言葉は知らぬが、まさにそのようなものじゃ」
透は思わず顔をしかめる。
嫌なほど似ている。
「魔鋼虫も、巣別れした群れが新たな土地へ向かう。そして人族の集まる場所を襲うのじゃ」
ガルドが低く唸った。
「つまり、放っておけば増え続けるってことか」
「そうじゃ」
エルンファーゼンは頷く。
「倒しても倒しても現れる理由の一つが、それじゃった」
神樹の葉が風に揺れた。
千年前の人々が直面した絶望が、少しずつ形を持って透たちの前に現れていく。
そして古老は、さらに重い話へと進んでいった。
「厄介な噂もあった」
「噂、ですか」
「首都の地下深くに、魔鋼虫の巨大な巣が存在するというものじゃ」
その場にいた全員が息を呑んだ。
首都の地下。
それが事実なら、千年前の首都陥落は、ただ都市を失ったというだけでは済まない。
「本当かどうかは分からぬ」
エルンファーゼンは静かに首を振る。
「じゃが当時、その噂を信じる者は少なくなかった」
透は黙ってその言葉を受け止めた。
確証はない。
だが、無視できる話でもなかった。
ノーノーもまた、何かを考え込むように目を伏せていた。
やがてエルンファーゼンは、長い話の終わりへと向かっていく。
「反攻作戦は、各地で瓦解していった」
その声は、かすかに沈んでいた。
「都市は落ち、国は滅び、人々は逃げた。戦える者は戦い、守れる者は守り、それでも多くが失われた」
リーファが静かに目を伏せる。
「力なき人族の多くは、数少ない魔導飛行船に乗って大地溝帯を越えた。南へ、西へ、東へ。散り散りになりながら、それでも生き延びようとしたのじゃ」
エルンファーゼンは、そこでセリナを見た。
「早々に東の海を渡った人族もいたはずじゃ」
セリナが顔を上げる。
「東の海を……」
「おそらく、その人々が今のセリナ殿の国を興したのじゃろう」
セリナは、しばらく言葉を失っていた。
自分たちの国の始まり。
それが逃げ延びた人々の末裔であるかもしれない。
その事実は、彼女の胸に静かに沈んでいく。
「……私たちは、逃げ延びた人々の祈りの先に生まれた国なのかもしれませんね」
セリナは静かにそう言った。
エルンファーゼンは優しく頷く。
「そうかもしれぬ」
そして古老は、最後に言葉を続けた。
「ただ、北の大地から人が完全に消えたとは、わしは思っておらぬ」
透たちが顔を上げる。
「まだ、生き残っている人たちがいるかもしれないんですか?」
「分からぬ」
エルンファーゼンは首を振った。
「じゃが、あの広い北の大地じゃ。地下に潜り、山に隠れ、森に逃れ、細々とでも生き延びている者たちがいても不思議ではない」
セリナの瞳が揺れる。
ノーノーもまた、考え込むように黙っていた。
ガルドは腕を組んだまま、低く呟く。
「もし生き残りがいるなら、放ってはおけねえな」
透も頷いた。
北の大地。
千年前に失われた首都。
そして、どこかで生き延びているかもしれない人々。
古老の話は過去の歴史であると同時に、これから向かう未来への道標でもあった。
エルンファーゼンは、静かに息を吐いた。
「以上が、わしの知る千年前の歴史じゃ。わしが里へ戻ってから、魔鋼虫がどうなったのか、北の大地がどうなったのかは知らぬ。千年の長きにわたって、南の大地は平和であったからの……」
神樹の葉が、風に揺れる。
長い沈黙の後、古老は穏やかな目で一同を見回した。
「さて」
そして、静かに言った。
「何か聞きたいことはあるかの?」
こうして、千年前の悲劇をめぐる長い語りは終わった。
神樹の下で、今度は透たちからの問いが始まろうとしていた。




