第三十三話 老エルフの眼
翌朝。
ハイエルフの里は、静かな光に包まれていた。
透たちはリーファの案内で、里の奥にある古い樹の根元を歩いていた。
そこは人通りも少なく、風の音と葉擦れだけが静かに響く場所だった。
巨大な樹の幹に寄り添うように、小さな庵が建っている。
その前に、一人の老エルフが腰を下ろしていた。
白く長い髪。深く刻まれた皺。閉じられた瞼。
その瞳が光を失っていることは、遠目にも分かった。
だが――。
「おぬし」
老エルフが、ふいに口を開いた。
透は足を止める。
「はい」
「おぬしは、何者だ」
静かな声だった。
だが、その声には不思議な重みがあった。
透が答えるより早く、リーファが一歩前に出た。
「おばあさま。この方たちは、アストレア王国から旅をして来られた方々です。魔鋼虫の脅威について、里にも伝えるために――」
「それは聞いておる」
老エルフは、リーファの言葉を遮った。
そして、閉じた瞼のまま、まっすぐ透の方を向いた。
「わしが聞いておるのは、そういうことではない」
「え……?」
透は思わず声を漏らした。
老エルフは、ゆっくりと首を傾げる。
「何故、光っておる」
その場の空気が、わずかに変わった。
「光っている……?」
透は自分の手を見下ろした。
もちろん、何も見えない。
服も、腕も、いつもと変わらない。
だが老エルフは、確信を持って言った。
「おぬしのまわりが、うっすらと光っておる。まるで薄い膜のようにの。魔素ではある。だが、魔核から流れ出すものではない。……このようなものは、初めて見るぞ」
「おばあさま、どういうことです?」
リーファの声にも困惑が混じっていた。
「分からぬ。だから聞いておる」
老エルフは、再び透へ顔を向ける。
「おぬしは、本当に人間なのか」
「……俺は」
透は言葉に詰まった。
人間だ。
少なくとも、自分ではそう思っている。
だが、この世界に来てからの自分の身体は、すでに以前のままではない。
魔法は使えない。
魔核もない。
けれど、魔素に満ちたこの世界に適応し、肉体は明らかに強化されていた。
その答えを、透自身もまだ持っていなかった。
「どうかしましたか?」
そこへ、セリナの声がした。
少し離れた場所を歩いていた結衣、明日華、真白、蒼姫、セシリア、ノアたちも、異変に気づいて近づいてくる。
老エルフは顔を上げた。
そして次の瞬間、息を呑む。
「……なんじゃ、おまえたちは」
その声には、先ほどまでの静けさとは違う、はっきりとした動揺があった。
「魔核がなく、光っておる者が三人」
透、結衣、明日華。
老エルフの顔が、ゆっくりと三人をなぞる。
「霞がかっておる者が二人」
真白と蒼姫が、ぴくりと反応した。
真白は結衣の後ろに半分隠れ、蒼姫は明日華の肩の上で首を傾げる。
「巨大な魔素を内に抱える者……こやつは魔法士か」
セシリアがわずかに目を細めた。
「ええ。私は魔法使いです」
「清らかな魔素を持つ者。巫女……いや、聖女か」
セリナは静かに一礼した。
「アストレア王国のセリナと申します」
「そして……」
老エルフの顔が、ノアへ向いた。
ノアはびくりと肩を震わせ、透の後ろに隠れる。
「魔核のない、影のような者」
その言葉に、透の表情が引き締まった。
ノアは小さく俯く。
だが、透はすぐにその前へ立った。
「ノアは、俺たちの仲間です」
短い言葉だった。
だが、それ以上の説明はいらなかった。
老エルフは、閉じた瞼のまま、しばらく黙っていた。
やがて深く息を吐く。
「わしは……何を見させられておるのだ」
その呟きは、驚きというより畏れに近かった。
セリナが一歩前に出た。
「おばあさま。少し、説明させてください」
老エルフは頷いた。
セリナは、透たち神代家がこの世界の者ではないことを、言葉を選びながら話した。
アストレア王都に現れたこと。
透には魔核がないこと。
結衣、明日華、真白、蒼姫が、後からこの世界へ渡ってきたこと。
そして彼らが、魔鋼虫との戦いに深く関わっていること。
リーファはすでにその話を聞いていたため、黙って見守っていた。
話を聞き終えると、老エルフはしばらく沈黙した。
「異なる理の世界より来た者、か」
「はい」
「なるほどのう。だから、この世界の命とは見え方が違うのかもしれぬ」
セシリアが興味深そうに口を開く。
「おそらくですが、透たちの身体は、この世界の魔素に適応する過程で、外側に薄い魔素の膜を形成しているのだと思います。魔核を持たないため、魔素を体内で循環させるというより、肉体そのものが魔素を変換し、保護膜のようにまとっているのかもしれません」
「保護膜……」
透は自分の手を見た。
結衣も、まじまじと自分の腕を見下ろす。
「そういえば、こっちへ来てから身体が強くなったっていうか……転んでも全然痛くないし、走ってもあんまり疲れないし」
「うん」
明日華も頷いた。
「弓を引く時も、前より身体がぶれません。力が増えたというより、身体全体が支えられている感じがします」
「真白は?」
結衣が振り返る。
真白は耳をぴくぴく動かしながら、少し考えた。
「真白たちは、元々こちらの世界の者ではないからのう。けれど、真白と蒼姫姉は人ではなく霊獣なのじゃ。だから、とおるんたちとは少し違って見えるのかな」
蒼姫も、明日華の肩の上で小さく鳴いた。
「霞がかっている、というのは……霊的な存在として見えているのでしょうか」
明日華が言うと、老エルフは頷いた。
「輪郭が曖昧なのじゃ。肉の器を持ってはおるが、その奥に別の形が重なって見える。白き獣と、蒼き鳥の影がの」
真白は結衣の後ろから顔を出す。
「むう……このおばあさま、真白の正体が見えてるのかな」
「見ようと思って見ておるのではない」
老エルフは静かに答えた。
「見えてしまうだけじゃ」
その言葉に、場が静まり返った。
盲目の老エルフ。
だが彼女の閉じた瞳は、誰よりも深く、透たちの本質を見抜いていた。
セシリアが小さく息を吐く。
「魔核を見る力ではありませんね。魔素の流れ、存在の輪郭、その歪みまで感じ取っている……古いハイエルフの感覚でしょうか」
「わしにも分からぬ」
老エルフは首を振った。
「ただ、長く生きすぎたせいか、目が潰れてからの方が、見えぬものが見えるようになった」
そして再び、透へ顔を向ける。
「透、と申したな」
「はい」
「おぬしの光は、強くはない。だが、不思議と消えぬ光じゃ。魔素の光とも、命の光とも違う。まるで、この世界から弾かれぬように、薄い殻をまとって立っておる」
透は黙って聞いていた。
「その光が吉兆なのか、災いなのか、わしには分からぬ」
老エルフは、少しだけ表情を和らげる。
「だが少なくとも、その光は誰かに害をなすものではないようじゃ」
透の胸に、その言葉が静かに落ちた。
結衣が透を見上げる。
明日華も、セリナも、リーファも、同じように透を見ていた。
透はゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしておらぬ。ただ、見えたものを口にしただけじゃ」
老エルフはそう言って、今度はノアの方を向いた。
ノアが、また少し身を縮める。
「影の子よ」
「……はい」
「怖がらずともよい。影にも輪郭はある。輪郭があるなら、そこに命はある」
ノアは目を見開いた。
そして、小さく唇を震わせる。
「……命」
「そうじゃ」
老エルフは頷いた。
「おぬしが何者として作られたかは知らぬ。だが、今ここに立っているなら、それはもう、おぬし自身の命じゃ」
透は何も言わず、ノアの頭にそっと手を置いた。
ノアは俯いたまま、ぎゅっと透の服の裾を掴む。
風が、森の中を通り抜ける。
葉が揺れ、木漏れ日が透たちの足元に落ちた。
その光は、誰の目にも見える普通の光だった。
けれど老エルフだけは、そこにもう一つの光を見ていた。
この世界の理から少し外れた者たち。
魔核を持たぬ者。
霊獣。
聖女。
大魔法使い。
そして、影のような少女。
老エルフは静かに呟いた。
「世界は……まだ、何かを諦めてはおらぬのかもしれんのう」




