第三十二話 森の灯 後編
透たちが宿舎で荷を解いていた頃、リーファは一人、族長の館へ向かっていた。
見慣れた森の道。
幼い頃、何度も駆け回った場所。
淡い光を放つ草花も、枝を渡る小さな妖精たちも、記憶の中とほとんど変わらない。
何百年も変わらず、この森はここにあった。
外の世界を旅してきた今だからこそ、その変わらなさが胸に染みる。
やがて見えてきたのは、巨大な大樹に寄り添うように建てられた館だった。
ハイエルフ族長の住まう家。
リーファにとっては、生まれ育った家でもある。
その入口に、一人の女性が立っていた。
銀色の長い髪。
柔らかな微笑み。
だが、その瞳はリーファを見た瞬間、大きく揺れた。
「……母上」
フィレオナは一瞬、言葉を失った。
そして次の瞬間、娘へ駆け寄る。
「リーファ!」
強く抱きしめられた。
懐かしい香りがした。
森の香り。
家の香り。
母の香り。
「お帰りなさい……!」
その声は震えていた。
リーファは少し困ったように微笑む。
「ただいま戻りました」
「無事で良かった……本当に」
フィレオナは、しばらく娘を離そうとしなかった。
森の外は危険だ。
魔獣もいる。盗賊もいる。人族の国同士の争いもある。
娘が旅立ってから、何度も心配した。
それでも送り出したのは、リーファ自身が望んだからだ。
東方にあるエルフの里へ親善の使いとして旅立ち、まだ見たことのない世界を見てみたい。
その願いを、母は最後には受け入れてくれた。
「母上、ご心配をおかけしました」
「ええ。本当にね」
フィレオナは涙を拭いながら、ようやく娘から少しだけ身を離した。
その時。
「帰ったのですね」
落ち着いた声が響いた。
振り向けば、館の入口に一人の女性が立っている。
エルフィナ。
リーファの姉である。
リーファよりもわずかに背が高く、整った顔立ちもよく似ている。だが、纏う雰囲気はリーファよりずっと穏やかだった。
「姉上」
「お帰りなさい、リーファ」
「ただいま戻りました」
エルフィナは微笑み、そっと妹の頭を撫でた。
まるで、幼い頃と変わらない仕草だった。
「少し見ない間に、立派になりましたね」
「ハイエルフは、そんなに変わりません」
「ふふっ。相変わらずね」
姉は楽しそうに笑った。
その様子に、リーファもわずかに表情を緩める。
すると、館の奥から慌ただしい足音が聞こえた。
「姉さま!?」
飛び出してきたのは、若い青年だった。
エルディン。
リーファの弟である。
まだ成人して間もない彼は、リーファの姿を見るなり目を輝かせた。
「本当に帰ってきたんですね!」
「エルディン」
「何十年ぶりですか!?」
「そこまで経っていません」
「僕には長かったんです!」
勢いよく言われ、リーファは苦笑した。
昔から変わらない。
素直で、感情がすぐ顔に出る。
姉弟の中で、もっとも人族に近い気質かもしれない。
「少し背が伸びましたね」
「少しじゃありません!」
「そうですか」
「そうです!」
真面目に反論する弟に、フィレオナとエルフィナが笑った。
久しぶりに聞く家族の笑い声。
懐かしかった。
森を離れてから、何度も思い出した声だった。
その時だった。
重厚な扉が開き、静かな足音が響いた。
リーファは自然と背筋を伸ばす。
「父上」
族長ファルゼン・シルバリウス。
ハイエルフの里を束ねる長。
威厳ある姿は、リーファの記憶と何も変わっていなかった。
ファルゼンは娘の姿を静かに見つめる。
しばしの沈黙。
そして。
「帰ったか」
「はい」
「そうか」
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
娘の無事を確かめる父。
帰る場所へ戻ってきた娘。
長い旅路を経て、リーファは静かに頭を下げた。
「ただいま戻りました」
ファルゼンは小さく頷く。
「うむ。よく帰った」
その一言に、リーファは胸の奥が温かくなるのを感じた。
故郷は変わっていなかった。
家族もまた、変わらずそこにいてくれたのだから。
だが、リーファはただ帰ってきたわけではない。
彼女は旅の中で、魔鋼虫という脅威を見た。
人族の町を守る者たちを見た。
そして、神代透たちという不思議な者たちと出会った。
「父上。お話ししなければならないことがあります」
ファルゼンの目が、わずかに細くなる。
「分かった。東方の地で何かあったのだな」
「はい」
その言葉に、母と姉、弟の表情も変わった。
森の奥深くにあるこの里も、世界の流れから完全に離れているわけではない。
「詳しい話は、明日、古老たちの前で聞こう」
「古老たちも?」
「うむ。お前が連れてきた客人たちにも会わせる」
リーファは一瞬、息を呑んだ。
古老たち。
千年を超えて生きる者たち。
伝承ではなく、記憶として過去を知る者たち。
「父上、それは……」
「時が来たのだろう」
ファルゼンの声は重かった。
「森だけを守っていればよい時代では、なくなりつつあるのかもしれぬ」
リーファは静かに頷いた。
外の世界で見てきたもの。
ラザールの戦い。
ミルファで聞いた焼け落ちた町の話。
この世界を巻き込んだ災厄が、動き始めている。
「分かりました」
リーファは深く頭を下げた。
その夜、リーファは久しぶりに家族と食卓を囲むことになった。
外の世界の話。
旅の話。
出会った仲間たちの話。
父は静かに聞き、母は何度も心配そうに眉を寄せ、姉は穏やかに笑い、弟は目を輝かせて質問を重ねた。
リーファは、その一つ一つに丁寧に答えていった。
森に戻ってきた安堵。
それでも胸の奥に残る、外の世界への不安。
その二つを抱えたまま、夜はゆっくりと深まっていった。
◇◇◇
一方、その頃。
ガルドは、案内役に教えられた里の酒場へ向かっていた。
酒場といっても、人族の町にあるような賑やかな店とは少し違う。
大樹の根元に造られた広い空間に、木の卓と椅子が並び、淡い光を放つ花が灯りの代わりに吊るされている。
静かな森の酒場。
そこでは、数人のハイエルフたちが穏やかに杯を傾けていた。
「……静かだな」
ガルドは思わず呟いた。
酒場というより、詩でも詠む場所に見える。
だが、酒の香りは確かにあった。
果実酒とも薬酒とも違う、森の木の実を発酵させたような深く甘い香り。
「客人か」
店主らしきハイエルフの男が声をかけてきた。
「ああ。酒を飲みに来た」
「森の酒は、人族には少し強いかもしれぬ」
その言葉に、ガルドはにやりと笑った。
「強い酒は歓迎だ」
店主は少しだけ眉を上げる。
「では、これを」
差し出された杯には、淡い琥珀色の酒が注がれていた。
ガルドはそれを一口飲む。
次の瞬間、目を見開いた。
「……うまいな」
静かな酒場の空気が、ほんの少し動いた。
「分かるのか」
「当たり前だ。酒のうまさは種族を超える」
ガルドは真顔で言った。
それを聞いたハイエルフたちは、しばし黙る。
やがて、誰かが小さく笑った。
「面白い人族だ」
「人族かどうか怪しいが」
「そうか。では、変わった人族だな」
「それならいい」
何がいいのかは分からない。
だが、ガルドはすでに二杯目を受け取っていた。
そのまま、酒場の空気は少しずつ変わっていく。
外の世界の話を聞きたいという者が、ガルドの席へ集まってきた。
魔獣退治の話。
冒険者ギルドの話。
王都の酒場の話。
ラザールの砂漠の酒の話。
ガルドは杯を片手に、次々と語っていった。
「で、その時だ。依頼主が言いやがったんだ。報酬は成功後に払う、とな」
「それは普通ではないのか?」
「普通だ。だが、そいつは成功後に逃げた」
「逃げた?」
「ああ。だから追いかけて捕まえた」
「どうやって?」
「肩に担いでギルドまで戻った」
ハイエルフたちが目を丸くする。
そして、少し遅れて笑いが起こった。
静かだった酒場に、だんだんと人が増えていく。
ガルドは気付けば、妙に馴染んでいた。
「客人。もう一杯どうだ」
「もらおう」
「これは少し強いぞ」
「望むところだ」
そうして差し出された酒を飲んだ瞬間、ガルドは数秒だけ黙った。
「……これは」
「強いだろう」
「うまい」
「そちらか」
店主がわずかに笑う。
その時、酒場の入口から静かな声がした。
「ガルド。ほどほどにすると言っていませんでしたか」
セシリアだった。
いつの間に来たのか、入口に立っている。
ガルドは杯を持ったまま振り返る。
「まだほどほどだ」
「その言葉を信じられる状況ではありませんね」
「大丈夫だ。俺は酔っていない」
「酔った方は、だいたいそう言います」
セシリアは淡々と言う。
酒場にいたハイエルフたちは、そのやり取りを興味深そうに見ていた。
「そちらの女性も飲まれるか」
店主が尋ねる。
セシリアは少しだけ考えた。
「一杯だけいただきます」
「飲むのか」
ガルドが意外そうに言う。
「あなたを回収するには、場の空気を知る必要がありますので」
「理由が固いな」
「あなたが柔らかすぎるのです」
そう言いながら、セシリアは杯を受け取った。
一口飲む。
そして、静かに目を細めた。
「……美味しいですね」
「だろう?」
なぜかガルドが得意げに胸を張る。
「あなたが造ったわけではないでしょう」
「うまい酒をうまいと言えるのも才能だ」
「それは否定しません」
そのやり取りに、酒場の空気がさらに和らいだ。
ガルドは豪快に笑い、セシリアは呆れながらも席につく。
静かな森の酒場に、外の世界の風が少しだけ吹き込んだ夜だった。
◇◇◇
その頃、宿舎では神代家の面々が一つの部屋に集まっていた。
透、結衣、明日華、真白。
そして、明日華のそばには蒼姫が静かに止まっている。
ノアは別室で休んでいた。
慣れない土地に来て疲れたのだろうと、セリナが様子を見てくれている。
「それで、おにい」
結衣が寝台の上に座りながら口を開いた。
「明日は、古老さんたちに会うんだよね」
「ああ」
透は頷く。
「リーファの話だと、千年を超えて生きている人たちらしい」
「千年……」
結衣は改めて呟いた。
「なんか、もう歴史の教科書が歩いてるみたい」
「その例えは分かりやすいですね」
明日華が静かに言う。
真白は腕を組んで、うんうんと頷いた。
「つまり、とても物知りということ?」
「ざっくりしてるけど、まあそうだな」
透は少し笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「魔鋼虫のことを知っているかもしれない。千年前に何が起きたのかも」
部屋の空気が少し重くなる。
ラザールでの戦い。
ミルファ北方の焼け落ちた町。
魔鋼虫は、もう遠い過去の災厄ではない。
今、再び動き始めている。
「聞かなきゃいけないんだよね」
結衣が小さく言った。
「そうだな」
透は頷く。
「怖い話かもしれない。でも、知らないままでは進めない」
「おにい」
「ん?」
「私たち、ちゃんと一緒に聞くからね」
結衣の声は、いつもより少しだけ真剣だった。
「怖くても、分からなくても、ちゃんと聞く」
「私もです」
明日華が続ける。
「あにさま一人で背負う話ではありません」
透は二人を見た。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「ありがとう」
「真白も」
真白が胸を張った。
「とおるんは、すぐ一人で抱え込むからのう。真白たちが見張っておるのじゃ」
「見張るのか」
「見張るのじゃ」
「それは心強いな」
透が笑うと、真白は満足そうに頷いた。
少しだけ空気が和らぐ。
その後、結衣がふと窓の外を見た。
「ねえ、おにい」
「どうした?」
「お父さんたち、今どうしてるかな」
その言葉に、透の胸が小さく揺れた。
父、隆志。
母、美琴。
祖父、宗玄。
神代神社。
遠く離れた地球の家族。
今、この瞬間も、きっと自分たちのことを心配している。
「心配してるだろうな」
「だよね」
「でも、父さんたちなら何かしてると思う」
透は静かに言った。
「母さんも、じいちゃんも。ただ待っているだけじゃない気がする」
明日華が小さく頷く。
「私も、そう思います」
「かかさまなら、きっと何か手を打ってくれるのじゃ」
真白も真剣な顔で言う。
「じぃじも、きっと」
「それは確かに」
透は苦笑した。
宗玄が何もせず待っている姿は、あまり想像できない。
だが、こちらから連絡する方法はまだない。
結衣に渡された方位盤の札。
黄泉比良坂。
神代神社とパンゲアをつなぐ不思議な道。
あれが一度きりのものなのか、それとも何か条件があれば再びつながるのか。
分からないことばかりだった。
「いつか、連絡できる方法を探そう」
透が言う。
「帰るためだけじゃなくて、無事だって伝えるためにも」
「うん」
結衣は頷いた。
「お母さん、絶対心配してるもん」
「そうですね」
明日華も目を伏せる。
「でも、私は……」
言いかけて、明日華は少しだけ迷った。
透が静かに待つ。
「私は、お母様たちもいつかこちらへ来る気がします」
「明日華?」
「根拠はありません。ただ、そんな気がするんです」
明日華の声は静かだった。
だが、不思議な確信のようなものがあった。
蒼姫が小さく羽を鳴らす。
真白も耳をぴくりと動かした。
「真白も、そんな気がする」
「真白も?」
「うむ。神代家は、簡単には離れぬのじゃ」
結衣は二人を見て、それから透を見る。
「だったら、ちゃんと頑張って待ってなきゃね」
「ああ」
透は頷いた。
「俺たちは俺たちで、この世界でやるべきことをやる」
魔鋼虫。
千年前の歴史。
パンゲアという世界の謎。
そして、神代家とのつながり。
すべてはまだ、遠くぼんやりとしている。
だが、少しずつ近づいているのは確かだった。
窓の外では、森の灯が静かに揺れている。
月も星もない夜。
それでも、ハイエルフの里には小さな光がいくつも灯っていた。
透はその光を見つめながら、静かに言った。
「明日、古老たちに会おう」
結衣も、明日華も、真白も頷いた。
千年を超えて生きる者たち。
魔鋼虫が現れた時代を、伝説ではなく記憶として知る者たち。
その言葉の先に何が待っているのかは分からない。
だが、ここまで来た以上、聞かなければならない。
森の奥に眠る千年の記憶が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。




