第三十一話 森の灯 前編
ハイエルフの里は、森そのものと共にあった。
高い木々の幹に寄り添うように家が建ち、枝と枝の間には細い橋が渡されている。地上には踏み固められた土の道が続き、その脇には淡い光を放つ草花が静かに揺れていた。
風が吹くたび、葉がささやくように鳴る。
その音の中に、人々の暮らしの気配があった。
「わぁ……」
結衣が思わず声を漏らした。
「森の中なのに、町なのじゃ」
真白も目を丸くしている。
「町というより、森そのものが家になっているようですね」
明日華が静かに言った。
透も同じことを感じていた。
ここは、人が森を切り開いて作った場所ではない。森の中に、人々の暮らしが溶け込んでいる。
アストレアの王都とも、ラザールとも、ミルファとも違う。
静かで穏やかで、それでいて不思議な緊張感があった。
リーファが少しだけ振り返る。
「ここが、わたしの故郷です」
その声は、いつもより柔らかかった。
やがて里の奥から、数人のハイエルフが歩み寄ってきた。
皆、背が高く整った顔立ちをしている。耳は長く尖り、髪は淡い金や銀に近い色をしていた。
その中の一人が、リーファへ深く頭を下げる。
「リーファ様。族長がお待ちです」
「分かりました」
リーファは頷き、透たちへ向き直った。
「皆さんは先に宿舎へ案内してもらってください。わたしは族長のもとへ参ります」
「分かりました」
透が頷く。
「リーファさん、ご家族にもよろしくお伝えください」
セリナが穏やかに微笑んだ。
「ええ。ありがとうございます、セリナ様」
リーファが一礼したところで、結衣がふと首を傾げる。
「そういえば、リーファさん。エルフとハイエルフって何が違うんですか?」
素朴な疑問だった。
リーファは少し考え、それから答える。
「一番分かりやすい違いは寿命かしら。普通のエルフは、おおよそ三百年ほど生きるわ」
「三百年!?」
結衣が目を丸くした。
「それでも十分長い」
真白が尻尾を揺らす。
「人族から見ればそうでしょうね。でも、ハイエルフはさらに長いの。だいたい千年近く生きると言われているわ」
「せ、千年……?」
透も思わず聞き返した。
千年。
歴史として語られるような時間を、一人の命が生きる。
その感覚は、すぐには想像できなかった。
「ハイエルフは生まれつき魔素量も多いの。だから魔法や精霊術に優れる者も多いわ」
「だからリーファさん、弓も魔法もすごいんだ」
結衣が素直に感心する。
リーファは少し困ったように微笑んだ。
「わたしなど、里ではまだ若輩です」
「若輩って……リーファさん、何歳なんですか?」
「百二十歳ほどよ」
沈黙が落ちた。
「……百二十?」
「ええ」
「百二十歳!?」
結衣の声が森に響いた。
近くにいたハイエルフたちが、何事かとこちらを見る。
「ハイエルフとしては、まだ若い方よ。人族で言えば十七歳くらいかしら」
「百二十歳で十七歳……」
結衣は頭を抱えた。
「もう分かんない」
「結衣の場合、考えすぎると余計に混乱するぞ」
「おにい、ひどい」
透が苦笑すると、リーファも小さく笑った。
「詳しい話はまた明日にしましょう。古老たちに会えば、もっと驚くと思うわ」
「古老って、やっぱりすごい年なんですか?」
「千年を超えて生きている方々です」
その一言で、場の空気が少し変わった。
千年を超えて生きる者たち。
それはつまり、千年前の出来事を伝聞ではなく、自らの記憶として持つ者たちということだ。
魔鋼虫が現れた時代。
その始まりを知る者たち。
透は無意識に拳を握った。
「では、わたしはこれで」
リーファはそう言って、里の奥へ向かっていった。
◇◇◇
残された透たちは、別のハイエルフに案内されて宿舎へ向かった。
宿舎は、巨大な木の根元に作られていた。
いや、作られているというより、木の中に部屋があると言った方が近い。太い幹の一部が自然に空洞になったような造りで、壁には木目が残り、室内には柔らかな木の香りが満ちていた。
「すごい……木の中に住んでるみたい」
結衣が感心したように見回す。
「実際、木の中なのじゃ」
真白はさっそく寝台へ飛び乗った。
「わぁ。柔らかい」
「真白、行儀が悪いですよ」
「む。寝心地の確認なのじゃ」
「言い訳が早いですね」
明日華が呆れたように言うと、蒼姫も小さく羽を揺らした。
ノアは窓際に立ち、外を眺めている。
その隣では、モモが光る草花を見つめていた。
「光、いっぱいだよー」
「この里には、多くの精霊や妖精がいます。害はありませんので、ご安心ください」
案内役のハイエルフが説明する。
「フェアリーもいるの?」
結衣が尋ねた。
「はい。ただ、リリア様のように人族の前へ出てくる者は珍しいです」
「リリアって、やっぱり変わってるんだね」
「ちょっと、ユイ! 聞こえてるのよ!」
リリアが頬を膨らませる。
「でも、リリアさんのおかげで私たちは何度も助けられました」
セリナが微笑んだ。
「そう。リリアはすごい」
ノアも真顔で頷く。
「そうでしょ、そうでしょ!」
リリアはすぐに機嫌を直した。
荷物を置き、部屋割りを済ませる。
久しぶりに急かされることのない時間だった。
透は窓辺に立ち、森を眺めた。
薄暮の光の中、里の灯が静かに揺れている。
この世界には月も星もない。
だが、今の森は地球の夕暮れを思わせるほど穏やかだった。
ふと、神代神社の境内を思い出す。
大きな木。
静かな空気。
風に揺れる葉音。
「おにい?」
結衣が隣に来た。
「どうした?」
「ううん。ちょっと、ぼーっとしてたから」
「少し、神社のことを思い出してた」
「そっか」
結衣はそれ以上何も言わなかった。
ただ透の隣に立ち、同じように森を眺めていた。
◇◇◇
やがて、夕食の準備が整ったと案内が来た。
食堂は宿舎と同じく、木造りの広間だった。
中央の長い卓には、魚の香草焼き、木の実を使ったパン、色鮮やかな果実、茸と野菜の煮込み、淡い琥珀色の果実酒が並んでいる。
「これはいいな」
ガルドが低く唸った。
「ガルドさん、食べる前から分かるんですか?」
結衣が尋ねる。
「うまいものは匂いで分かる」
「本当かなあ」
結衣は少し疑わしげだった。
同席したハイエルフたちは、外から来た客人に興味があるのか、控えめながらも視線を向けている。
セリナがまず丁寧に礼を述べた。
「このような温かいもてなし、心より感謝いたします」
「遠きアストレアより来られた聖女様をお迎えできること、我らにとっても光栄です」
年配のハイエルフが穏やかに答えた。
食事が始まる。
「おいしい!」
結衣がすぐに声を上げた。
「本当ですね。香草の香りがとても良いです」
明日華も静かに頷く。
真白は茸の煮込みを食べながら、少しだけ不満そうに尻尾を揺らした。
「美味しい。美味しいのだけど……」
「どうした、真白」
透が首を傾げる。
「甘味が少ない」
「そこか」
透が苦笑する。
「真白らしいですね」
明日華も小さく笑った。
「果実もあるだろう」
「それはそれ、これはこれなのじゃ」
真白は真剣な顔で言い切った。
その様子に結衣が吹き出す。
「真白は本当に甘いもの好きだよね」
「甘味は正義なのじゃ」
胸を張る真白に、周囲から小さな笑いが起こった。
やがて、話題は森の外へ移っていく。
「人族の町には、そのような料理が多いのですか?」
「いろいろありますよ」
透が答える。
「アストレアの王都では肉料理も多かったですし、ラザールでは香辛料の効いた料理がありました。ミルファでは湖の魚が美味しかったですね」
「森の外には、それほど多くの町があるのですね」
「俺たちも、まだ少ししか見ていませんけど」
透がそう言うと、ガルドが果実酒を口にしながら頷いた。
「世界は広いぞ。森の外には面倒ごとも多いがな」
「面倒ごと?」
「魔獣、依頼、偉い連中の話し合い、あと金」
「最後が一番本音っぽいですね」
結衣が言う。
「冒険者は金がないと動けん」
「現実的ですね」
セシリアが楽しそうに笑った。
最初は控えめだったハイエルフたちも、少しずつ質問を重ねるようになった。
王都はどんな場所なのか。
砂漠の町では何を食べるのか。
ミルファの大神殿は、本当に白く輝いているのか。
外の世界の話は、彼らにとって珍しいものらしかった。
森の外へ出ない者が多い。
そう聞いてはいたが、その実感が透にも少しずつ湧いてくる。
彼らにとって、自分たちは旅人であると同時に、外の世界を運んできた者でもあるのだ。
食事が終わる頃には、広間の空気もずいぶん和らいでいた。
ノアは果実を一つずつ大切そうに食べ、モモは小さな器を抱えて満足そうにしている。
「甘いよー」
「モモ、それ三つ目だよ」
「おいしいよー」
結衣に言われても、モモは幸せそうだった。
やがてガルドが静かに立ち上がる。
「俺は少し出てくる」
透が即座に聞いた。
「酒ですか?」
「酒だ」
迷いのない答えだった。
「分かりやすいなあ」
結衣が呆れたように笑う。
「ほどほどにしてくださいね」
セリナがやんわりと言った。
「分かっている」
その場にいた全員が、あまり信用していない顔をした。
「なんだ、その顔は」
「いえ、別に」
透が目を逸らす。
ガルドは軽く鼻を鳴らし、案内役に酒場の場所を聞くと、そのまま広間を出ていった。
残された透たちは、少し呆れながらも笑っていた。
ハイエルフの里の一日目。
静かな森の中で長い時を生きる者たちの暮らしに触れながら、透たちはようやく一息ついていた。




