第二十九話 残された命
ミルファの町へ戻った時、空気はまだ静かだった。
湖畔を渡る風は穏やかで、白亜の大神殿は朝と変わらず湖面を見下ろしている。
だが、透たちの表情は重かった。
北方の町で見たもの。
壊れた家々。途絶えた暮らし。そして、ただ一人残されていた幼子。
その重みを抱えたまま、透たちはまっすぐ大神殿へ向かった。
神官長エルシアは、すぐに面会の場を整えてくれた。
同席したセリナは、透たちの顔を見ただけで何かを察したらしく、静かに表情を引き締める。
「北方の町は、やはり壊滅していました」
透が言った。
声は落ち着いていた。
けれど、その言葉は重い。
「残された痕跡から見て、魔鋼虫による被害で間違いないと思います」
ノーノーも頷いた。
「うむ。あれは群れで襲われた跡じゃ」
エルシアは静かに目を伏せた。
「そうですか……」
沈黙が落ちる。
透は続けた。
「ただ、女性の方が一人生き残っていたのですが、この子を残して息を引き取りました」
明日華に抱かれていた幼子が、小さく身を縮める。
まだ何が起きたのか理解しきれていないのか、それとも理解するには幼すぎるのか。
幼子は泣きもせず、ただ不安そうに周囲を見回していた。
セリナがそっと近づき、膝を折る。
「大丈夫ですよ」
優しい声だった。
幼子はセリナを見上げる。その瞳には、恐怖と疲労が滲んでいた。
エルシアは静かに頷いた。
「この子は、神殿で保護いたします」
「お願いします」
透は深く頭を下げる。
「安心してください。この子の家族の代わりに、私たちが育てます」
その言葉に、透の肩から少しだけ力が抜けた。
助けられた命は、一つだけだった。
けれど、その一つを放り出すわけにはいかない。
神官が幼子を優しく受け取り、奥へ連れていく。
幼子は最後に一度だけ振り返った。
透は小さく手を振る。
幼子は何も言わなかった。
けれど、小さな手がほんの少しだけ動いた。
それだけで十分だった。
「……助けられて、よかったです」
セリナが静かに言った。
「はい」
透も頷く。
全てを救うことはできなかった。
けれど、救えた命はあった。
その事実だけを、今は胸に留めるしかなかった。
◇◇◇
一方、その頃。
結衣たちは、ミルファ名物の薬草市場へ向かっていた。
メンバーは、結衣、真白、リーファ、リリア、モモ、そしてノア。
大神殿から町へ下る道を歩いていると、湖畔の風に混じって草の匂いが漂ってきた。
「なんか、いい匂いがするね」
結衣が鼻をひくつかせる。
「薬草を乾燥させている匂いですね」
リーファが答えた。
「ミルファは薬草の取引も盛んな町です。大森林に近いこともあって、森で採れる薬草も多く集まります」
「森の薬草もあるのです!」
リリアが胸を張る。
「リリアも詳しいの?」
「もちろんです! 森のことならリリアにお任せなのです!」
「へえ、頼もしい」
結衣が笑うと、リリアはさらに胸を張った。
市場に着くと、そこは朝から活気に満ちていた。
露店には乾燥薬草が束になって並び、籠には色とりどりの葉や根が積まれている。
瓶に詰められた薬草茶や軟膏、粉薬、香草。そして、見たこともない木の実。
通りには多くの人が行き交い、商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。
「わあ……」
結衣が目を輝かせる。
「すごいね。普通の市場とは全然違う」
「薬草市場ですからね。食べ物だけでなく、治療薬や魔法薬の材料もあります」
リーファは一つの店先で足を止めた。
細長い青い葉を手に取り、香りを確かめる。
「これは熱冷ましに使う薬草です。乾燥させて煎じると効きます」
「へえ」
「こっちは傷薬の材料ですね。潰して油と混ぜます」
「リーファ、すごいね」
「森で暮らす者なら、ある程度は知っています」
リーファは控えめに言ったが、その目は薬草を見る時だけ少し鋭くなっていた。
普段の柔らかな雰囲気とは違う。
森の民として身につけた知識が、そこにあった。
「これは苦いのです」
リリアが別の葉を指差す。
「でも、よく効くのです」
「苦いんだ」
「とても苦いのです」
リリアは真剣な顔で頷いた。
その横で、真白はまるで別の世界を見ていた。
「むむ」
狐耳がぴくりと動く。
「真白?」
「甘い匂いがするのじゃ」
「え、そっち?」
結衣が振り向くより早く、真白は歩き出していた。
向かった先には、薬草蜜を使った菓子の屋台がある。
小さな焼き菓子に、琥珀色の蜜がかかっていた。
「おお……!」
真白の瞳が輝く。
「これじゃ。これを待っておったのじゃ」
「待ってたんだ……」
「甘味は大事じゃ、結衣」
「うん、真白らしいね」
モモも真白の肩でぴょんと跳ねた。
「モモも食べたいよー!」
「ほう。モモもか」
「食べるよー!」
「うむ、分けるのじゃ」
真白は当然のように屋台の前に陣取った。
リリアが呆れたようにため息をつく。
「真白は薬草よりお菓子なのです」
「当然。薬草は苦い。甘味は甘い。どちらを選ぶかなど考えるまでもないのじゃ」
「それはそれで潔いね」
結衣が笑った。
そんな賑やかなやり取りの少し後ろで、ノアは市場全体を眺めていた。
薬草を見る。
店主を見る。
買い物をする人々を見る。
走り回る子供たち。笑う母親。荷物を抱える老人。
そこには戦いも命令もなかった。
ただ、人々の暮らしがあった。
「ノア?」
結衣が声をかける。
ノアは少し遅れて振り向いた。
「どうしたの?」
「……にぎやか」
「うん。市場だからね」
「みんな、笑ってる」
その言葉に、結衣は一瞬だけ返事に迷った。
けれど、無理に聞き出すことはしない。
「そうだね。いい町だね」
「うん」
ノアは小さく頷いた。
その返事は、以前よりずっと自然だった。
◇◇◇
市場を一通り見て回った頃には、ちょうど昼時になっていた。
「お腹すいたね」
結衣が言う。
「待っておった」
真白が即答した。
「真白はさっきお菓子食べてたでしょ」
「あれは別腹」
「出た、別腹」
結衣が苦笑する。
リーファが近くの食堂を指差した。
「あちらは湖魚料理が評判の店です。ミルファに来たなら、一度は食べておくといいですよ」
「湖魚料理!」
結衣の表情が明るくなる。
「水菓子もあるのです」
リリアが付け加える。
「行くのじゃ!」
真白が即決した。
店は市場の通りに面した、開放的な食堂だった。
木の卓が並び、湖から吹く風が店内を通り抜けている。
席につくと、すぐに料理が運ばれてきた。
香草を詰めて焼いた湖魚。白身魚の煮込み。薬草を刻んだ温かいスープ。淡い緑色の薬草茶。
そして、食後の水菓子。
「おお……」
真白が両手を合わせる。
「これは良いものじゃ」
「まず魚からね」
結衣が釘を刺す。
「分かってる」
真白は香草焼きにかぶりついた。
「おいしい!」
「本当? いただきます」
結衣も魚を口に運ぶ。
「おいしい!」
「でしょう?」
リリアが得意げに胸を張った。
ノアはしばらく料理を見つめている。
「食べないの?」
結衣が聞いた。
「食べていいの?」
「もちろんだよ」
「……うん」
ノアは小さく頷き、魚を一口食べた。
「どう?」
「……あたたかい」
「味は?」
「おいしい」
それは小さな感想だった。
けれど、確かにノア自身の言葉だった。
皆で同じ卓を囲む。
ただ、それだけの時間。
だが、その穏やかさは、ノアの心を少しずつ溶かしているようだった。
◇◇◇
午後。
結衣たちは神殿のコテージへ戻った。
扉を開けると、すでに透たちも戻っている。
食堂には透、セリナ、明日華、蒼姫、ノーノー、セシリア、そしてガルドの姿があった。
「ただいまー」
結衣が明るく声を上げる。
「おかえり」
透が振り向いた。
けれど、その表情にいつもの柔らかさは薄かった。
結衣はすぐに気付く。
「……何かあったの?」
透は少しだけ間を置いて頷いた。
「北方の町のことを話す」
全員が席についた。
透は、北方の町で見たことを説明した。
町はやはり壊滅していたこと。
魔鋼虫に襲われた痕跡があったこと。
生存者は幼子一人だけだったこと。
その子は大神殿で保護してもらったこと。
言葉が進むごとに、空気が重くなっていく。
結衣は唇を噛んだ。
真白も黙り込む。
リーファは目を伏せ、リリアは小さな手をぎゅっと握った。
ノアだけは表情を大きく変えず、ただじっと話を聞いていた。
「その子は大丈夫なの?」
結衣が聞く。
「神官長が責任を持って保護してくれるそうだ。セリナもいてくれた」
「そっか……」
結衣は少しだけ息を吐いた。
「よかった、って言っていいのか分からないけど」
「うん」
透も頷く。
「俺もそう思う」
全てを救えたわけではない。
けれど、一人は救えた。
その事実を否定してはいけない。
やがてガルドが大きく息を吐いた。
「まあ、俺たちのやることは変わらねえな」
「はい」
セリナが頷く。
「私たちは、前へ進むしかありません」
その言葉に、皆が静かに頷いた。
◇◇◇
夕食後。
コテージの中が少し落ち着いた頃、透はノアに声をかけた。
「ノア。少し話を聞いてもいいかな」
「うん」
ノアは素直に頷く。
場所は談話室。
同席するのは、セリナだけだった。
「難しい話じゃないよ」
透は穏やかに言った。
「ノアのことを、もう少し知りたいんだ」
ノアは不思議そうに首を傾げる。
「仲間だから」
透がそう言うと、ノアは少しだけ目を伏せた。
それから、静かに頷く。
「……分かった」
こうして、三人の静かな話し合いが始まった。
ノアが持つ魔核探知の力。
ノア自身の記憶。
好きなもの。
苦手なもの。
少しずつ。
本当に少しずつ。
ノアは自分のことを語り始める。
その声はまだ小さい。
けれど、確かに以前よりも柔らかくなっていた。
夜は静かに更けていく。
湖畔都市ミルファの灯りが、窓の外で淡く揺れていた。
北方の町で失われたもの。
神殿に預けた小さな命。
市場で見た穏やかな日常。
そして、ノアの小さな変化。
その全てを抱えながら、一行は次の旅路へ向かおうとしていた。




