第二十八話 焼け落ちた町
「あれじゃな」
ノーノーの声が低くなる。
近づくにつれ、その焼け跡が町の形をしていることが分かった。
外周の柵は崩れ、家屋は黒く焼け落ちている。煙はもう上がっていなかったが、焦げた臭いは上空にまで漂ってきた。
蒼姫は町外れへ降り立った。
三人が地面へ降りる。
足元の草は踏み荒らされ、土は黒く焦げていた。
風が吹く。
だが、町からは何の音もしない。
人の声も、家畜の鳴き声も、生活の気配も。
何もなかった。
「……静かですね」
明日華が小さく言った。
「ああ」
透は周囲を見回す。
焼けた家屋。崩れた柵。倒れた荷車。割れた桶。
どれも、つい最近まで使われていたもののはずだった。それが今は、ただ灰と煤にまみれている。
「待つのじゃ」
ノーノーが低く言い、地面へしゃがみ込んだ。
土の表面を指でなぞる。
そこには、草を押し潰し、土を削ったような跡があった。
一本ではない。
何本も、町の外から入り込み、焼け跡の中へと続いている。
「這い跡じゃ」
「這い跡?」
透が聞き返す。
「何者かが、地面を擦りながら移動した跡じゃ。脚だけで歩いた跡ではない。腹を低くして、這うように進んでおる」
ノーノーは立ち上がり、跡の方向を見る。
「北から来ておる」
そして、町を挟んだ反対側へ視線を向けた。
「そして、北へ戻っておる」
「数は?」
明日華が尋ねる。
「正確には分からん。じゃが、十や二十では済まぬな。数十体規模じゃ」
透は息を呑んだ。
数十体。
それが、この小さな町を襲ったのなら。
守れるはずがない。
三人は慎重に町の中へ入った。
最初に見つけたのは、家畜の残骸だった。
牛に似た大型の家畜。その胸部を中心に、ひどく食い荒らされている。魔核があった場所だろう。
周囲の地面には、乾いた血の跡が黒く染みついていた。
さらに奥へ進むと、人の遺体もあった。
焼け焦げたもの。
食い荒らされたもの。
原形を留めていないもの。
透は思わず足を止めた。
喉の奥が詰まる。
戦場は見た。
ラザールで魔鋼虫とも戦った。
だが、これは違った。
ここにあるのは、戦場の熱ではない。
すべてが終わった後の静けさだった。
もう誰も助けを求めていない。
もう誰も叫んでいない。
ただ、重い沈黙だけが残されている。
ノーノーは表情を険しくしながら、遺体のそばにしゃがんだ。
しばらく無言で調べる。
そして、静かに立ち上がった。
「確定じゃ」
透が顔を向ける。
「魔鋼虫じゃ」
その言葉は短かった。
だが、重かった。
「分かるのか」
「魔獣なら食い方が違う」
ノーノーは遺体の一部を指し示した。
「魔核を持つ部位が重点的に喰われておる。家畜も人も同じじゃ。骨の砕き方も、魔鋼虫の顎によるものに近い」
その声に怒りはない。
ただ冷静な判断だけがあった。
だからこそ、余計に重く響いた。
「これは、魔鋼虫の群れによる襲撃じゃ」
透は黙って焼け跡を見る。
魔鋼虫。
また、魔鋼虫だった。
ノーノーはさらに周囲を見回し、焼け落ちた家屋の一つへ向かった。
そこには黒く焦げた鍋が転がっている。
炭になった薪。割れた器。焼けた食材らしきもの。
同じような痕跡は、他の家の前にも残されていた。
「夕餉の支度中じゃな」
ノーノーが呟いた。
「食事の準備をしていたんですか」
明日華が問う。
「うむ。火を焚き、鍋をかけていた。どの家も似たような状態じゃ」
ノーノーは空を見上げた。
「襲撃は夜じゃろう」
パンゲアの夜は暗い。
月はない。
星もない。
太陽が沈めば、空は黒く沈む。灯火の届く範囲だけが人の世界で、その外は完全な闇になる。
「魔鋼虫は魔素を見て獲物を探す。暗闇など関係ない」
ノーノーの声が低くなる。
「じゃが、人には見えぬ。住民たちは灯火の外から近づく魔鋼虫に、気付けなかったのじゃろう」
透は周囲を見た。
夕餉の準備。
家族が集まる時間。
火を囲み、食事を待つ時間。
その暗闇の外から、魔鋼虫が這い寄ってきた。
逃げる間もなかったのだろう。
「火が回ったのは、そのせいか」
「おそらくのう」
ノーノーは焼けた家々を見た。
「住居が密集しておる。戦闘で火が倒れたか、逃げ惑う中で燃え移ったか。夕餉の火が一度回れば、この町では止められまい」
焼死した者がいた理由。
食い荒らされた遺体があった理由。
町全体が焼けた理由。
それらが、一つにつながっていく。
透は拳を握りしめた。
それでも、何も言えなかった。
三人はさらに町外れへ進んだ。
そこで、蒼姫が低く鳴く。
明日華が顔を上げた。
「蒼姫?」
蒼姫の視線の先。
そこに、一匹の魔鋼虫の死骸があった。
黒い甲殻。鋭い脚。
ラザールで見たものと同じタイプだった。
だが、その脚のいくつかは切断され、甲殻には幾筋もの傷が刻まれている。
そして胸部の隙間には、一本の細い剣が深く突き刺さっていた。
「これは……」
透が近づく。
ノーノーも目を細めた。
「エストックじゃ」
柄を見て、すぐに分かったようだった。
「対魔鋼虫用の刺突剣。ラザールで使わせたものじゃ」
その近くには、焼け焦げた遺体があった。
革鎧の残骸。
冒険者の装備。
手元には、折れた短剣が落ちている。
顔は判別できない。
だが、ノーノーはしばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「ラザールで共に戦った冒険者の一人じゃろうな」
「カシムさんが出した巡回か」
透が呟く。
「おそらくのう。ラザール防衛戦の後、周辺の警戒を強めておったはずじゃ。北方の町を巡回していて、運悪くこの群れと遭遇したのじゃろう」
「戦ったんだな」
「戦った」
ノーノーは静かに頷いた。
「そして、一匹は討ち取った」
魔鋼虫の死骸。
突き刺さったエストック。
焼け焦げた冒険者。
最後まで戦った痕跡だった。
だが、群れは止められなかった。
数十体の魔鋼虫を、一人や数人の冒険者で止められるはずがない。
それでも、この冒険者は逃げなかったのだ。
町を守るためか。
住民を逃がすためか。
それは分からない。
だが、最後まで戦った。
透は焼けた遺体の前で、しばらく動けなかった。
その時だった。
「……たす……けて……」
かすかな声が聞こえた。
透は弾かれたように振り向く。
「今、声が」
明日華も頷いた。
「聞こえました」
三人は声のした方へ走った。
崩れた建物の陰。
焼け残った壁の裏。
そこに、一人の女性が倒れていた。
腕の中には、幼い子供を抱いている。
「しっかりしてください!」
透は膝をつき、女性のそばへ寄った。
女性はゆっくりと目を開ける。
顔色は悪く、体には深い傷があった。
明日華が息を呑む。
ノーノーも表情を曇らせた。
助からない。
それは、誰の目にも明らかだった。
「この子を……」
女性は震える手で、幼子を差し出した。
透はそっと受け取る。
幼子はまだ小さい。
三歳にも満たないだろう。
恐怖で声も出ないのか、透の服を小さな手で掴んだまま震えている。
「何があったんですか」
透が尋ねる。
女性の唇が、かすかに動いた。
「黒い……大きな魔獣が……」
呼吸が乱れる。
「夜に……急に……みんな……」
その目から涙がこぼれた。
「夫も……父も……みんな……」
透は何も言えなかった。
女性は幼子へ視線を向ける。
「この子を……お願いします……」
「分かりました」
透は強く頷いた。
「必ず、連れて帰ります」
女性の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
そして。
そのまま、静かに息を引き取った。
風が吹いた。
焼け跡の灰が、かすかに舞う。
幼子が小さく泣き出した。
透はその子を抱きしめる。
明日華は目を伏せ、蒼姫が低く鳴いた。
ノーノーは静かに帽子を取る。
「……間に合わなかったのう」
老人の声は小さかった。
◇◇◇
その後、三人は町外れに簡単な墓を作った。
女性を埋葬し、短く祈りを捧げる。
冒険者の遺体にも、できる限りのことをした。
すべての遺体を弔うことはできない。
時間も、人手も足りなかった。
それでも、目の前の者だけでも置き去りにはできなかった。
透は幼子を抱いたまま、焼け落ちた町を見つめていた。
ここには暮らしがあった。
夕餉の火があり、家族があり、町の人々がいた。
それが、一夜で失われた。
魔鋼虫によって。
透の胸の奥が重く沈む。
怒りなのか。
悔しさなのか。
悲しみなのか。
自分でもうまく分からない。
ただ、ひどいと思った。
こんなことがあっていいはずがない。
透は無意識に拳を握る。
「……ひどいな」
漏れた言葉は、それだけだった。
ノーノーは透を見上げた。
何かを言おうとして、やめる。
明日華も何も言わなかった。
蒼姫が翼を広げる。
もう、この場所に長く留まるべきではなかった。
魔鋼虫は北から来て、北へ戻っている。まだ近くにいる可能性もある。
「戻るぞ」
ノーノーが言った。
「ミルファに伝えねばならん。これは魔鋼虫の襲撃じゃ」
透は頷き、幼子をしっかりと抱え直す。
明日華がそっと、その子の背を撫でた。
「大丈夫です。もう一人ではありません」
幼子は泣きながら、透の服を掴んでいた。
三人は蒼姫の背に乗った。
蒼姫が空へ舞い上がる。
眼下で、焼け落ちた町が小さくなっていく。
まるで黒い傷跡のように、草原の中に残っていた。
透はその光景から、しばらく目を離せなかった。
やがて、湖畔都市ミルファが見えてくる。
湖は変わらず美しく輝き、農地には人々の姿がある。
町には暮らしがある。
子供たちの笑い声も、きっと聞こえているのだろう。
だが、その北では、一つの町が滅んでいた。
魔鋼虫は、確かに再び動き始めていた。




