第二十七話 静かな水面
神殿都市ミルファで迎える二日目の朝は、静かだった。
コテージの窓からは淡く輝く湖が見え、白亜の大神殿が朝の光を受けて、湖面にその影を落としている。
サーディルの乾いた風とは違う。
ここには水の匂いがあり、畑の土の匂いがあり、薬草の青い香りがある。
そして、人々の暮らしの気配があった。
「おお……今日もよい眺めなのじゃ」
真白が窓辺に立ち、白い耳をぴこぴこと動かした。
「真白、また魚のこと考えてるでしょ」
結衣が呆れたように笑う。
「当然。昨日の大物は見事であった。真白の勝利なのじゃ」
「だから、何に勝ったのよ」
「魚」
「そこはそのままなんだ」
真白は真面目な顔で頷いた。
そんな二人のやり取りを聞きながら、透は朝食の席についた。
神殿側が用意してくれた朝食は、焼いたパンと野菜の煮込み、それに湖で獲れた魚を使った料理だった。
昨晩、結衣たちが釣った魚も少し使われているらしい。
「おお、これは昨日の魚か」
真白が皿を覗き込む。
「たぶんね」
結衣が笑った。
「真白が釣った大物も入ってる?」
「大物は料理人さんが別に調理するって言ってたよ。大きすぎるから」
「むう。では後で確認する」
「食べる気満々だね」
「当然じゃ」
朝の空気は穏やかだった。
しかし、透の胸には昨日の会議で聞いた話が残っている。
北方の牧畜の町。
焼け落ちた廃墟。
生存者なし。
原因は不明。
魔獣の襲撃か、事故か、それとも魔鋼虫なのか。
まだ何も分からない。
だが、分からないままにしておくには、あまりにも気になる話だった。
「ノーノー」
透は食事の手を止め、向かいに座る小柄な賢者へ視線を向けた。
「なんじゃ」
「昨日の北方の町の件だけど……やっぱり、一度見ておいた方がいいと思う」
その言葉に、食卓の空気が少し変わった。
結衣が顔を上げ、明日華も静かに透を見る。セリナは手にしていた杯をそっと置いた。
「報告だけでは判断できませんね」
セシリアが言う。
「魔鋼虫なのか、別の魔獣なのか。それだけでも分かれば、今後の対応が変わります」
「そうじゃな」
ノーノーは腕を組み、目を細めた。
「ワシも気になっておった。焼け落ちた町、生存者なし。じゃが魔鋼虫なら、ただ焼けるだけでは済まぬ。現場を見れば、ある程度は分かるじゃろう」
「俺が行きます」
透が言った。
その声は強くはなかった。
だが、すでに決めている声だった。
「あにさま」
明日華が静かに口を開く。
「行くなら、私も同行します」
「明日華?」
「蒼姫なら空から行けます。地上を進むより早く、安全に確認できます」
明日華の右肩に止まっていた蒼姫が、低く羽を鳴らした。
「確かにのう」
ノーノーが頷く。
「蒼姫に乗れば、日帰りも可能じゃ。大人数で向かうより、少人数で空から偵察した方がよい」
「では、透殿、明日華殿、ノーノー様の三名で?」
リーファが確認するように言う。
「うむ。重すぎても蒼姫に負担がかかる。三人なら十分じゃろう」
それを聞いたガルドが、椅子の背にもたれて苦笑した。
「俺も行きたいところだが、俺ではさすがに蒼姫には乗れないだろうからな」
「ガルドさんが乗ったら、蒼姫が大変そう」
結衣が言うと、ガルドは肩をすくめた。
「だろうな。俺は適当に町を見て回る。何かあればすぐ戻る」
「私は神殿へ向かいます」
セリナが言った。
「エルシア神官長との話もありますし、ミルファ側との連絡も必要です」
「私は図書館へ戻ります」
セシリアも静かに続ける。
「結界の資料と、北方の古い記録をもう少し調べてみます」
「じゃあ、わたしたちは?」
結衣が尋ねた。
「町の見学でよいのではないかの」
ノーノーが答える。
「薬草市場でも見てくるとよい。ノアも興味があるじゃろう」
ノアは小さく頷いた。
「はい。薬草や治療に使うものは見てみたいです」
「真白も行く」
「真白は薬草じゃなくて甘味目当てでしょ」
「薬草を使った甘味があるかも」
「まだ言ってる」
結衣が笑う。
だが、その笑いは少し控えめだった。
透が危険な場所へ行く。
そのことを、結衣も理解している。
「おにい」
「なんだ?」
「気をつけてね」
「ああ。見てくるだけだ。無理はしない」
透はそう言って、結衣の頭に軽く手を置いた。
◇◇◇
朝食の後、透たちは神殿へ向かった。
出発の話は、すぐに神官長エルシアへ伝えられた。
エルシアは驚いた様子を見せたが、反対はしなかった。
「本来なら、こちらから正式な調査隊を出すべきところです」
エルシアは静かに頭を下げる。
「ですが、北方の状況が分からない以上、少数で素早く確認していただけるのは助かります」
「必ず無理はしません」
透が答えた。
「危険だと判断したら、すぐに戻ります」
「どうか、お気をつけて」
エルシアの言葉に、セリナも心配そうに透たちを見る。
「透様、明日華様、ノーノー様。くれぐれも」
「はい」
明日華が静かに頷いた。
神殿の広場に出ると、蒼姫が明日華の肩から飛び立った。
小さな八咫烏の姿が、空中で淡い光をまとう。
次の瞬間、その体は大きく広がった。
蒼く艶やかな羽。
鋭い金色の瞳。
神々しさすら感じさせる巨大な霊鳥の姿に、周囲にいた神官や聖騎士たちが息を呑んだ。
「何度見ても、見事なものじゃのう」
ノーノーが感心したように言う。
透が蒼姫の背へ乗り、続いて明日華、ノーノーもその背に乗った。
「では、行ってきます」
透が振り返る。
結衣が大きく手を振った。
「おにい、ちゃんと帰ってきてね!」
「もちろんだ」
真白も両手を振る。
「とおるん、明日華、気をつけるのじゃ!」
「はい」
明日華が答えた。
蒼姫が大きく翼を広げる。
風が巻き起こり、白い神殿の旗が激しく揺れた。
そして蒼姫は、神殿都市ミルファの空へ舞い上がった。
◇◇◇
町が小さくなっていく。
眼下には大きな湖が広がり、白亜の大神殿が水面に浮かぶように見えた。その周囲には農地が広がり、薬草畑が規則正しく並んでいる。
穏やかな町。
守られている町。
だが、その北に何があるのか。
透は前方を見つめた。
ミルファを離れると、景色は次第に変わっていった。
畑が減り、広い草原が広がる。ところどころに放牧地があり、遠くには家畜の群れも見えた。
小さな集落もいくつか見える。
だが、北へ進むにつれて、人の気配は少しずつ薄くなっていった。
「広いですね」
明日華が呟く。
「牧畜地帯じゃな」
ノーノーが風に声を流しながら答えた。
「ミルファの食を支える土地の一つじゃ。小さな町や集落が点在しておる」
「防衛は弱いのですか」
「弱い。城壁都市ではないからのう。魔獣が出れば冒険者や近隣都市に助けを求める。それが普通じゃ」
普通。
その言葉が、透の胸に引っかかった。
この世界では、それが普通なのだ。
魔獣がいる。
町一つが滅ぶこともある。
そういう世界なのだ。
やがて、前方に黒いものが見えた。
草原の中に、ぽっかりと広がる黒い焼け跡。
蒼姫が高度を下げる。
「あれじゃな」
ノーノーの声が低くなった。
近づくにつれ、その焼け跡が町の形をしていることが分かる。
外周の柵は崩れ、家屋は黒く焼け落ちていた。
煙は、もう上がっていない。
だが、焦げた臭いは上空にまで漂ってくる。
蒼姫はゆっくりと高度を落とし、町外れへ降り立った。




