第二十一話 城塞都市サーディル
騎獣は、ゆるやかに大地を駆けていた。
先頭には透。その前には、ノアがちょこんと座っている。
別の騎獣には結衣と真白。真白は結衣の後ろにしがみつくように座っていた。
明日華の右肩には、小さな蒼姫がいつものように止まっている。
しばらく無言で景色を眺めていた結衣が、ふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、お兄」
「ん?」
「この世界には虫がいないって、本当?」
「ああ、本当だ」
透は前を向いたまま答えた。
「この世界には虫がいない。それに、俺たちの世界で言う感染症みたいな病気もほとんどないらしい」
「じゃあ、風邪とかもないの?」
「聞いたことはないな。少なくとも、こっちの人たちが風邪をひくって話は聞いてない」
「へえ……」
結衣が感心したように声を漏らす。
明日華も少し驚いたように目を細めた。
「病気がないというのは、すごい世界ね」
「ただし、魔素に関係する病気はあるみたいだ」
透は続ける。
「魔素欠乏症とか。この世界の人たちは魔核が生命維持にも関わっているから、魔核を壊されたり、魔鋼虫に食べられたりすると死んでしまう」
「魔核を食べられる……」
結衣の表情が少し曇った。
「それ、やっぱり怖いね」
「ああ」
透は小さく頷く。
すると結衣は、ふと首をかしげた。
「でもさ」
「ん?」
「魔鋼虫って、虫みたいに見えるよね?」
「そうね」
明日華が頷く。
「私たちが見たのも、虫に近い形だったわ」
透も少し考えるように視線を前へ向けた。
「確かに似ているかもしれないな。最初にアストレアで戦った飛行型は、蚊みたいだった」
「蚊かあ」
「地面を這っていた奴は、ダンゴムシに似ていたな。大型個体は……何て言えばいいんだろうな。カマキリにも見えるけど、巨大な甲虫みたいでもあった」
「うわあ……」
結衣が露骨に嫌そうな顔をした。
「私たちが見たのは、蜂に似てたもんね」
「ええ」
明日華が頷く。
「うむ。あれは確かに蜂っぽかったのじゃ」
真白も頷き、蒼姫も肩の上で小さく頷いた。
だが、ノアだけはきょとんとしていた。
「蜂?」
ノアは透を見上げる。
「蜂って、何?」
「あ……」
透はそこで言葉に詰まった。
この世界には虫がいない。当然、ノアが蜂を知っているはずもなかった。
「蜂は……虫の一種だな」
「虫?」
「そう。虫」
「虫って何?」
ノアはますます不思議そうな顔をした。
透は少し困ったように笑う。
「うーん……そのうち教えるよ」
「分かった」
ノアは素直に頷いた。
けれど、その顔は最後まできょとんとしたままだった。
その様子を見ていた結衣が、ぽつりと言う。
「もしかして、あんな虫やあんな虫に似たやつもいるのかな」
何かを思い出したのか、ぶるっと身を震わせる。
「なら、お母さんに殺虫剤を入れてもらえば良かった」
一瞬、空気が止まった。
透は思わず吹き出す。
「いや、あんなでかいのに殺虫剤が効くかな」
「効かないかなあ」
「効いたらすごいな」
「だよね」
結衣も苦笑した。
すると、真白が後ろから胸を張る。
「虫なら、わしに任せるのじゃ」
「真白に?」
結衣が振り返る。
真白は得意げに尻尾を揺らした。
「うむ。虫取りなら得意なのじゃ」
そこで明日華が、静かに口を挟む。
「そういえば真白は、変な虫を捕まえてきては、かあさまによく怒られていたわね」
「うっ」
真白の耳がぺたんと伏せた。
「縁側に並べたり」
「うっ」
「台所に持ち込んだり」
「ううっ」
「布団のそばに置いたこともあったわね」
「そ、それは、その……」
真白は明らかに目を泳がせた。
結衣が呆れたように言う。
「それに、あんな大きなのどうするのよ」
「うぅ……」
真白はしばらく固まった。
そして、じわりと涙目になる。
「とおるん……」
結衣の後ろから、透へ情けない声を向ける。
「助けるのじゃ……」
「いや、真白なら本当に捕まえそうだから困る」
透は苦笑した。
結衣が吹き出し、明日華も口元を押さえて笑う。蒼姫も肩の上で小さく笑った。
ノアだけは、まだ首をかしげている。
「虫って、何?」
その一言で、また皆が笑った。
騎獣の足音と明るい笑い声が、広い草原に溶けていく。
その時だった。
「見えてきたのじゃ!」
真白がぴんと耳を立て、前方を指差した。
全員の視線がそちらへ向く。
地平線の向こう。砂色の大地の上に、巨大な城壁が姿を現していた。
ラザールの城壁よりも高く、厚い。まるで大地そのものを囲うかのような威容を誇り、その中央には巨大な城門が見える。
西方都市国家群への玄関口。
砂漠と西方諸都市を結ぶ要衝。
城塞都市サーディル。
「おおー……大きいね」
結衣が思わず声を漏らした。
ノアも目を丸くする。
「ラザールより立派なのじゃ」
真白が感心したように呟く。
その頭の上には、いつの間に出てきたのかモモがちょこんと座っていた。
「人がいっぱいだね!」
小さな羽をぱたぱたと動かしながらモモが言う。
「さっきまで荷物に隠れてたのに」
「だって街の中だもん!」
モモが胸を張る。
そんなやり取りに結衣が吹き出した。
「はいはい」
先頭を進んでいたリーファが苦笑する。
「まずは中に入りましょう」
一行は城門へ向かった。
門前には隊商や旅人たちが列を作っている。
リーファは懐から木札を取り出した。ラザール領主カシムから預かった通行札である。
門兵が札を見る。そして顔を上げた。
「おや、リーファ殿」
「久しぶりね」
「里に戻るのですか?」
「ええ。その前に少し滞在するわ」
門兵は頷く。
「どうぞお通りください」
門が開かれ、一行は城門をくぐった。
「わぁ……」
今度は結衣だけではなかった。
ノアも真白も、思わず足を止める。
石畳の大通り。その両側には石造りの建物が並び、大勢の人々が行き交っている。露店からは威勢のいい呼び声が飛び、隊商の荷車が次々と通りを進んでいく。
ラザールとはまた違う賑わいが、そこにはあった。
「すごい……」
ノアが辺りを見回す。
「これが城塞都市サーディル」
「まだ入口付近なのじゃ。本当の街並みはもっと先なのじゃ」
真白が得意そうに言った。
「真白も初めてだよね?」
結衣の言葉に、真白が固まる。
「うっ」
皆が笑った。
その後、一行は宿を探すことにした。
門兵へ尋ねると、リーファが以前利用したことのある宿が、今も営業しているらしい。
「ここよ」
しばらく歩いた先に、石造りの大きな建物が見えた。
宿の前には騎獣を繋ぐための広いスペースが設けられ、中庭も旅人たちで賑わっている。
宿を確保した一行は荷物を置き、やがて夕食の時間を迎えた。
テラス席へ案内されると、次々に料理が運ばれてくる。
大きな鍋で煮込まれた肉と野菜のスープ。焼きたての平パン。香草を使った串焼き。そして、果実を絞った冷たい飲み物。
「いただきます!」
結衣が真っ先にスープへ手を伸ばした。
「美味しい!」
「!」
真白も嬉しそうに目を輝かせる。
「おいしい……」
ノアも、ほっとしたように微笑んだ。
モモは真白の頭の上から身を乗り出す。
「甘いものは?」
「まだ」
「えー」
モモがしょんぼりする。
その様子に皆が笑った。
リーファは懐かしそうに街並みを眺めていた。
「変わらないわね」
「前にも来たことがあるんですか?」
透が尋ねる。
「何度かね。西へ向かう時は、大抵ここを通るの」
そこから自然と、リーファの旅の話に花が咲いた。
一方でガルドは席を立つ。
「俺はちょっと飲んでくる」
そう言って、酒場の方へ歩いていった。
「飲み過ぎないでくださいね」
セリナの声に、ガルドは手だけ振って答える。
セシリアはそんなガルドを見送りながら、琥珀色の酒が入ったグラスを傾けた。
「やっぱりお酒はいいわね」
「セシリアさん、お酒飲めるんですね」
「飲めるわよ?」
にっこり笑うセシリアに、結衣はなぜか慌てて視線を逸らした。
ノーノーは食事を終えると、早々に立ち上がる。
「ワシは部屋へ戻るぞ」
「もうですか?」
透が尋ねた。
「気になることがあっての」
そう言い残し、小さな賢者は宿の中へ消えていった。
穏やかな夜だった。
戦いもなく、警戒する必要もない。
久しぶりに訪れた静かな時間を、一行はゆっくりと過ごすのだった。




