第二十話 尖塔から見た世界
その頃。
結衣たちは、サーディルの街を歩いていた。
「わあ、ラザールと全然違うね」
結衣がきょろきょろと周囲を見回す。
石造りの建物が並ぶ広い通りを、騎獣に荷車を引かせた商人たちが行き交っている。武装した兵士の姿も多く、乾いた風の中に商人たちの威勢のいい声が響いていた。
サーディルはラザールよりも、城塞都市らしい重厚さがあった。
真白は結衣の横で、鼻をひくひくさせている。
「よい匂いがするのじゃ」
「真白、また食べ物?」
「食は大事なのじゃ」
「はいはい」
結衣は苦笑した。
ノアは少し後ろを歩きながら、街並みを眺めている。見るものすべてが珍しいのか、表情は静かでも、その目は忙しく動いていた。
リリアはノアの周りをふわふわと飛び、モモは真白の頭の上に乗って、時々その耳をつついている。
「こら、モモ。耳はやめるのじゃ」
「きゅい」
「返事だけはいいのじゃ」
そのやり取りに結衣が笑う。
明日華は、そんな皆を少し後ろから見守っていた。右肩には蒼姫が止まっている。
蒼姫はいつものように静かに周囲を見ていたが、街の造りや人の流れには興味があるようだった。
「明日華、あれ見て」
結衣が前方を指差す。
街の中央に、高くそびえる石造りの尖塔があった。サーディルのどこからでも見えるその塔は、街の象徴のように立っている。
「高いね」
明日華が呟く。
「登れるのかな」
結衣の目が輝いた。
近くにいた兵士へ尋ねると、その塔は見張り台を兼ねているものの、決められた時間なら旅人も上がれるという。
「登れるって!」
結衣が嬉しそうに振り返る。
「行くのじゃ!」
真白も元気よく手を上げた。
ノアは少し迷うように尖塔を見上げる。
「高いところ……」
「怖い?」
結衣が尋ねると、ノアは首を振った。
「ううん。見てみたい」
「じゃあ決まり!」
リリアがくるりと宙返りする。
「上まで競争なのー」
「リリアは飛べるから、ずるいのじゃ!」
真白が抗議すると、リリアは楽しそうに笑った。
◇◇◇
一行は塔の中へ入った。
石造りの階段が、螺旋を描くように上へと続いている。結衣たちはその長い階段を、ぐるぐると回りながら登っていった。
途中で、真白が早くも飽き始める。
「まだなのかのう……」
「真白、さっき登りたいって言ったばっかりでしょ」
「階段が長いのじゃ」
「高さ百メートルくらいあるって言ってたもん」
「百メートル……」
ノアが小さく呟いた。
「すごく高い」
「うん。地球でも普通に高いよ」
明日華が答える。
「地球……」
ノアは、その言葉を不思議そうに繰り返した。
やがて長い階段が終わり、視界が一気に開けた。
強い風が吹き抜ける。
「すごーい!」
結衣が真っ先に手すりへ駆け寄った。
眼下には、サーディルの街が広がっている。
石造りの建物の間を走る街路には、人々や騎獣、荷車が行き交い、市場には多くの人が集まっている。巡回する兵士の姿も見え、その街全体を高い城壁がぐるりと囲んでいた。
さらにその向こうには、砂漠と岩場がどこまでも広がっている。
「おお、これは高いのじゃ!」
真白も尻尾を揺らしながら身を乗り出す。
結衣が慌てて、その袖を掴んだ。
「真白、落ちないでよ」
「落ちぬのじゃ!」
「そういう子ほど落ちそうなんだけど」
「失礼なのじゃ」
真白は頬を膨らませた。
ノアは手すりに両手を添え、じっと景色を見つめている。
「広い……」
その声は、とても小さかった。
だが、結衣には聞こえた。
「うん。広いね」
ノアは頷く。
街の外に広がる砂漠。遠くへ続く道。
これまでノアが見てきた世界とは、何もかもが違うのだろう。
リリアは風に乗って、塔の周囲をくるくると飛んでいた。
「気持ちいいのー」
「リリア、遠くに行きすぎないでよ」
「大丈夫なのー」
モモは風に飛ばされないよう、真白の頭の上で丸くなっている。
「きゅい……」
「怖いなら降りるのじゃ」
「きゅい!」
「強がるでないのじゃ」
そんなやり取りに、結衣がまた笑った。
◇◇◇
明日華も、手すりのそばへ立った。
風が黒髪を揺らす。右肩の蒼姫が、静かに羽を整えた。
『よく見えますね』
「うん」
明日華は遠くを見る。
砂漠の道。その先に、ゆっくりと進む小さな影があった。
結衣もそれに気づき、声を上げる。
「あ、見て。あそこ、隊商がいる」
明日華も同じ方角を見る。
「本当だ」
遠い。
普通なら、肉眼では見分けることすら難しい距離のはずだった。
だが、今の結衣と明日華には見えている。
荷車の列。騎獣の動き。先頭を歩く者の姿までは分からないが、それでも隊商であることは十分に見分けられた。
「すごいね。前だったら絶対見えなかったよ」
「うん」
明日華も頷く。
パンゲアへ来てから、自分たちの身体は明らかに変わっていた。
走れば身体が軽い。音もよく聞こえる。遠くのものも、以前よりはっきり見える。
透ほどではないにしても、この世界の魔素に適応したことで、結衣や明日華の身体能力も上がっているのだろう。
結衣は、それを素直に喜んでいた。
「この世界に来てから、目も良くなったよね」
「そうだね」
「おにぃほどじゃないけど」
「あにさまは別格」
「それはそう」
二人は小さく笑った。
けれど、明日華はそこで少し黙った。
もう一度、遠くを見る。
隊商。砂漠。岩山。そして、そのさらに向こうに霞んで見える大地。
見えすぎる。
それは、視力が良くなったからだけではない気がした。
「……変」
明日華が小さく呟く。
結衣が振り向いた。
「どうしたの?」
「遠くまで見えすぎる気がする」
「それは、この世界に来て目が良くなったからじゃない?」
「うん。それもあると思う」
明日華は否定しなかった。
結衣の言葉は間違っていない。実際、目は良くなっている。
以前の自分なら、あんな遠くの隊商など見えなかった。
だが。
それだけでは説明しきれない気がした。
「でも……途中で隠れない」
「隠れる?」
結衣は首を傾げる。
真白も耳をぴくりと動かした。
「何が隠れるのじゃ?」
「景色」
「景色が?」
「うん」
明日華自身も、うまく言葉にできない。
地球では、高い場所から遠くを見ても、景色はどこかで見えなくなる。
山や建物に遮られるという意味ではない。
もっと根本的に、遠くの地面が少しずつ視界の下へ隠れていく。
けれど、この世界ではそれがない。
百メートルほどの高さにいるだけなのに、視界の先がどこまでも続いているように見える。
まるで――。
大地そのものが、平らに広がっているかのように。
「なんだろう……」
明日華は目を細めた。
「世界が、ずっと続いてるみたい」
結衣には、やはりよく分からない。
「ずっと続いてるのは普通じゃない?」
「そうなんだけど……」
明日華は言葉を探す。
だが、答えは出なかった。
ノアも不思議そうに二人を見ている。
「明日華は、何か気になるの?」
「うん。でも、まだ分からない」
「分からない?」
「うん。何が変なのか、まだ分からない」
真白が腕を組み、うんうんと頷いた。
「難しいことを考えてるのじゃ」
「真白は考えてないでしょ」
「ふん。真白も考えているのじゃ」
「何を?」
「このあと、何を食べるかじゃ」
「やっぱり食べ物じゃん」
結衣の突っ込みに、リリアが笑いながら飛び回る。
「真白、食いしん坊なのー」
「リリアに言われたくないのじゃ」
「リリアは蜜が好きなのー」
「ほら、同じなのじゃ」
小さな笑いが起きた。
明日華も、少しだけ笑った。
◇◇◇
その頃。
領主館では、会議が続いていた。
サーディルとしての対応は、少しずつ形になり始めている。
兵士団は街道の警戒を強め、冒険者ギルドは魔鋼虫に関する情報を冒険者へ通達する。ただし無理な討伐は禁止し、発見時は報告を最優先とする。
商人ギルドと隊商組合はラザール方面へ向かう隊商に注意を促し、神殿と治療院は負傷者や避難民の受け入れ体制を確認する。
サーディル領主は、それらの話を聞きながら一つずつ頷いていた。
「つまり、この街も例外ではないということだな」
「そうじゃ」
ノーノーが答えた。
「ラザールは耐えた。じゃが、次も同じように耐えられるとは限らぬ」
机の上に置かれた甲殻片が、鈍く光る。
「奴らは魔核を喰らう」
ノーノーの声が、静かな会議室に響いた。
「人族であろうと、エルフであろうと、獣人であろうと、魔獣であろうと関係ない。魔核を持つものは、すべて奴らにとって餌じゃ」
代表者たちは、黙ってその言葉を受け止めていた。
最初にあった半信半疑の空気は、もう薄れている。
残っているのは、現実を受け入れようとする重い沈黙だった。
兵士団長が拳を握る。
「城壁の点検を急がせる。門の守りも増やす」
冒険者ギルド長が頷いた。
「こちらも通達を出す。特に若い冒険者には、絶対に無茶をさせん」
商人ギルド代表が深く息を吐く。
「交易路を止めれば街が苦しくなる。だが、何も知らずに隊商を送り出すわけにもいかんな」
隊商組合の代表も頷いた。
「情報を共有する。無理な出立は控えさせよう」
サーディル領主は全員を見渡した。
「分かった。サーディルは備える」
その言葉に、会議室の者たちが静かに頷く。
ノーノーは小さく息を吐いた。
「知らなかったでは済まぬ。恐ろしいからと目を逸らしても、奴らは止まらぬ」
それは脅しではなかった。
ただ、事実を告げる言葉だった。
◇◇◇
同じ頃。
尖塔から降りた結衣たちは、サーディルの通りを歩いていた。
「楽しかったね」
結衣が言う。
「高かったのじゃ」
真白が満足げに頷く。
「風が気持ちよかったのー」
リリアがモモの周りを飛ぶ。
「きゅい」
モモも返事をするように鳴いた。
ノアは時折、後ろを振り返って尖塔を見ている。
「どうしたの?」
結衣が聞くと、ノアは少し照れたように言った。
「高いところから街を見たの、初めてだったから」
「そっか」
結衣は笑う。
「また登ろうね」
「うん」
ノアは小さく頷いた。
明日華は、その少し後ろを歩いていた。
いつも通りの表情に見える。
だが心の奥では、先ほど見た景色がまだ消えていなかった。
どこまでも続く砂漠。遠くを進む隊商。霞んだ岩山。そして、さらにその先まで見えてしまいそうな大地。
結衣は、目が良くなったからだと言った。
それは、きっと間違いではない。
けれど、それだけではない。
高い場所から見た大地は、地球で見た景色とはどこか違っていた。
月も星もない空。
魔核を喰らう魔鋼虫。
どこまでも続く大地。
そのどれもが、まだ一つの答えには繋がらない。
けれど。
何かがおかしい。
明日華は、ふと空を見上げた。
「……この世界って、何なんだろう」
その呟きは風に紛れて消え、前を歩く結衣たちは気づかなかった。
領主館では、サーディルの代表者たちが魔鋼虫への備えを始めようとしていた。
街の中では、明日華がまだ形にならない疑問を胸に抱いている。
魔鋼虫の脅威。
パンゲアという世界の謎。
サーディルの一日は、二つの不安を残して過ぎていった。




