第十三話 ノアの警告
透たちはリリアの案内で、急いで宿へ戻った。
領主館から宿までは、それほど遠くない。
透は黙って走った。
胸の奥が、嫌な形に冷えていく。
「リリア、ノアは何と言っていたのですか?」
走りながら、セリナが尋ねる。
リリアは前を飛びながら振り返った。
「急にノアが窓の方を見て、北から来るって言ったの!」
「敵、ですか……」
セリナの表情が引き締まる。
リーファも不安そうに眉を寄せていた。
ノアが何を見たのか。
なぜ敵が来ると分かったのか。
まだ何も分からない。
だが、リリアの様子はただ事ではなかった。
◇◇◇
宿へ戻ると、結衣たちはすでに部屋に集まっていた。
真白は椅子に座ってぐったりしている。
リリアが飛び出していった時点で、何かが起きたことは伝わっていたのだろう。
結衣と明日華は、緊張した表情でこちらを見た。
「おにい!」
「あにさま」
透は二人に頷き、すぐにノアを見る。
ノアは窓辺に立っていた。
その視線は、ずっと北へ向けられている。
「ノア」
透が声を掛ける。
ノアはゆっくり振り返った。
「敵が来るって聞いたけど」
「うん」
ノアは小さく頷く。
「北から来てる」
「何が来ているか分かるの?」
透が尋ねる。
ノアは少し考えるように目を伏せた。
それから、ぽつりと答える。
「魔核」
「魔核?」
セリナが聞き返した。
ノアは頷く。
「魔核が見える」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
セリナも。
リーファも。
結衣たちも。
まだ意味を掴みかねたようにノアを見る。
ノアは窓の外へ視線を戻した。
「光」
「光?」
セリナが聞き返す。
ノアは小さく頷いた。
「魔核の光が見える」
「人も見える」
「魔物も見える」
「みんな、違う光」
そして。
ノアの表情が、ほんの少しだけ険しくなる。
「でも、あれは違う」
「あれ?」
透が尋ねる。
「魔鋼虫」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「魔鋼虫は、ほかと違う」
「光ってるのに、嫌な感じがする」
「動き方も違う」
ノアは北を見つめたまま続ける。
「いっぱい来てる」
「大きいのはいない」
「でも、たくさん」
透は窓の外を見た。
だが、その目には何も見えない。
遠くに街並みがあり、その向こうに砂漠が広がっているだけだった。
「どのくらい遠い?」
ノアは首を傾げる。
「遠い」
「でも、こっちに来てる」
曖昧な答えだった。
だが、その声には確信がある。
◇◇◇
明日華は静かに蒼姫を見た。
「蒼姫」
その一言で、蒼姫はすぐに意図を理解した。
「確認してきます」
落ち着いた声だった。
蒼姫は窓辺へ歩み寄る。
そして、ふわりと外へ飛び出した。
次の瞬間。
人の姿がほどけるように消え、蒼い翼が大きく広がる。
巨大な八咫烏。
蒼姫は一度ラザールの上空を旋回し、そのまま北へ向かって飛んでいった。
「蒼姫、速い……」
結衣が窓から身を乗り出す。
明日華は静かに、その飛ぶ方角を見つめていた。
透は振り返る。
「俺たちは領主館へ戻ろう」
「はい」
セリナが頷く。
リーファも頷いた。
「ノアはここにいて」
透が言う。
だが。
ノアは首を横に振った。
「行く」
「危ないかもしれない」
「行く」
短い返事だった。
透は少し困ったように眉を下げる。
すると、セリナがそっと言った。
「透様。ノアさんの力が本当なら、近くにいていただいた方が良いかもしれません」
確かにそうだった。
ノアは敵の接近を、誰よりも早く察知した。
この状況で完全に後方へ下げてしまえば、かえって判断が遅れる可能性もある。
「分かった」
透は頷いた。
「でも、危なくなったら必ず下がること」
「うん」
ノアは素直に頷いた。
その時だった。
カーン。
カーン。
カーン。
乾いた鐘の音が、ラザールの街へ響き渡った。
「鐘?」
結衣が窓の外を見る。
リーファの表情が強張る。
「警戒の鐘です」
◇◇◇
少し前。
ラザール北門。
櫓の上で、見張りの兵士が遠眼鏡を覗いていた。
砂漠は静かだった。
いつもと変わらない。
そう思っていた。
だが。
地平線の向こうに、異変があった。
「……砂煙?」
最初は、小さな揺らぎに見えた。
だが目を凝らすと、それは明らかにこちらへ近づいている。
砂漠の風が巻き上げたものではない。
何かが。
群れで移動している。
「北方に砂煙!」
兵士が叫んだ。
「数は不明!」
「すぐに領主様へ知らせろ!」
伝令が走る。
◇◇◇
報告を受けたカシムは、迷わなかった。
「中央櫓の半鐘を鳴らしてください」
静かな声。
だが、即断だった。
「住民避難を開始します」
「北門の守備隊を招集」
「騎士団は防衛線を構築」
「冒険者ギルドにも、正式に防衛依頼を出してください」
側近たちが一斉に動き出す。
ラザール中央の高い櫓で、半鐘が鳴らされた。
カーン。
カーン。
カーン。
乾いた音が街中に響く。
市場の人々が空を見上げる。
商人たちが店じまいを始める。
子供を連れた母親が、避難場所へ向かう。
騎士たちが大通りを走り、住民を誘導する。
「北方より魔物接近!」
「住民は指定避難所へ!」
「落ち着いて行動してください!」
混乱はあった。
だが、恐慌にはならない。
カシムは以前から、緊急時の避難経路と避難場所を住民へ周知させていた。
砂漠の街では、魔物の襲撃も砂嵐も起こり得る。
何も起きないことを祈るだけの統治はしない。
その備えが、今生きていた。
街の中央貯水池近くの地下施設。
石造りの倉庫。
創造神を祀る神殿。
住民たちは兵士の誘導で、それぞれの避難場所へ向かっていく。
◇◇◇
同時に。
ラザールの冒険者ギルドも動き出した。
ギルドの掲示板前に、武装した冒険者たちが集まる。
「領主から正式な防衛依頼が出た!」
ギルド職員が声を張り上げる。
「参加者には報酬が支払われる!」
「ただし、相手は魔物の群れだ!」
「腕に覚えのある者だけ名乗り出ろ!」
冒険者たちがざわつく。
その中から、何人もの者が前へ出た。
「報酬が出るなら行くぜ」
「街が落ちたら商売もできねえしな」
「北門だろ? 急ごう」
彼らは、ラザールの住民ではないかもしれない。
だが。
この街で飯を食い。
この街で仕事を得ている。
ならば、守る理由はあった。
◇◇◇
透たちが領主館へ戻る頃には、街はすでに動き始めていた。
カシムは執務室ではなく、館の入口近くで指示を出している。
「カシム様!」
透が声を掛けた。
カシムが振り返る。
「神代殿」
「ノアの言葉は、本当かもしれません」
「北門の見張りも砂煙を確認しました」
カシムは頷いた。
「現在、住民避難を進めています」
「騎士団と守備隊は北門へ集結中です」
その時。
空から大きな影が舞い降りた。
蒼姫だった。
蒼い翼が畳まれ、人の姿へ戻る。
明日華が駆け寄った。
「蒼姫」
蒼姫は静かに頷いた。
「ええ。確認してきました」
全員の視線が集まる。
蒼姫の表情は落ち着いていた。
だが。
告げる内容は重かった。
「ノアちゃんの言う通りです」
「北方から、魔鋼虫の群れが接近しています」
カシムの顔が強張る。
「魔鋼虫……」
ノーノーが目を細めた。
「規模は?」
「正確な数までは分かりませんが、数百はいると思います」
蒼姫は淡々と続ける。
「大型種や飛行種は見当たりません」
「ただ、今まで見たものとは形が違います」
「中型の、トカゲのような姿でした」
「トカゲ……」
ノーノーは遠眼鏡を取り出し、北の方角を見た。
まだ肉眼では見えない。
だが。
遠眼鏡を通せば、地平線の砂煙の奥に黒い影が蠢いているのが分かる。
「ふむ……」
ノーノーはしばらく観察した。
「確かに、今までの型とは違うのう」
さらに目を細める。
「バジリスクに似ておるな」
ガルドが眉をひそめた。
「バジリスク?」
「魔獣図鑑に載っておった魔獣じゃ」
ノーノーは頷く。
そして。
「よし。長い名は現場で使いにくい」
一拍置いて。
「バスクじゃ」
ガルドが呆れたように見る。
「今、決めたのか?」
「分かりやすかろう」
ノーノーは胸を張った。
「名前がないと現場で困る。以後、あの型はバスクと呼ぶ」
カシムは、そのやり取りを聞きながらも、すぐに側近へ指示を飛ばした。
「北門へ向かいます」
「街の指揮は副官に」
「避難完了の報告を随時上げてください」
「はい!」
透たちも北門へ向かった。
◇◇◇
ラザールの外壁は、王都やグランドワイズ関門ほど高くはない。
砂漠の魔物を防ぐための壁ではあるが、魔鋼虫の群れを相手にするには心許なかった。
それでも。
何もない砂漠で迎え撃つよりは、ずっと良い。
北門前には、騎士団と守備隊が集まり始めていた。
槍兵。
弓兵。
盾を持つ兵士。
魔法を扱える者。
そして冒険者たち。
人数は多くない。
だが、皆が自分の役割を理解しようとしている。
その中央で。
ノーノーが大きな荷を開いた。
「急げ急げ!」
「これは遊びではないぞ!」
中から出てきたのは、魔導爆裂砲改だった。
グランドワイズ防衛戦で使われたものを、さらに扱いやすく調整したものらしい。
兵士たちは、見慣れない兵器に目を丸くする。
「大賢者殿、これは?」
「魔導爆裂砲改じゃ」
ノーノーは得意げに言った。
「使い方は儂が指示する。勝手に撃つでないぞ」
さらに別の箱を開ける。
そこには、細身の刺突剣が並んでいた。
「対魔鋼虫用エストックじゃ。二十本ある」
ノーノーは兵士たちへ手渡していく。
「奴らの甲殻を斬ろうとするな」
「狙うのは関節」
「そして腹側じゃ」
◇◇◇
ガルドも、冒険者と兵士たちの前に立った。
大剣を肩へ担ぎ、低い声で言う。
「いいか」
「正面から力任せに叩くな」
「甲殻は硬い」
「剣を折りたくなけりゃ、足の付け根と腹を狙え」
皆が頷く。
「近づかれたら盾で受けるな。流せ」
「止めようとするな。押し負けるぞ」
実戦を知る者の声だった。
ラザールの冒険者と兵士たちは、真剣に聞いている。
◇◇◇
セシリアは、魔法使いたちを集めていた。
「広範囲魔法は乱用しないこと」
「魔素を枯らせば、治癒が遅れます」
「撃つなら前列が崩れた時」
「合図はこちらから出します」
リーファは弓を確認している。
その横で、セリナは負傷者の受け入れ場所を決めていた。
「治療場所は門の内側に」
「水と布を準備してください」
「重傷者を優先します」
カシムは北壁の上から全体を見ていた。
指示は短く、明確だった。
「大型魔獣用バリスタを北壁へ」
「五基すべて使います」
「魔核弾の装填準備を」
ラザールには、大型魔獣対策として城壁上へ設置するバリスタが五基あった。
通常の矢ではなく、改良した魔核弾を投射するためのものだ。
兵士たちが急いで組み上げ、角度を調整していく。
外壁は低い。
だが。
北門と城壁を盾にして迎え撃つしかない。
◇◇◇
透は天羽乃斬を腰に差したまま、北を見た。
砂煙は、先ほどよりはっきり見えるようになっている。
まだ距離はある。
だが、確実に近づいていた。
「おにい」
結衣の声がした。
振り返る。
結衣。
明日華。
真白。
そして、蒼姫。
「私たちは、上から行きます」
明日華が言う。
「蒼姫と一緒に、上空から支援します」
「無理はするなよ」
透は少し心配そうに言う。
明日華は笑った。
「あにさまも」
「私は地上で戦う」
結衣が鉄棍を握る。
真白も胸を張った。
「わしもおるから、安心するのじゃ」
◇◇◇
ノアは透のそばに立っていた。
「ノア」
透は彼女を見る。
「本当にここにいるのか?」
「いる」
ノアは短く答える。
「危なくなったら下がるんだぞ」
「うん」
素直に頷く。
だが、その手は透の袖を軽く掴んでいた。
不安なのか。
それとも。
ただ、離れたくないのか。
透には分からなかった。
ただ。
無理に引き離すことはできなかった。
◇◇◇
蒼姫が大きく翼を広げる。
明日華が、その背へ乗った。
蒼い翼が風を叩く。
蒼姫はふわりと浮き上がり、ラザール北門の上空へ舞い上がった。
その姿を見上げていた兵士たちがざわつく。
「何だ、あれは……」
「鳥……なのか?」
「味方だ」
ガルドが言った。
「気にするな」
その一言で、兵士たちは前を見る。
今、見るべきは空ではない。
北の砂漠だ。
カシムが城壁上で右手を上げた。
鐘の音は、もう止んでいる。
代わりに。
砂漠から響く低い地鳴りのような音が、少しずつ近づいていた。
上空から、蒼姫の声が届く。
『来ます』
北の地平線。
砂煙の向こう。
黒い影が、一つ。
また一つ。
姿を現す。
中型の獣のような体。
低く構えた四肢。
熱い砂地を這うように進む、不格好な魔鋼虫。
バスク。
その群れが、ラザールへ向けて迫っていた。
ガルドが大剣を構える。
「全員、持ち場につけ!」
ノーノーが魔導爆裂砲改の横で叫ぶ。
「よいか!」
「初撃を外すでないぞ!」
セシリアが杖を構える。
リーファが弓を引く。
セリナは治療班の前に立つ。
結衣は鉄棍を掲げる。
真白はその横で、鼻息荒く気合いを入れていた。
「ふんす!」
透は天羽乃斬の柄に手をかける。
砂漠の風が吹く。
砂煙が広がる。
黒い群れが近づいてくる。
ラザール北門に。
戦いの時が迫っていた。




