第二話 神代神社
翌朝。
神代透は、まだ朝の空気が冷たいうちに目を覚ました。
時刻は午前五時。
窓の外では、山の木々が薄い朝靄の中に沈んでいる。
都会の朝とは違う。
車の音も、人の声もほとんどない。
聞こえるのは鳥の声と、風に揺れる木々のざわめきだけだった。
透は布団から起き上がり、軽く伸びをする。
昨夜のことが、ふと頭をよぎった。
『見つけた』
あの声。
男とも女とも分からない、不思議な声。
夢だったのか。
それとも、ただの気のせいだったのか。
透はしばらく考えたが、答えは出なかった。
「……疲れてたのかな」
小さく呟き、寝間着から作務衣へ着替える。
今日もいつも通り、朝の掃除から一日が始まる。
◇◇◇
神代神社の朝は早い。
石段を上がった先にある鳥居。
その奥に拝殿。
横には社務所。
さらに裏手には、道場と小さな弓場がある。
規模としては決して大きくない。
参拝客で賑わうような有名な神社でもない。
だが、山そのものが神域であるかのように、境内には不思議な静けさがあった。
透は竹箒を手に取り、境内を掃き始める。
落ち葉を集める音が、朝の空気に静かに響いた。
「ふぁぁ……」
その時、眠たげな声が聞こえた。
振り返ると、真白が目をこすりながら立っていた。
白髪に狐耳。
巫女装束。
そして大きな白い尻尾。
どう見ても普通の少女ではない。
「真白。まだ寝ててもいいんだぞ」
「とおるんがいないと、つまらないのじゃ」
「そうか」
「そうじゃ」
真白は当然のように胸を張った。
透は苦笑する。
「でも、掃除の邪魔はするなよ」
「真白も手伝うのじゃ」
「本当に?」
「うん!」
そう言って真白は、透の隣で小さな箒を持った。
だが三分も経たないうちに、落ち葉の山へ飛び込んだ。
「真白」
「む?」
「手伝うんじゃなかったのか?」
「落ち葉がふかふかだったのじゃ」
「掃除が増えたな」
「ごめんなのじゃ」
口では謝っているが、尻尾は楽しそうに揺れていた。
透は軽くため息をつきながらも、怒る気にはなれなかった。
真白は昔からこうだ。
自由で。
食いしん坊で。
甘えん坊で。
そして、いつも家の中を明るくする。
◇◇◇
真白が神代家へ来たのは、十年前のことだった。
結衣と明日華が五歳の七五三を迎えた年。
神代家では、親族だけの小さな祝いを済ませた後、近くの稲荷社へ参拝に行った。
その時だった。
「お母さん、狐さんがいる!」
最初に気付いたのは結衣だった。
稲荷社の脇。
小さな草むらの中で、泥だらけの子狐が丸くなっていた。
体は小さく、毛並みも汚れている。
呼吸も弱々しかった。
「かわいそう……」
結衣は迷わず、その子狐を抱き上げた。
美琴は一瞬驚いたが、すぐにその子狐が普通の狐ではないことに気付いた。
わずかに霊気をまとっていたからだ。
だが、それを幼い結衣に説明しても分からない。
「連れて帰ってもいい?」
結衣は真剣な顔でそう言った。
腕の中の子狐を、ぎゅっと抱きしめながら。
美琴は少しだけ困ったように笑った。
「ちゃんとお世話できる?」
「する!」
「途中で飽きたりしない?」
「しない!」
「それなら、帰って綺麗にしてあげましょう」
その日の夕方。
神代家の風呂場では、ちょっとした騒動が起きていた。
「きゃー! 逃げた!」
「結衣、押さえて!」
「ぬるぬるする!」
子狐は小さい体で必死に逃げた。
結衣は泡まみれになりながら追いかけた。
美琴は笑いを堪えながら、優しく毛についた泥を落としていく。
そして汚れが落ちた時。
結衣は目を丸くした。
「まっしろ!」
そこにいたのは、雪のように白い子狐だった。
その一言が名前になった。
真白。
それが、神代家の末娘の名である。
名を得たことで、真白は結衣と強く結ばれた。
やがて人の言葉を理解するようになり、神代家の人間に懐き、境内を駆け回るようになった。
そして五年後。
突然、人の姿を取った。
朝食の席に、狐耳と尻尾を生やした白髪の少女が当然のように座っていた時の家族の驚きは、今でも語り草になっている。
「油揚げが食べたいのじゃ」
真白が初めて人の姿で口にした言葉は、それだった。
結衣は泣いた。
明日華は目を丸くした。
隆志は箸を落とした。
美琴は額に手を当てた。
宗玄だけが、大笑いしていた。
◇◇◇
「何を思い出し笑いしておるのじゃ?」
現在。
落ち葉の上に座り込んだ真白が、透を見上げていた。
「真白が初めて人化した日のこと」
「むっ」
真白の頬が少し赤くなる。
「あれは仕方なかったのじゃ。腹が減っておったのじゃ」
「朝食に普通に混ざってたよな」
「家族じゃからな!」
その言葉に、透は少しだけ目を細めた。
「そうだな」
真白は家族だ。
それは神代家の誰もが当然のように思っている。
たとえ普通の人間には見えなくても。
霊獣であっても。
真白は、神代家の大事な末娘だった。
◇◇◇
朝の掃除を終える頃、石段の下から人の気配がした。
近所の老夫婦だった。
毎月一度、必ず参拝に来る二人である。
「おはようございます」
透が軽く頭を下げる。
「ああ、透くん。今日も早いねえ」
「おはようございますなのじゃ!」
真白も元気よく挨拶した。
だが老夫婦は真白を見ることなく、透だけに微笑んだ。
「いつも綺麗にしていて偉いねえ」
「いえ、日課ですから」
真白は頬を膨らませる。
「むぅ。わしも挨拶したのに」
「普通の人には見えないからな」
「失礼な話じゃ」
「仕方ないだろ」
真白は不満そうに尻尾を揺らした。
神代家の者には真白が見える。
声も聞こえる。
だが一般の参拝客には、ほとんどの場合見えない。
時折、幼い子供が気付くことはある。
だが成長するにつれ、それも次第に消えていく。
この世には、人の目に映るものだけが存在しているわけではない。
神代家では、それが当たり前だった。
◇◇◇
朝食を済ませた後、透は社務所の手伝いをした。
御守りの整理。
参拝客への対応。
拝殿の確認。
神棚への水替え。
休日ではないため人は多くないが、それでもぽつりぽつりと参拝客は訪れる。
神代神社は有名な神社ではない。
観光地でもない。
だが、不思議と参拝客が途切れることはなかった。
願掛けというよりも、何かに呼ばれるように訪れる者がいる。
そう隆志は言っていた。
「ここは、必要な者が辿り着く場所なんだよ」
父はよく、そんなことを言う。
透にはまだ、その意味は分からない。
だが境内に立っていると、時折思うことがある。
この社は、ただ古いだけではない。
何かを待っている。
そんな気がするのだ。
◇◇◇
午後になると、明日華が弓場に立っていた。
白い弓道着。
静かな横顔。
黒髪が風に揺れている。
的を見据えるその姿は、中学生とは思えないほど落ち着いていた。
透は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
明日華の右肩には、蒼姫が止まっている。
蒼く輝く羽を持つ八咫烏。
普段は小さな鳥の姿をしているが、その存在感はただの鳥とはまるで違う。
『呼吸が浅いですよ、明日華』
「はい」
蒼姫の声は、明日華の心へ直接届いている。
明日華は静かに息を整えた。
弓を引く。
弦が軋む。
空気が張り詰める。
そして。
放つ。
矢は真っ直ぐに飛び、的の中心近くへ突き刺さった。
「良い射です」
美琴が穏やかに言った。
「ありがとうございます、母さま」
明日華は静かに頭を下げる。
その所作は、結衣とはまるで違う。
結衣が太陽なら、明日華は月だ。
賑やかな姉と、静かな妹。
双子でありながら、二人は驚くほど対照的だった。
◇◇◇
蒼姫が明日華の前に現れたのも、十年前の七五三の日だった。
真白が稲荷社で見つかった、その少し前。
神代神社の山門の上に、一羽の鳥が止まっていた。
その鳥は止まっていたのではない。
ずっと昔から、そこに在ったように見えた。
誰も気付かなかった。
隆志も、美琴も、宗玄も。
だが明日華だけが、その鳥を見上げていた。
蒼く輝く羽。
深い知性を宿した瞳。
普通の鳥ではない。
幼い明日華は、それを直感で理解していた。
「きれい……」
小さく呟く。
すると鳥は、ゆっくりと翼を広げた。
音もなく舞い降り、明日華の右肩に止まる。
重さはほとんど感じなかった。
けれど、温かかった。
『あなたは、私が見えるのですね』
声が聞こえた。
驚きはあった。
だが明日華は泣かなかった。
逃げもしなかった。
「はい」
『怖くはありませんか』
「怖くありません」
『なぜです』
「きれいだから」
鳥はしばらく黙っていた。
やがて、静かに目を細める。
『名をいただけますか』
「名前?」
『はい。あなたが呼ぶ名を』
明日華は少し考えた。
青ではない。
水色でもない。
その羽は、もっと深く、もっと澄んだ色をしていた。
「蒼姫」
『蒼姫』
「あなたの名前です」
その瞬間、蒼い羽が淡く光った。
明日華と蒼姫の間に、見えない糸のようなものが結ばれる。
それ以来、蒼姫は明日華の守護霊獣として傍にいる。
真白が結衣に拾われたのなら、蒼姫は明日華を選んだ。
同じ七五三の日。
神代家の双子は、それぞれに人ならざる伴侶と出会ったのだ。
◇◇◇
「真白は結衣が拾った。蒼姫は明日華を選んだ」
透が呟くと、蒼姫が肩越しにこちらを見た。
『正確には、私も見つけたのです』
「見つけた?」
『はい。明日華を』
その言葉に、透は昨夜の声を思い出した。
『見つけた』
胸の奥が、わずかにざわつく。
「……どうかしましたか、あにさま?」
明日華が弓を下ろして振り返った。
「いや、何でもない」
「そうですか」
明日華はそれ以上聞かなかった。
だが蒼姫だけは、透をじっと見ていた。
何かを見透かすような目だった。
◇◇◇
夕方。
透は再び道場へ向かった。
宗玄は今日も、板の間の中央に座していた。
正座した姿だけで、空気が引き締まる。
「来たか」
「はい」
「昨日より顔が硬いな」
透はわずかに目を伏せる。
「そう見えますか」
「見える」
宗玄は短く言った。
「何かあったか」
透は一瞬迷った。
昨夜の声。
蒼姫の言葉。
見つけた。
偶然にしては、妙に耳に残る。
「昨日、本殿で声を聞いた気がしました」
「声?」
「はい。『見つけた』と」
宗玄の表情が、ほんのわずかに変わった。
だがすぐにいつもの顔へ戻る。
「そうか」
「何か心当たりがあるんですか」
「あると言えばある。ないと言えばない」
「どっちですか」
「分からぬ、ということじゃ」
宗玄は静かに立ち上がった。
「透」
「はい」
「この神代神社は、ただの社ではない」
その声は低かった。
「古くから、この地に役目を持って存在しておる。本殿の御神刀――天羽乃斬も、ただの刀ではない」
「役目……」
「いずれ話す時が来る」
宗玄は木刀を手に取る。
「迷いは剣を鈍らせる。だが、迷いを知らぬ者に本当の剣は振れぬ」
「はい」
「構えよ」
透も木刀を手に取った。
礼。
構え。
そして稽古が始まる。
宗玄の剣は重い。
速さだけではない。
一撃一撃に、年輪のような厚みがある。
透はその剣を受けながら、昨夜の声を振り払うように動いた。
木刀がぶつかる。
足が床を打つ。
呼吸が重なる。
迷いは、少しずつ消えていった。
◇◇◇
夜。
夕食を終えた透は、一人で本殿へ向かった。
昨日と同じように、御神体の前へ座る。
目を閉じる。
一日の感謝を捧げ、心を静める。
静寂。
虫の声。
夜風。
そして。
微かな気配。
透はゆっくりと目を開いた。
拝殿の奥。
御神体として祀られた天羽乃斬。
その刀が、一瞬だけ青白く光った。
「……今のは」
声はない。
誰もいない。
風も止んでいる。
だが確かに、刀は光った。
透は立ち上がり、しばらく天羽乃斬を見つめた。
昨夜の声。
蒼姫の言葉。
宗玄の表情。
そして、今の光。
偶然ではない。
何かが始まっている。
透はそう感じていた。
だがまだ、その正体を知ることはできなかった。
神代神社の夜は静かに更けていく。
山の奥で、風が鳴った。
まるで遠いどこかから、誰るかが呼んでいるかのように。




