第一話 神代家
授業終了のチャイムが鳴り響いた。
六月の午後。
東京都西多摩にある奥多摩・西西陵高校では、生徒たちが一斉に教室を飛び出してい
く。六時間目は体育だった。
校庭の端で汗を拭いていた神代透は、ペットボトルの水を一口飲んだ。
「なあ神代」
声を掛けてきたのは同じクラスの友人だった。
「なんだ?」
「お前、絶対手を抜いてるだろ」
透は首を傾げた。
「そうかな?」
「そうかなじゃねえよ。百メートル走もバスケも全部中途半端だろ」
「そんなことないと思うけど」
「いや絶対ある」
別の友人も話に加わる。
「マラソン大会でもそうだったしな」
「最後まで普通に走ったよ」
「最後だけな」
「そうそう。途中まで明らかに流してただろ」
透は苦笑した。
別に手を抜いているつもりはない。ただ勝負事にあまり興味がないだけだ。
全力で走ればもっと速い。だが、それをする理由もなかった。
友人たちは呆れたように肩をすくめる。
「まあいいや。神代、今日カラオケ行こうぜ」
「悪い。帰る」
「またかよ」
「家の手伝いがあるから」
「神代って、本当に真面目だな」
「そうかな?」
「そうだよ」
透は曖昧に笑った。
放課後に遊ぶことが悪いとは思わない。
だが自分にはやるべきことがある。
神代透は西奥多摩の平山にある、歴史はあるがあまり大きくない神代神社の宮司、
神代隆志の長男である。
神代家は神社を守る家系だった
透はこの社の清掃を日課としており、天剣無限流という刀剣武術の宗家である
神代宗玄と修練の日々を送っているのである。
◇◇◇
学校を出た透は自転車に乗った。
成績優秀なため都内の進学校を受験する選択肢もあった。
だが透は奥多摩西西陵高校を選んだ。
理由は単純だ。自転車で通えるから。
神代神社から最寄り駅までは遠い。ゆえに自転車で通える範囲に収まる高校、
それが決め手だった。
だが行きは楽だが、帰りは、坂道。山道。ひたすら上り坂。
運動神経抜群の透でも慣れているとはいえ楽ではない。
必死に漕いでも、神社へ辿り着くまで一時間近く掛かる。
◇◇◇
山の緑が濃くなる。聞こえるのは風と鳥の声だけ。
やがて見慣れた石段と鳥居が姿を現した。ふっと息をついた。
「ただいま」
そう呟いた瞬間だった。
「とおるーん!」
ぱたぱたぱたぱた。
白い影が猛烈な勢いで駆けてくる。
次の瞬間。
透の胸へ飛び込んできた。
「おっと」
自転車に跨ったまま抱き留める。
白髪。
狐耳。
巫女装束。
十歳ほどの少女。
「おかえりなのじゃ!」
「ただいま、真白」
真白は満面の笑みだった。
尻尾もぶんぶん振れている。
しか~し。
「待てぇぇぇぇぇ!」
山門の向こうから怒声が響いた。
真白の顔が引きつる。
「む?」
勢いよく駆けてきたのは義妹の結衣だった。
茶色のショートヘアを揺らしながら全力疾走で向かって来ている。
「真白っ!」
「な、なんじゃ?」
「なんじゃじゃない!」
真白は素早く透の背後へ隠れた。透は何となく状況を察する。
「また何かしたのか?」
「聞いてよ、おにぃ!」
結衣が頬を膨らませる。
「冷蔵庫に入れといたプリン!」
「ああ」
「食べられた!」
「うむ!」
真白が胸を張った。
「威張るなー!」
結衣の怒鳴り声が響く。透は思わず吹き出しそうになった。
「真白」
「なんじゃ」
「勝手に食べたら駄目だろ」
「食べて欲しそうだったのじゃ」
「そんなわけあるか!」
結衣は完全に怒っている。
「まぁまぁ、俺の分を食べていいから」
結衣は透を見つめる。
そして真白を見る。
真白は透の後ろから少しだけ顔を出していた。
「……おにぃは真白に甘すぎ」
「そうかな?」
「そうだよ」
透は苦笑するしかなかった。
◇◇◇
「お帰りなさい、透さん」
優しい声が聞こえた。振り返ると美琴が立っていた。
神代家の養母。
袴姿の上に割烹着を着ている。
「ただいま母さん」
「汗だくですね」
「はい」
「まずは汗を流してきなさい」
「はいシャワー浴びてきます」
「真白も結衣も追いかけっこは終わりです」
「はーい」
「むぅ」
二人は素直に返事をした。美琴の言うことはちゃんと聞く。
神代家の共通認識だった。
◇◇◇
風呂を終えた透は白い稽古着へ着替えた。
神代神社の裏手。木造の小さな道場。
礼をして引き戸を潜ると、板の間の中央に一人の老人が正座していた。
神代宗玄。齢七十七歳。
天剣無限流十八代宗主。
この老人が透の祖父であり、剣の師匠だった。
「遅くありませんでしたか」
「まだ五分前じゃ」
宗玄は笑った。
「座れ」
「はい」
二人は向かい合う。
静寂。
風の音だけが聞こえる。
神棚に向かって
「礼」「お願いします」
透が頭を下げる。
宗玄も応じる。
立ち上がり蹲踞から構えた次の瞬間。
空気が変わった。
先程までの穏やかな祖父ではない。
一人の剣士だった。
「参る」
宗玄が踏み込む。
速い。
高校生どころか一般人には見えない速度だった。
だが透の目には見えている。
だてに物心ついてから稽古を続けてきたわけではない。
シュッ・・空気を切り裂き、木刀が振り下ろされる。
透が動く。
最短。
最速。
カンッ・・ 乾いた音が響いた。
宗玄の木刀が逸らされる。
「ほう」
老人の口元が緩む。
「良い」
再び打ち込む。
透も応じる。
木刀と木刀が何度もぶつかり合う。
夕暮れの道場に激しい音が響き続けた。
◇◇◇
一時間後。
「ここまで」
宗玄の声が響く。
二人は木刀を下ろした。
汗が流れる。
息が上がる。
だが不思議と心地良かった。
「ありがとうございました」
「うむ」
二人は礼を交わした。
◇◇◇
再び風呂へ入り汗を流す。
廊下へ出ると弓を抱えた明日華と出会った。
もう一人の義妹である。
「あにさま」
「お疲れ」
明日華は静かに微笑んだ。
弓道着姿がよく似合う。
「今日も母さまに教わっていたのか?」
「はい」
神代家で弓を教えるのは美琴だった。
出雲大社系の社の巫女として育った彼女は、弓の腕も達人級である。
この社では神事として、年始に破魔の矢を鬼門に向かって放つのが慣習となってい
る。今年から明日華が、その役を担うことになっている。元気いっぱいの結衣と違
って、落ち着きのある明日華には向いているらしく、目を見張る上達ぶりだと母が
褒めていた。
『透様もお疲れ様です』
「蒼姫もな」
明日華の右肩に乗る八咫烏の蒼姫は軽く頭を下げた。
透は当たり前のように返事をした。
普通の人間なら驚く光景だが、この家では珍しくもない。
夜。
玄関から聞き慣れた音が聞こえる。
「ただいま」
神代隆志。神代家の家長であり、透の養父である。都心の中堅企業へ勤める会社員。
子供たち大好き、今でも熱々の愛妻家、温厚で怒ったところを見たことがない。
少しおっとりしているが、家長としての責任を立派に果たしている。
「おかえりなさい」
家族全員の声が重なる。
神代家では夕食は必ず全員で食べる。
それが家族の決まりだった。
真白も。
蒼姫も。
例外はない。食卓には笑い声が絶えない。
「おにぃ、聞いてよ。今日の体育の時間男子が、女子のことじろじろ見てたから、い
やらしい目で見るなって言ったの。そしたら、『神代のを見てるんじゃないから良い
じゃん』だって。あったまきた」
「それは災難だったね」
「何よ」
「結衣ねぇは成長期じゃからな」
「ぶぅー」
「ほらほら、結衣、お箸が止まっているわよ」
明日華は我関せず、蒼姫と何か喋っていた。
そんな光景を見て、隆志は笑っていた。
透は、この時間が好きだった。
何よりも。
◇◇◇
神代透は神代家の子供ではない。17年前鳥居の元に旧い絹の錦のおくるみに巻か
れて籐で編んだ籠に置かれていたのを宗玄が見つけ、この子を神代家へ向かい入れる
と宣言し息子夫婦へ養子縁組したのである。
息子夫婦も結婚したばかりであったが、
不満を漏らすことなく実子として育てることを誓った。
「透」それはその籐籠の中にあった、へその緒を入れた桐箱に書かれていた一文字が
謂れである。
◇◇◇
透は一人、本殿へ祈りをささげるため向かった。神代神社の御神体、
御神刀――天羽乃斬。(空想上の産物と言われているが真贋はともかく、
この社のご神体である)
透はその前へ正座する。
目を閉じる。一日の感謝の祈りを捧げ、心を研ぎ澄ます。
毎日欠かさない日課だった。
静寂。
虫の声。
夜風。
それだけが聞こえる。
その時だった。
『見つけた』
不意に声が聞こえた。
男とも女とも分からない。
どこか遠くから響くような声。
透は目を開いた。
「……?」
周囲には誰もいない。
気のせいか。
疲れているのかもしれない。そう思い、透は立ち上がった。
そして自室へ戻る。ベッドへ横になり目を閉じる。
すぐに眠気が訪れた。
透はまだ知らない。
その声が。その一言が。
自らの運命を大きく変えることを。
こうして神代家の一日が終わる。
この時の透はまだ知らない。
今日と同じ明日が来ると信じていた。
温かくて。
幸せな一日が。
だが運命は、すでに動き始めていた……




