プロローグ 祈り
鐘の音が響く。
澄み渡る空の下、その音は王都全体へ静かに広がっていった。
アストレア王国。
パンゲア極東に位置する人族の国。
オーガス山脈に守られたこの国は、長きにわたり平和を保ってきた。
しかし今、その平穏は揺らぎ始めていた。
王都の北に広がる神域。
そこには古代より受け継がれてきた大神殿が建っている。
白い石で造られた荘厳な建物は、数百年を経た今もなお威厳を失っていない。
王国の民は知らない。
この地が遥か昔、さらに古い神域の上に築かれたことを。
大神殿最奥。
神託の間。
巨大な水晶を中心に据えた円形の祭壇で、一人の少女が静かに祈りを捧げていた。
年の頃は十七歳ほど。
柔らかな金色の髪。
澄んだ青い瞳。
純白の法衣に身を包むその姿は、まるで絵画に描かれた聖女のようだった。
セリナ・アストレア。
アストレア王国第三王女。
そして神託を授かる聖女である。
祭壇を囲むように並ぶ神官たちは、誰一人として声を発しない。
神託の儀は神聖なものだ。
その結果ひとつで国の未来が左右されることもある。
静寂。
ただ静寂だけが広がる。
やがて――
祭壇中央の巨大な水晶が淡く輝き始めた。
神官たちが息を呑む。
光は徐々に強さを増し、神託の間全体を白く染め上げていく。
セリナは目を閉じたまま祈り続けた。
その瞬間だった。
意識が引き込まれる。
身体が浮くような感覚。
視界が白に染まる。
そして――見た。
燃え盛る炎。
崩れ落ちる城壁。
逃げ惑う人々。
倒れ伏す兵士たち。
血に染まる大地。
王都が燃えている。
アストレア王国が滅びようとしていた。
セリナは息を呑む。
だが、映像はそこで終わらない。
真の闇で覆われた、巨大なうねり。
言葉では表せないほど恐ろしい何か。
姿は見えない。
輪郭すら分からない。
だが理解できた。
それは災厄そのものだった。
存在するだけで世界を破滅へ導くモノ。
人の力では到底抗えない絶望。
全身が震える。
呼吸が苦しい。
叫び出したくなるほどの恐怖が心を支配する。
その時。
どこからともなく声が響いた。
『備えよ』
低く。
重く。
世界そのものが語りかけてくるような声。
『大いなる災いは王国を滅ぼす』
視界に映る未来がさらに鮮明になる。
炎。
崩れる城壁。
大地を覆いつくす黒い影。
無数の赤い光。
逃げ惑う人々。
そして死。
『時は近い』
次の瞬間。
光が弾けた。
セリナははっと息を吸い込み、その場に膝をついた。
額から汗が流れ落ちる。
荒い呼吸が止まらない。
神託の間には重苦しい沈黙が満ちていた。
神官たちも異変を察している。
誰も口を開けない。
セリナの表情を見れば十分だった。
神託は凶兆。
それも過去に例のないほどの大凶。
やがて大神官が恐る恐る尋ねた。
「聖女様……神託は」
セリナは震える手を胸に当てた。
思い出すだけで恐怖が蘇る。
だが、逃げるわけにはいかない。
王女として。
聖女として。
民を守らなければならない。
セリナはゆっくりと立ち上がった。
「王国に災いが訪れます」
神官たちの顔色が変わる。
「大いなる災いです」
声が震える。
それでも言葉を続けた。
「このままでは……王国は滅びます」
神託の間に衝撃が走った。
誰かが息を呑む音が聞こえる。
しかしセリナはそれ以上語らなかった。
語れなかった。
自分自身ですら、あの絶望の正体を理解できていないのだから。
儀式が終わり、人々が退出した後。
セリナは一人、祭壇の前に残った。
巨大な水晶を見上げる。
静まり返った神託の間。
誰もいない。
だからこそ、弱音を吐くことができた。
「どうすればいいのでしょう……」
返事はない。
神も答えない。
それでも彼女は両手を組み、再び祈った。
王女としてではなく。
一人の少女として。
心から願った。
「お願いです……」
震える声が静かな神殿に響く。
「どうか……」
「どうか、この世界を救う力をお与えください」
水晶が僅かに輝いた。
それは誰にも気づかれないほど小さな光だった。




