第二十二話 北へ
深淵の森での戦いから数日後。
透たちは再び旅路についていた。
目的地は北。
ミルドパンゲニア大地溝帯の向こう側。
かつてパンゲア連邦の文明が栄え、そして魔鋼虫によって滅びへ追いやられた土地である。
今回の旅は討伐ではない。
北に残る人族の生存圏を探し、魔鋼虫の脅威を伝えること。
そして、可能ならば共闘を呼び掛けること。
アストレア王国だけでは勝てない。
深淵の森だけでも勝てない。
ならば、まだ生きている者たちを探さなければならない。
それが今回の北方調査隊の目的だった。
◇◇◇
ミルドパンゲニア大地溝帯は、想像を超える巨大な地形だった。
地平線の彼方まで続く、大地の裂け目。
幅はおよそ百キロ。
深さは二百メートルほど。
切り立った崖が延々と続き、底には鬱蒼とした緑が広がっている。
透たちは騎獣に乗り、地溝帯の縁を進んでいた。
崖下を覗き込んだガルドが、低く口笛を吹く。
「こいつはまた、派手に裂けてやがるな」
セシリアも崖の下へ目を向ける。
「この高さでは、騎獣で降りるのは無理ですね」
「普通に考えればな」
ガルドは腕を組む。
「だが魔鋼虫は南へ来た。なら、どこかに降りられる場所があるはずだ」
ノーノー・デプリが頷いた。
「その通りじゃ」
金猿族の老賢者は、地面に残るわずかな痕跡を見つめていた。
「群れが移動したなら、必ず道が残る。地形が崩れた場所か、古い道か、あるいは魔鋼虫どもが踏み固めた経路か」
「それを探すわけですね」
透が言う。
「うむ」
ノーノーは短く答える。
「大地溝帯を越えねば、北の状況は分からんからのう」
こうして一行は、地溝帯沿いを進み始めた。
◇◇◇
数日後。
偵察に出ていたリリアが戻ってきた。
「見つけた!」
小さなフェアリーが、透の前で両手を大きく振る。
「足跡! たくさん!」
全員がすぐに移動した。
案内された先には、確かに大量の痕跡が残されていた。
地面を削った無数の爪痕。
黒鉄の脚が踏み固めたような道。
崖の一部が崩れ、斜面となっている。
そこから地溝帯の底へ続いていた。
「ここだな」
オーギュストが低く言う。
「魔鋼虫が通った道だ」
透は崖下を見た。
鬱蒼とした緑。
湿った空気。
太陽の光が届きにくい深い谷。
あそこを越えた先に、北の大地がある。
「行きましょう」
透の言葉に、皆が頷いた。
◇◇◇
慎重に斜面を下る。
騎獣たちも足元を確かめるように進んでいく。
やがて一行は、大地溝帯の底へ降り立った。
そこは別世界だった。
蒸し暑い。
湿った空気が肌にまとわりつく。
巨大な樹木が立ち並び、蔦が絡み合い、視界を遮っている。
地上から見えた緑は、まさに密林だった。
だが。
「静かですね」
リーファが呟いた。
その声には不安が混じっている。
本来なら、ここは生き物に満ちているはずだった。
大型の鳥。
魔獣。
草食獣。
水辺に集まる獣たち。
魔素の濃い地溝帯は、かつて魔核を持つ生物たちの楽園だったのだろう。
しかし今は違う。
鳥の声はない。
獣の気配もない。
草むらを揺らす小さな音すらない。
木々の多くは枯れかけていた。
葉は色を失い、幹には傷が刻まれている。
透は周囲を見回した。
「生き物が、いない……」
ノーノーが険しい顔で頷く。
「魔鋼虫の移動中に捕食されたのじゃろう」
「魔鋼虫に、ですか」
「おそらくな」
ノーノーは足元の土を掬い上げる。
「魔素は濃い。地形のせいか、ここには魔素が溜まりやすいようじゃ」
セシリアも目を閉じ、周囲の魔素を感じ取る。
「確かに濃いです。身体が軽い」
セリナも頷いた。
「私も、不思議と疲れを感じません」
リーファも驚いたように自分の手を見る。
「魔力が満ちていくようです」
魔核を持つ者たちにとって、地溝帯の底は力を回復させる場所でもあった。
ただ一人。
透だけは何も変わらない。
ガルドが笑う。
「トオルだけ相変わらずだな」
「僕にはよく分かりません」
「本当に変な奴だ」
「よく言われます」
透は苦笑した。
◇◇◇
地溝帯を進んで四日目。
一行は川辺で野営することになった。
地溝帯に降りてから初めて、全員の表情にわずかな安堵が戻った。
林の中を、澄んだ川が流れていた。
水は驚くほど透明で、川底の石まで見える。
小さな魚の影がいくつも走っていた。
「魚はいるんですね」
透が呟く。
リリアが嬉しそうに川面を飛ぶ。
「お魚! お魚いる!」
「これで飯にありつけるな」
ガルドが腕を鳴らす。
騎士たちも慣れた手つきで網や槍を準備し始めた。
久しぶりのまともな食料補給だった。
保存食ばかりでは士気も落ちる。
川魚はすぐに捕らえられ、焚き火のそばで焼かれた。
香ばしい匂いが漂う。
騎獣たちも水を飲み、身体を休めている。
深淵の森から続いた緊張の中で、ようやく訪れた短い休息だった。
「女性陣は上流を使わせてもらいます」
セシリアが淡々と言った。
「水浴びですか?」
透が思わず聞く。
「当然です」
セシリアは当然のように頷いた。
セリナは少し頬を赤くし、リーファは静かに目を逸らした。
女性騎士たちも既に準備を始めている。
ガルドが透の肩に腕を回した。
「トオル」
「はい」
「分かってるな?」
「行きませんよ」
「よし」
ガルドは真顔で頷く。
「俺も行かねぇ」
「当たり前です」
近くにいた騎士が即座に言った。
そのやり取りに、周囲から小さな笑いが起きる。
戦い続きだった一行にとって、久しぶりの穏やかな時間だった。
リリアは水浴び組について行き、川面の上を楽しそうに飛び回っている。
「冷たい!」
「気持ちいい!」
その声が遠くから聞こえてきた。
透は焚き火の前に座り、焼き魚を見つめる。
ふと、神代家のことを思い出した。
結衣なら真っ先に川へ飛び込んだだろう。
明日華は少し呆れながらも、結局付き合うに違いない。
真白は油揚げがないと文句を言いながら、魚も喜んで食べそうだ。
蒼姫はきっと、明日華の肩で静かに見守っている。
「……みんな、元気かな」
小さな呟きは、焚き火の音に紛れた。
◇◇◇
翌朝。
ノーノーが透を呼び出した。
「少し付き合え」
「調査ですか?」
「そうじゃ」
老賢者は杖を片手に、密林の奥へ歩き出す。
透もその後を追った。
野営地から少し離れると、再び異様な静寂に包まれる。
枯れかけた木々。
苔むした岩。
古い獣道。
しかし生き物の気配はほとんどない。
ノーノーは木の幹に刻まれた痕跡を見つめていた。
「爪痕じゃな」
「魔鋼虫の?」
「うむ。かなり古いものもある。ここは長く奴らの狩場じゃったのだろう」
透は周囲を見渡した。
森なのに、何かが足りない。
地球の森なら、もっと細かな音があった。
葉の裏。
土の中。
木の幹。
どこにでも小さな命がいた。
だが、この世界にはそれがない。
「ノーノーさん」
「なんじゃ?」
「この世界には、虫がいないんですか?」
ノーノーが足を止めた。
「むし?」
聞き慣れない言葉を繰り返す。
「なんじゃ、それは」
透は少し戸惑った。
「小さい生き物です」
「小さい生き物ならいくらでもおるぞい」
「そうじゃなくて……」
透は言葉を探す。
「羽があったり」
「足が六本あったり」
「花に集まったり」
「土の中に巣を作ったり」
「夜になると鳴いたりするような……」
ノーノーはますます不思議そうな顔になった。
「足が六本?」
「はい」
「そんな生き物は聞いたことがないのう」
「え?」
「少なくとも、わしは見たことがない」
ノーノーは顎に手を当てる。
「古文書にも、そのような生物の記録はなかったはずじゃ」
透は言葉を失った。
虫がいない。
この世界には、昆虫が存在しない。
考えてみれば、これまで一度も見ていない。
蝶も。
蜂も。
蟻も。
蚊も。
蝉も。
夜に鳴く虫の声もない。
地球では当たり前だった命の気配が、この世界にはなかった。
「不思議ですね」
透が呟く。
ノーノーは小さく頷く。
「この世界の生き物には偏りがある」
「竜はおる」
「精霊もおる」
「妖精もおる」
「魔獣もおる」
「じゃが、お主の言う虫というものは存在せんようじゃな」
透は足元を見る。
そこには巨大な魔鋼虫の足跡が残っていた。
黒鉄の脚が踏み抜いた跡。
複数の脚が地面を抉った痕。
透はそれをじっと見つめる。
虫がいない世界。
その世界に現れた、虫に似た災厄。
その違和感を、透はまだ言葉にできなかった。
ノーノーもまた、黙って足跡を見つめていた。
風が密林を揺らす。
だが、そこに虫の羽音はなかった。
◇◇◇
一行は再び地溝帯を進んだ。
魔鋼虫の足跡は途切れない。
湿った土に刻まれた爪痕。
折れた木々。
剥がされた樹皮。
それらを辿りながら、透たちは北を目指した。
地溝帯を抜けるまで、およそ一週間を要した。
そしてついに、北側の崖へ到達する。
斜面を登り切った先で、一行は足を止めた。
そこに広がっていたのは、荒れ果てた大地だった。
灰色の荒野。
枯れた森。
崩れた石造りの建物。
遠くには古い塔の残骸が見える。
かつて文明があった場所。
だが今は、風だけが吹き抜けている。
「これが……北……」
リーファが呟いた。
誰もすぐには答えられなかった。
◇◇◇
透たちは地溝帯沿いを東へ進むことにした。
理由は単純だった。
新しい足跡を見つけたからだ。
小規模な魔鋼虫の群れ。
数日前のものと思われる痕跡。
「追う価値はある」
オーギュストが言った。
「生存者がいる可能性もある」
透も頷いた。
「行きましょう」
北の大地を進む。
空は広い。
だが星も月もないこの世界の空は、どこか空虚だった。
荒野を越え、枯れた林を抜け、さらに数日。
リリアが前方を指差した。
「あれ!」
遠くに城壁が見えた。
中規模の城塞都市。
ところどころから煙が上がっている。
透たちは騎獣を止めた。
「リリア」
透が言う。
「偵察を頼める?」
「うん」
リリアの顔は緊張していた。
フェアリー特有の認識疎外の魔法が発動する。
小さな身体が薄れ、風景に溶けるように見えなくなった。
そのまま城塞都市へ向かって飛んでいく。
◇◇◇
一時間ほどして、リリアは戻ってきた。
顔色は青ざめていた。
「ひどい……」
震える声だった。
セリナがそっと近づく。
「リリア、大丈夫ですか?」
リリアは小さく頷いた。
だが目には涙が浮かんでいる。
「城門が壊されてた」
「中も……」
言葉が詰まる。
「たくさん死んでる」
全員の表情が固くなった。
「王城みたいな建物はなかった」
「ほとんど石造りの平屋だった」
「でも、奥に大きな建物があって……そこに魔鋼虫が集まってた」
「数は?」
オーギュストが問う。
「数十匹くらい」
リリアは答えた。
「大きな指令獣みたいなのはいなかったと思う」
「でも、まだ動いてる」
「周りの魔素が薄くなってた」
セシリアの表情が険しくなる。
「大量に魔法が使われた後ですね」
「最後まで抵抗したのでしょう」
重い沈黙が流れた。
◇◇◇
一行は慎重に城塞都市へ向かった。
城門は破壊されていた。
石造りの門扉は砕け、周囲には戦闘の跡が残っている。
壁には魔法の焦げ跡。
地面には無数の爪痕。
そして。
街道には、無数の亡骸が横たわっていた。
兵士。
住民。
老人。
若者。
老若男女の区別なく、そこに倒れていた。
多くの胸部は抉られている。
魔核が喰われた痕だった。
生きていたのか。
死んでいたのか。
そんなことは魔鋼虫には関係なかったのだろう。
魔核を喰らい尽くすまで離れない。
それが魔鋼虫という災厄だった。
気の弱い若い騎士が一人、顔を青ざめさせて口元を押さえた。
別の騎士が肩を支える。
「見るな」
オーギュストが静かに言った。
「だが忘れるな」
セリナは騎獣の上で目を閉じた。
祈りの姿勢を取る。
「どうか……」
声は小さい。
だが、深い悲しみが込められていた。
「安らかにお眠りください」
透は何も言えなかった。
ただ刀の柄を握る。
怒りではない。
恐怖でもない。
もっと重いものが胸に沈んでいく。
これが北の現実。
これが魔鋼虫との戦い。
これが、人族が直面している生存競争なのだ。
◇◇◇
透たちは都市の奥へ進んだ。
石造りの平屋が並ぶ街並み。
その多くは破壊され、扉は開け放たれ、内部には生活の痕跡が残っている。
逃げる間もなかったのだろう。
やがて、リリアが言っていた大きな建物が見えてきた。
周囲には数十匹の魔鋼虫。
大型指令獣はいない。
だが、何かに群がるように建物の入口付近へ集まっている。
透たちはまだ知らない。
その建物の地下深く。
崩壊しかけた研究施設の中で。
数十人の生存者が息を潜めていることを。
研究者。
技術者。
警備兵。
老人。
女性。
子供。
限られた食料。
限られた水。
絶望的な状況。
それでも彼らは生きていた。
救いが来ることを信じて。
そしてその中には。
周囲数十キロに存在する魔鋼虫を感知できる少女がいた。
後にパンゲア全土の命運を左右することになる少女。
彼女との出会いが。
透たちの旅を大きく変えることになる。




