第十八話 深淵の森へ
深淵の森から救援要請が届いた、その翌朝。
王都アストレアの東門前には、少数の部隊が集められていた。
大軍ではない。
総勢はおよそ三十名。
神代透。
聖女セリナ・アストレア。
A級冒険者ガルド。
大魔法使いセシリア。
大賢者ノーノー・デプリ。
そして騎士団から選抜された精鋭たち。
支援魔法師。
治癒魔法師。
いずれも王国の中でも選りすぐりの者たちだった。
本来ならば、王国として大規模な救援軍を送るべき事態である。
だが、深淵の森は大軍の進軍に向いていない。
鬱蒼とした巨木の森。
複雑に絡み合う根。
見通しの悪い地形。
騎士団を数百、数千と送り込んでも、森の中ではかえって足手まといになる。
必要なのは速度。
そして少数で状況に対応できる力だった。
案内役は、深淵の森から命からがら逃れてきたフェアリー。
名をリリアという。
小さな妖精はセリナの傍らに浮かんでいた。
傷ついた羽には治癒魔法が施されている。
しかしその表情に明るさはない。
故郷が今も襲われているのだ。
無理もなかった。
「リリア」
透が声を掛ける。
「森までの道案内、頼める?」
リリアは小さく頷いた。
「うん……。お願い、みんなを助けて」
「必ず」
透の返答に、リリアは少しだけ目を潤ませた。
騎獣が用意される。
長距離を駆けるための大型の二足騎獣。
王国でも数の限られた機動力だ。
深淵の森までは遠い。
時間との勝負だった。
騎士団長オーギュストは今回、王都防衛と後続部隊の編成のために王都へ残る。
代わりに、選抜された騎士の隊長が救援隊を率いることになっていた。
出発直前、オーギュストは透に歩み寄る。
「神代殿」
「はい」
「森の中では大規模な支援は期待できん。状況判断は現地に任せる」
透は静かに頷いた。
「分かりました」
「無理はするな、と言いたいところだが」
オーギュストは苦く笑う。
「君にそう言っても無駄なのだろうな」
透は困ったように笑った。
「できる範囲で、何とかします」
「それが一番恐ろしいのだがな」
ガルドが横から豪快に笑った。
「心配すんな、団長殿。無茶しそうになったら俺が殴ってでも止める」
「その時は頼む」
「任された」
そのやり取りに、わずかに空気が和らぐ。
だが緊張が消えることはなかった。
相手は魔鋼虫。
災厄そのものなのだから。
「出発!」
号令と共に、救援隊は王都を発った。
◇◇◇
騎獣の脚は速い。
それでも一行は途中で何度か休息を挟まねばならなかった。
支援魔法師たちが騎獣の疲労を和らげ、治癒魔法師が負傷者の状態を確認する。
リリアは道中、ほとんど口を開かなかった。
時折、南西の空を見つめる。
その小さな手はずっと握り締められていた。
透はその様子を見て、何度も声を掛けようとした。
しかし言葉が見つからない。
故郷が襲われている者に、軽い慰めなど言えるはずがなかった。
代わりに、ただ前を見る。
今は急ぐしかない。
◇◇◇
やがて一行はグランドワイズ関門へ到着した。
そこはまだ、戦いの傷跡を色濃く残していた。
砕けた防壁。
焦げた石畳。
修復途中の城門。
地面には、巨大な爪痕のような亀裂がいくつも刻まれている。
あの日。
災厄の群れが押し寄せた場所。
多くの兵士が命を落とし、透たちが必死に守り抜いた場所。
関門の兵士たちは救援隊の姿を見ると、すぐに道を開けた。
「ご武運を!」
「深淵の森を頼みます!」
声が飛ぶ。
透は騎獣の上から頭を下げた。
セリナは胸の前で手を組み、短く祈りを捧げる。
ガルドは片手を上げた。
「戻ったら飯でも奢れよ!」
兵士たちから笑い声が起こる。
それは少しだけ、戦場へ向かう者たちの背を押した。
救援隊はグランドワイズ関門を抜けた。
進路は南西。
深淵の森。
エルフとフェアリーが共に暮らす、古き森である。
◇◇◇
深淵の森には、およそ二千人のエルフが暮らしている。
フェアリーはさらに少なく、五百人ほど。
種族としての寿命は長い。
だがその分、子は生まれにくい。
人族の都市とは違い、森に暮らす者の数は決して多くない。
しかし、エルフは人族よりも魔法に長け、体内に宿る魔核も大きい。
フェアリーもまた、小さな身体に高純度の魔力を宿す。
深淵の森は魔獣の宝庫でもある。
魔核を持つ獣たち。
古木に宿る精霊。
魔素の濃い泉。
魔鋼虫から見れば、そこは良質な魔核が集まる狩場に等しい。
ノーノーは騎獣に揺られながら、険しい表情で地図を眺めていた。
「やはり数は多くないはずじゃ」
隣を進むセシリアが顔を向ける。
「アストレアを襲った群れほどではない、ということですか?」
「うむ」
ノーノーは頷く。
「アストレア王都と深淵の森では、捕食対象の数が違いすぎる。エルフの魔核が大きいとはいえ、全体として見れば王都とは比べものにならん」
「では、なぜ襲われたのでしょう」
「見つかったのじゃ」
ノーノーは短く言った。
「見つかった?」
「そうじゃ。魔鋼虫は知恵を巡らせて森を選んだのではない。良質な魔核の集団を、飛行種が見つけた。ただそれだけじゃろう」
透は黙って聞いていた。
ただそれだけ。
その言葉が妙に重かった。
悪意があるわけではない。
恨みがあるわけでもない。
ただ餌を見つけた。
だから襲う。
だから喰らう。
魔鋼虫の恐ろしさは、そこにあるのかもしれなかった。
「ミルドパンゲニア大地溝帯が変わったのかもしれん」
ノーノーが呟く。
「大地溝帯が?」
セリナが問う。
「長い間、あの地溝帯は北の魔鋼虫を閉じ込める蓋のような役割を果たしておった。同時に、やつらにとっては魔獣の楽園でもあった」
ノーノーは地図上の巨大な裂け目を指でなぞる。
「魔核を持つ魔獣が多く棲み、狩場としては申し分ない。だからこそ、魔鋼虫は長い間、無理に南へ広がる必要がなかったのじゃろう」
「それが今、変わった」
セシリアの声が低くなる。
「そう考えるべきじゃな」
ノーノーは重く頷いた。
「地形の変化か。餌場の枯渇か。群れの増加か。理由はまだ分からん。じゃが結果として、南へ流れ始めた」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
深淵の森は、狙われたのではない。
見つかったのだ。
その事実は、かえって残酷だった。
◇◇◇
さらに進むこと数日。
地平の向こうに、巨大な緑の壁が見えてきた。
深淵の森。
その名にふさわしく、森は深く、暗く、巨大だった。
外縁部に近づくだけで、王都周辺とは空気が違う。
濃い魔素。
湿った土の匂い。
高くそびえる巨木。
幹は大人が十人で手を繋いでも囲みきれないほど太い。
枝葉は空を覆い、陽光を遮っていた。
森の手前で一行は騎獣を止めた。
「ここから先は徒歩だね」
透が言う。
リリアが頷く。
「騎獣では奥まで進めない。根が深いし、道も狭いの」
騎士たちは手早く装備を整える。
騎獣は少数の兵士と共に森の外へ残すことになった。
救援隊は隊列を組む。
先頭はリリアと透。
続いてガルド、騎士たち。
中央にセリナ、セシリア、支援魔法師、治癒魔法師。
後方にノーノーと護衛。
森の中では大魔法は使いにくい。
巨木が密集し、仲間を巻き込む危険が高いからだ。
火炎魔法なども論外だった。
森そのものを焼けば、守るべきエルフの里まで失われる。
セシリアはそれを理解しているからこそ、いつも以上に表情が硬かった。
「森の中では大規模魔法は控えます」
「その方がよいじゃろう」
ノーノーが頷く。
「今回は力押しではなく、状況判断が大事じゃ」
透は鞘の中の刀に軽く触れた。
「行こう」
救援隊は深淵の森へ足を踏み入れた。
◇◇◇
森の中は静かだった。
静かすぎた。
本来なら、鳥の声や獣の気配があってもいいはずだった。
だが何も聞こえない。
風が枝葉を揺らす音だけが、遠くでかすかに響いている。
リリアの顔色が悪くなる。
「おかしい……」
「どうしたの?」
セリナが尋ねる。
「いつもなら、もっと声がするの。フェアリーたちの声。森の精霊たちの気配。エルフの見張りだっているはずなのに……」
言葉の先は続かなかった。
リリアは唇を噛む。
透は周囲を見回した。
巨木の根が複雑に絡み合い、足場は悪い。
視界も狭い。
魔鋼虫が潜んでいても、すぐには分からない。
支援魔法師の一人が小声で呟く。
「索敵魔法に反応が薄い……」
「魔鋼虫に魔核はありません」
セシリアが言う。
「通常の魔獣を探す術式では、捉えにくいはずです」
「なら、音と目に頼るしかねえな」
ガルドが大剣を担ぎ直す。
透は頷いた。
全員が警戒を強める。
足音を殺しながら、さらに奥へ進む。
やがて。
遠くから音が聞こえた。
最初は、風の音かと思った。
だが違う。
金属が打ち合う音。
剣戟。
怒号。
悲鳴。
そして。
バキバキバキッ!
巨木がへし折れるような轟音。
リリアの顔が真っ青になった。
「里の方……!」
「急ぐぞ!」
透が叫ぶ。
救援隊は一斉に駆け出した。
森の根を飛び越え、枝を払い、巨木の間を縫うように進む。
音は近づいている。
剣が弾かれる音。
誰かの叫び。
魔鋼虫の外殻が木々を擦る不快な音。
森が泣いているようだった。
そしてついに。
視界が開けた。
◇◇◇
そこに広がっていたのは、戦場だった。
巨大な樹上集落。
深淵の森のエルフたちが暮らす里。
巨木と巨木を繋ぐ吊り橋。
枝の上に築かれた家々。
淡い魔法灯。
本来なら美しいはずの森の都。
その一部が、無惨に破壊されていた。
倒れた巨木。
裂けた吊り橋。
砕けた木造の住居。
逃げ惑うフェアリーたち。
弓を構えるエルフの戦士たち。
木々の上から放たれる魔法の矢が、黒鉄の外殻に突き刺さる。
だが魔鋼虫は止まらない。
数はアストレアを襲った群れほどではない。
しかし森の中では、それだけで十分だった。
小型の魔鋼虫が根の間を這い回り、中型の魔鋼虫が木の幹を登る。
数体の大型個体が巨木の根元に取りつき、外殻を軋ませながら幹を抉っていた。
巨木が揺れる。
上に築かれた家が傾く。
「いやあああっ!」
フェアリーの悲鳴が響いた。
エルフの戦士が飛び出し、魔鋼虫へ矢を放つ。
矢は関節部に突き刺さり、魔鋼虫がもがいた。
だが次の瞬間、別の個体が横から襲いかかる。
「くっ!」
エルフが剣で受け止める。
火花が散った。
救援隊は一瞬、息を呑んだ。
リリアが震える声で呟く。
「里が……」
透は刀の柄を握り締める。
セリナが青ざめながらも、すぐに治癒師たちへ指示を出した。
「負傷者の救護を! 支援魔法師は防御結界を!」
「了解!」
セシリアが杖を構える。
「火炎系は使いません。風と拘束で足を止めます!」
ガルドが大剣を抜いた。
「ようやく着いたか。遅くなって悪かったな」
その声は低く、怒りを含んでいた。
ノーノーは戦場全体を見渡す。
数。
配置。
魔鋼虫の大きさ。
エルフたちの防衛線。
そして、森の奥に響く重い振動。
「まだおるな……」
老賢者が呟く。
その時。
森の奥で、ひときわ大きな木が揺れた。
バキンッ!
太い枝が折れる。
黒鉄の巨体が姿を現した。
大型個体。
アストレアを襲ったほどの数はいない。
だがその個体は、明らかに群れの中心にいた。
周囲の魔鋼虫が、その動きに合わせて進路を変えている。
ノーノーが円卓会議で「統率獣アルファ個体」と呼んだ存在。
森に現れた魔鋼虫の群れを束ねるそれ。
その複眼が、周囲をなぞるように動いた。
そして。
一瞬だけ。
透の方を向いた。
透の背筋に冷たいものが走る。
見つかった。
そう感じた。
理屈ではない。
本能が告げていた。
あの金切り音。
あの日、統率獣が死の間際に発した音。
あれはやはり、何かを伝えていたのだ。
ガルドが透の前へ一歩出る。
「トオル」
「はい」
「今度も、簡単には終わらなそうだな」
透は静かに刀を抜いた。
白刃が森の薄闇を受けて、冷たく光る。
「それでも」
目の前では、エルフの里が燃えている。
逃げ惑うフェアリーたちがいる。
守るべき命がある。
「助けます」
その言葉と同時に、透は地を蹴った。
深淵の森の戦いが、始まった。




