第十六話 休息
災厄の群れとの戦いから一週間が過ぎた。
王都アストレアは少しずつ平穏を取り戻しつつあった。
戦勝を祝う声はまだ街のあちこちに残っている。
だが、その勝利の裏側で、戦いを知る者たちは誰一人として立ち止まってはいなかった。
それぞれが、それぞれの場所で次に備えていた。
◇◇◇
大神殿。
白亜の神殿には今日も多くの人々が訪れていた。
戦傷者。
戦死者の家族。
そして勝利への感謝を捧げる者たち。
聖女セリナ・アストレアは治癒師たちと共に傷ついた人々の治療にあたっていた。
「次の方をお願いします」
疲れた様子を見せることなく微笑みながら治癒魔法を施す。
失われた命は戻らない。
しかし生き残った人々を支えることはできる。
それが聖女としての責務だった。
治療を終えた後は神殿奥の慰霊堂へ向かう。
今回の戦いで命を落とした兵士や冒険者たちの名が刻まれた石碑。
その前で静かに膝をついた。
「どうか安らかにお眠りください」
祈りの光が静かに広がる。
戦勝への感謝。
失われた命への鎮魂。
聖女の祈りは今日も続いていた。
そしてふと脳裏に浮かぶ。
返り血を浴びながら戦場から戻ってきた少年の姿が。
神代透。
異界より現れた勇者。
あの時の光景を思い出し、セリナは小さく微笑んだ。
◇◇◇
一方その頃。
透の屋敷。
その一室は研究資料で埋め尽くされていた。
「ううむ……」
机に向かうノーノー・デプリが唸る。
金猿族の老賢者の周囲には大量の羊皮紙。
魔鋼虫の解剖記録。
古文書の写し。
戦闘報告書。
自ら描いた構造図。
床にまで資料が散乱している。
今回討伐された個体の特徴。
外殻の構造。
関節部の可動域。
移動速度。
統率能力。
全てを整理し分類していた。
「やはり魔法だけでは厳しいのう」
羽根ペンを置く。
机の上には新たな設計図が広げられていた。
細く鋭い特殊鋼製の槍。
魔鋼虫の外殻そのものは極めて頑丈だ。
しかし関節部や外殻の継ぎ目には僅かな隙間が存在する。
そこを突くための武器。
魔鋼虫対策専用の刺突槍だった。
「千年前の戦士たちも似た結論に辿り着いたのかもしれんのう……」
そう呟きながら再び図面へ向かう。
老賢者の頭の中は既に次の戦場へ向いていた。
◇◇◇
王立魔法研究棟。
アストレア最強の大魔法使いセシリアもまた忙しく過ごしていた。
机いっぱいに広げられた資料を見つめる。
火炎魔法。
雷撃魔法。
氷結魔法。
風魔法。
戦場で使用されたあらゆる魔法の記録。
「外殻への直接攻撃は効率が悪い……」
ペンを走らせる。
「ならば拘束」
「あるいは内部破壊」
未知の敵。
未知の生態。
未知の弱点。
魔法使いとして何ができるのか。
セシリアは答えを探し続けていた。
◇◇◇
王都の鍛冶工房。
そこではガルドが大汗を流していた。
「もう少し細くか!」
「そうじゃ! あと少しじゃ!」
ノーノーの設計した刺突槍の試作品を作っているのだ。
炉の熱気が立ち込める中、大剣使いのA級冒険者は巨大な槌を振り下ろす。
ガンッ!
火花が散る。
「まったく……」
「休めと言われても落ち着かねえな」
そう言って豪快に笑った。
戦士とはそういう生き物だった。
◇◇◇
そして神代透。
彼だけは珍しく何もしていなかった。
屋敷の庭。
木陰に腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めている。
戦いの疲れはようやく抜けた。
傷もほとんど癒えている。
それでも心のどこかが落ち着かなかった。
「みんな元気かな……」
自然と呟きが漏れる。
祖父の宗玄。
父の隆志。
母の美琴。
結衣。
明日華。
真白。
蒼姫。
召喚されてから今日まで、一日たりとも家族のことを忘れたことはない。
戦っている間は考える余裕もなかった。
だが今は違う。
時間ができたからこそ、寂しさが顔を出す。
「帰りたいな……」
ぽつりと本音が漏れた。
もちろん帰る方法など分からない。
それでも会いたかった。
家族に。
ただ一度だけでも。
透は少しだけホームシックになっていた。
◇◇◇
気分転換に屋敷を出る。
王都の外れまで歩いた頃には日が傾き始めていた。
夕焼けが空を赤く染める。
やがて太陽が地平線の向こうへ沈んでいく。
そして訪れる夜。
何度見ても慣れない光景だった。
星がない。
月もない。
ただ黒い闇だけが広がっている。
地球ならば無数の星々が輝く時間。
しかしパンゲアの夜空には何もない。
光るものが一つも存在しない。
かろうじて街路に設置された小さな魔核灯だけが、王都の街並みを照らしていた。
「本当に変な世界だな……」
透は苦笑した。
太陽はある。
四季もある。
風も吹く。
雨も降る。
だが星も月もない。
まるで何か大切なものだけが欠けているような世界だった。
◇◇◇
それからさらに数日が過ぎた。
王都は再び活気を取り戻している。
そして王城では重要な会議が開かれていた。
円卓の間。
国王を中心に王国中枢の人々が集まる。
宰相グランツ。
騎士団長オーギュスト。
冒険者ギルド長バルド。
大魔法使いセシリア。
聖女セリナ。
大賢者ノーノー・デプリ。
そして神代透。
議題はただ一つ。
パンゲア調査隊の正式発足だった。
大渓谷の外。
未知なる世界の調査。
隊員選定。
物資。
移動手段。
護衛戦力。
全ての準備が整いつつあった。
「では調査隊の編成を最終決定する」
国王が口を開く。
その瞬間だった。
開かれた窓から小さな影が飛び込んできた。
「きゃっ!」
セリナが思わず声を上げる。
羽音。
淡い光。
妖精だった。
深淵の森に住まうフェアリー。
エルフたちの良き隣人であり、森の案内役でもある小さな妖精族だ。
しかし様子がおかしい。
羽は傷つき。
身体は泥にまみれ。
今にも倒れそうだった。
「た、助けて……」
か細い声。
息も絶え絶えだった。
全員が立ち上がる。
「何があった!?」
透が駆け寄る。
妖精は涙を浮かべながら叫んだ。
「お願い……!」
「助けて……!」
その小さな身体が震えている。
「深淵の森が……!」
円卓の間の空気が凍り付く。
妖精の瞳には隠しようのない恐怖が浮かんでいた。
「魔鋼虫が来たの……!」
「お願い……助けて……!」
か細い声が部屋に響く。
「森が襲われてるの!」
誰も言葉を発しなかった。
透は拳を握り締める。
セリナの表情から血の気が引いていた。
騎士団長オーギュストが静かに立ち上がる。
ノーノーは静かに目を閉じた。
北から来た災厄はアストレア侵攻まもなく、西へと手を伸ばした。
その意味を理解しているのは、この場で彼だけだった。
災厄は終わっていなかった。
いや――
今、始まったのだ。




