第十四話 グランドワイズ防衛戦Ⅳ 決着
巨大な群れの主が動いた。
その巨体が一歩踏み出しただけで、大地が大きく震える。
周囲を取り囲む魔鋼虫たちが、歓喜とも威嚇ともつかない咆哮を一斉に上げた。
巨大な統率種。
黒い群れを支配するもの。
千年前、古きパンゲアを滅亡へ追い込んだ災厄。
それが今、神代透を明確な敵として認識していた。
◇
だが、透は立ち止まらなかった。
むしろ、その心は不思議なほど静かだった。
巨大な統率種を見上げる。
あまりにも大きい。
これまで戦ってきた魔物とは、比較にすらならない。
透が王都で借りている屋敷よりも、遥かに巨大だった。
全身を覆う黒い鋼殻も、これまでの個体とは比べものにならないほど分厚い。
普通ならば、目にしただけで絶望するような相手だった。
しかし――。
透には見えていた。
切断線が。
統率種の全身を走る、無数の線。
脚の関節。
装甲の継ぎ目。
首元。
そして、胸部の奥深く。
そこに、ほかのどの線よりも濃く、太い一本の切断線が走っている。
あれを断ち切れば倒せる。
透は、そう確信していた。
◇
ギィィィィィィッ――!
統率種が耳障りな咆哮を上げ、巨大な前脚を振り下ろした。
凄まじい轟音。
地面が爆発したかのように砕け、土砂が高く舞い上がる。
透は横へ跳び、直撃をかわした。
もしまともに受けていれば、人間の身体など跡形もなく潰されていただろう。
だが、攻撃はそれだけでは終わらない。
二撃目。
三撃目。
巨大な前肢が、鎌のように振るわれる。
近くに生えていた大木が、紙のように切断された。
岩が砕け、地面に深い亀裂が走る。
それは戦いというより、災害そのものだった。
◇
それでも透には見えていた。
敵の動きが。
攻撃の軌道が。
そして、刃を通すべき切断線が。
透は一歩、前へ踏み込んだ。
脳裏に浮かんだのは、宗玄との稽古の日々だった。
何度も繰り返した立ち合い。
何千回。
何万回。
身体へ刻み込まれた剣の動き。
『見えているなら、斬れる』
祖父の声が聞こえた気がした。
◇
透は統率種の脚を蹴り、そのまま巨大な身体を駆け上がった。
人間離れした速度。
パンゲアへ来て強化された肉体。
黒い群れが騒めいた。
空から飛行種が襲いかかる。
足元から甲殻種が群がる。
透は天羽乃斬を振るった。
一閃。
二閃。
三閃。
白銀の斬撃が、透を取り囲む魔鋼虫たちを薙ぎ払う。
外殻の継ぎ目を断たれた異形たちが、次々と巨大な統率種の身体から崩れ落ちていった。
◇
グランドワイズ関門の城壁上。
誰もが言葉を失っていた。
「何なんだ、あれは……」
ガルドが呆然と呟く。
騎士たちも。
兵士たちも。
魔法師たちも。
戦場にいるすべての者が見ていた。
たった一人の少年が、世界を滅ぼしかねない巨大な災厄へ挑む姿を。
◇
統率種が怒り狂ったように咆哮した。
頭部に並んだ巨大な複眼が、赤く強く輝く。
そして、大きく口を開いた。
その喉の奥に、赤黒い光が集まり始める。
周囲の魔素が、凄まじい勢いで吸い寄せられていた。
「まずい!」
ノーノーが息を呑んだ。
「透! そこから離れろ!」
次の瞬間。
統率種の口から、赤黒い光の奔流が放たれた。
轟音。
大地が抉られる。
光が通過した場所にあった岩も、木々も、黒い異形たちさえも吹き飛ばされた。
数百メートルにわたって、大地に一本の巨大な溝が刻まれる。
グランドワイズ関門の城壁すら、まともに受ければ貫通しかねない威力だった。
◇
だが、光が通過した先に透の姿はなかった。
「どこだ!?」
ガルドが叫ぶ。
ノーノーが望遠鏡を上へ向けた。
「まさか……」
統率種の頭上。
さらに高い空中。
そこに、透の姿があった。
光が放たれる直前。
統率種の頭部を蹴り、上空へ跳んでいたのだ。
「馬鹿な……」
ノーノーが息を呑んだ。
人が跳べる高さではない。
だが、透は確かに空中にいた。
◇
透の身体が落下を始める。
一直線に。
統率種の頭部へ向かって。
見える。
切断線が。
頭部から胸部へ。
さらに胴体の奥深くへと続く、決定的な一本の線。
統率種もまた、迫る透の存在を捉えた。
その巨体を捻り、身を守ろうとする。
同時に、周囲にいた魔鋼虫たちが、主を守ろうと一斉に集まってきた。
空を飛ぶもの。
脚を伸ばすもの。
棘を射出するもの。
無数の異形が、透と統率種の間へ割り込もうとする。
◇
透は両手で天羽乃斬を握った。
呼吸を整える。
雑念を捨てる。
視界に映るのは、ただ一本の切断線だけ。
全身の力を刃へ込める。
「はぁぁぁぁぁぁっ!」
天羽乃斬を振り下ろした。
その瞬間。
世界から音が消えた。
戦場全体が止まったように感じられた。
銀色の光が、一直線に走る。
ただ、それだけだった。
◇
次の瞬間。
統率種の動きが止まった。
巨大な前脚も。
開かれた口も。
赤く輝いていた複眼も。
すべてが完全に静止する。
戦場に、不自然なほどの静寂が訪れた。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
何が起きたのか、理解できる者はいなかった。
やがて――。
巨大な統率種の身体へ、一筋の線が浮かび上がった。
頭部。
首。
胸部。
腹部。
そして尾部へ。
巨体を縦に貫く、一本の線。
ズズズズズズ……。
山のように巨大な身体が、ゆっくりと左右へずれ始める。
そして。
地響きと共に、二つに分かれて崩れ落ちた。
両断。
巨大な統率種は、完全に沈黙した。
◇
ギィィィィ……。
かすかな断末魔が漏れた。
命が消える直前。
統率種の赤い複眼が、透の姿を映していた。
この小さな存在は何なのか。
なぜ自分を傷つけることができるのか。
危険な存在。
排除しなければならないもの。
理解できぬ何か。
その思考すら、やがて途切れた。
◇
統率種が倒れた、その瞬間。
周囲にいた魔鋼虫たちが、一斉に動きを止めた。
完全に。
まるで、すべての命令を失ったかのように。
やがて、群れの中に混乱が広がり始める。
前へ進む個体。
後方へ戻ろうとする個体。
互いにぶつかり合う個体。
統率を失った黒い群れは、瞬く間に秩序を失っていった。
そして、一体の魔鋼虫が西へ向かって逃げ始めた。
それを追うように、別の個体も進路を変える。
さらに、その後ろの個体も。
やがて群れ全体が、押し寄せてきた時とは逆の方向へ動き始めた。
撤退。
黒い海が崩れていく。
◇
「勝った……」
誰かが呟いた。
最初は、小さな声だった。
だが、その言葉は次第に周囲へ広がっていく。
「勝ったぞ……」
「奴らが退いていく!」
「関門を守ったんだ!」
グランドワイズ関門の城壁上から、大歓声が上がった。
兵士たちが叫ぶ。
武器を掲げる。
泣き崩れる者もいた。
隣に立つ仲間と抱き合う者もいた。
騎士団長オーギュストは、血に濡れた剣を高く掲げた。
「我らの勝利だ!」
「おおおおおおおっ!」
歓声が、グランドワイズ渓谷全体へ轟いた。
アストレア王国軍の勝利。
誰もが不可能だと思った、奇跡の勝利だった。
◇
だが、透はその歓声を聞いていなかった。
両断された統率種の亡骸の上。
透は、片膝をついていた。
全身が鉛のように重い。
視界が揺れる。
呼吸をするたび、身体の奥が痛んだ。
限界を遥かに越えた動きによって、全身が悲鳴を上げていた。
それでも透は、天羽乃斬だけは手放さなかった。
薄れゆく意識の中。
最後に目に映ったのは、西へ撤退していく魔鋼虫の群れだった。
そして、その遥か先。
地平線の向こう。
何か巨大な存在が、こちらを見ているような感覚があった。
姿は見えない。
だが、確かに何かがいる。
その正体を確かめる前に。
透の意識は、深い闇へと沈んでいった。
◇
こうして。
アストレア王国は、滅亡の危機を乗り越えた。
だが、それは黒き災厄との戦いの、ほんの始まりに過ぎなかった。




