第三十五話 勝利の後
アストレア王都の城壁が見えてきた頃には、すでに空が茜色に染まり始めていた。
魔導高速飛行船は速度を落とし、王都上空へと入っていく。
城壁の上に立つ兵士たちが、一斉にこちらを見上げていた。
「おい、あれ……」
「なんだ船?」
「いや、あんな船、見たことないぞ!」
ざわめきは瞬く間に広がっていく。
無理もない。
ドワーフの里から持ち込まれた最新の魔導技術を詰め込んだ高速飛行船など、王都の者たちにとっては未知の存在だった。
しかも、その下を進む地上部隊には――さらに目立つものがいる。
「な、なんだ、あの白い魔獣は!?」
全身を青く染めた巨大な白。
その背には宗玄が堂々と乗っている。
「止めろ! いや待て、味方なのか!?」
「神代殿の一行だ!」
「じゃあ、あれも味方なのか!?」
「知らん!」
城門ではちょっとした騒ぎになっていた。
そんな兵士たちの慌てようなど気にも留めず、白は、
「ブモォー」
とのんびり鼻を鳴らした。
やがて魔導飛行船は王城の上空へ。
城の中庭に誘導の兵士たちが集まり、その合図に従って、船体はゆっくりと降下していった。
低い駆動音。
吹き上がる風。
兵士や侍従たちが衣服を押さえながら見守る中、魔導飛行船は王城の中庭へ静かに着地した。
「……本当に飛んで帰ってきたのか」
誰かの呟きが聞こえた。
飛行船の脇のドアが開き、タラップから透たちが姿を現した。
そこへ地上から戻った部隊も合流する。
「団長!」
待ち構えていた王城の兵士が駆け寄ってくる。
騎士団長オーギュストは短く頷いた。
「詳しい報告は中でする。陛下と重臣方へ伝えてくれ。戦闘は我々の勝利だ」
「はっ!」
その一言に、周囲から歓声が上がった。
「勝ったぞ!」
「討伐軍が帰ってきた!」
「勝利だ!」
次々と声が重なっていく。
しかしオーギュストたちには、まだ仕事が残っていた。
騎士団の幹部はそのまま王城へ向かい、今回の戦闘について速報を上げることになった。
正式な報告と、今後の方針を決める会議は明日。
今日はひとまず解散となった。
「私は魔法師団へ戻る」
セシリアが杖を肩に担ぐ。
「向こうも大騒ぎになっているでしょうからね」
「セシリアさん、お疲れさまでした」
透が言うと、セシリアは片手を上げた。
「あなた達も休みなさい。明日からまた面倒な話が山ほど待っているでしょうから」
そう言い残して、王城内へ向かっていった。
セリナも王女として、そのまま城へ残ることになった。
「夕食までには戻れると思います」
「無理しなくていいよ」
透が言う。
「いえ」
セリナは小さく笑った。
「今日は皆さんと食べたいですから」
ドワーフの技術者たちは、王城が用意した客室へ案内された。
魔導飛行船については明日の会議でも説明を求められるだろう。
そして透たちは、久しぶりに王都で借りている屋敷へ戻ることになった。
◇
「……帰ってきたなぁ」
屋敷の門をくぐった透が、ぽつりと呟いた。
それほど長く留守にしていたわけではない。
それなのに、妙に懐かしく感じる。
庭は留守の間にずいぶん草が伸びていた。
その庭へ白が入ってくる。
「ブモ」
白は足元の草を見た。
そして。
むしゃ。
むしゃむしゃ。
「……食べてる」
結衣が目を丸くする。
「ちょうどいいではないか」
宗玄が満足そうに腕を組んだ。
「草刈りの手間が省ける」
「おじいちゃん、そこなの?」
白は気にする様子もなく、庭の草を豪快に食べ続けていた。
戦場で大型魔鋼虫へ突撃していた姿との落差がひどい。
「とにかく」
美琴が皆を見渡した。
「まずはお風呂ですね」
「賛成!」
結衣が真っ先に手を上げる。
「あにさまもです」
明日華が透を見る。
「分かってるよ」
戦場から帰ったばかりだ。
泥と埃、汗。
それに血の臭いも残っている。
誰も反対する者はいなかった。
◇
風呂を済ませると、ようやく皆の表情から戦場の緊張が抜けていった。
美琴は髪をまとめると、そのまま台所へ向かった。
「母さん、休まなくていいの?」
「お茶くらい淹れますよ」
そう言って笑う。
隆志は居間の一角でタブレットを取り出していた。
魔導飛行船に残されていた資料のうち、重要と思われるものは可能な限り写真に収めてきたのだ。
その隣には、当然のようにノーノーが座っている。
「隆志、この文字を拡大できるか?」
「できますよ」
隆志が指で画面を広げる。
「おお!」
ノーノーが身を乗り出した。
「便利だな、これは!」
「僕たちの世界では普通の道具なんですけどね」
「普通だと!? こんな物がか!?」
二人はすっかり資料の検証に夢中だった。
ガルドとライガは屋敷には寄ったものの、
「俺たちは大衆浴場へ行ってくる」
「汗を流したら、冒険者ギルドへ顔を出してくるよ」
と言って、早々に街へ出ていった。
宗玄は庭で白を眺めていたが、やがて腕を組む。
「うむ……」
「どうしたのじゃ、じいじ?」
真白が首を傾げる。
「さすがにこれはいかんな」
白の身体には乾いた返り血がこびりついている。
真っ白だった身体が、ところどころ魔鋼虫の返り血で青黒く染まっていた。
「白を洗ってくる」
「洗う?」
「草原の川があっただろう。あそこならちょうどいい」
「真白も行く!」
真白が飛び跳ねた。
「モモもー!」
モモも後を追う。
「私も行こうかな」
結衣が立ち上がる。
「では私も」
明日華も続く。
蒼姫も無言で立ち上がった。
宗玄は満足そうに頷いた。
「よし。では行くぞ」
「遠足みたいになってるな……」
透が呟いた。
「ブモォ」
白だけは嬉しそうだった。
◇
残った者たちは居間でお茶を囲んだ。
ルカ。
リーファ。
ノア。
パルム。
そして、ラピス。
ラピスはいつものように透の足元へ身体を寄せている。
「美味しいです!」
ルカは菓子を口へ運びながら、幸せそうに頬を緩めた。
「ルカさん、もう三つ目です」
ノアが言う。
「まだ三つです」
「その言い方、おかしくない?」
パルムが笑う。
「だって動いたんですよ。いっぱい」
「僕だって働いたよ」
「じゃあ一緒に食べましょう!」
「そういう問題かなあ」
笑い声が広がる。
久しぶりの穏やかな時間だった。
しかし透は、時折ルカへ目を向けていた。
笑っている。
よく食べている。
もう傷も大丈夫だと言っていた。
それでも。
脳裏には戦場で傷ついたルカの姿が残っている。
自分がもっと早ければ。
もっと強ければ。
そんな考えが、どうしても消えなかった。
「透様?」
ルカが首を傾げる。
「いや。なんでもない」
透は笑ってみせた。
ルカも笑う。
「そうですか?」
「ああ」
台所に立つ美琴が、そんな透を静かに見ていた。
何も言わない。
ただ一度だけ、息子の横顔を見つめる。
そしてまた、湯を沸かす手元へ視線を戻した。
◇
日が傾いた頃。
「ただいまなのじゃー!」
玄関から真白の声が響いた。
皆が外へ出る。
「おお……」
透が思わず声を漏らした。
白は見違えるほど綺麗になっていた。
川で全身を洗われたらしい。
夕日に照らされた身体は、本来の名の通り、真っ白に輝いている。
その背中には、宗玄だけではない。
真白、モモ、結衣、明日華まで乗っていた。
蒼姫はその上を飛んでいる。
「真白と同じ、まっしろなのじゃ!」
真白が嬉しそうに叫ぶ。
「本当に綺麗になったね」
結衣も白の背を撫でる。
美琴も庭へ出てきた。
「あら、本当に真っ白」
「ブモォォォ」
褒められているのが分かるのか、白が胸を張った。
夕食については、美琴が提案した。
「今日は外で食べませんか?」
「母さん、作らないの?」
「今日は私も休ませてもらいます」
美琴が笑う。
「みんな頑張ったんですから。今日は皆で食べに行きましょう」
「賛成!」
ルカの返事だけ、妙に早かった。
◇
白は屋敷の庭へ繋いでおくことになった。
しかし街へ向かう一行は、歩くだけで目立つ。
戦場から帰還した者たち。
王都ではすでに勝利の知らせが広まり始めていた。
「あれ、神代様じゃないか?」
「本当だ!」
「今日戻ってきたんだろ!」
「勝ったんだってな!」
瞬く間に人が集まり始める。
「うわ……」
透が一歩引く。
「これはまずいな」
隆志も苦笑する。
そこへ。
「皆さん!」
よく通る声が響いた。
人垣が割れる。
現れたのはセリナだった。
王城での務めを終え、着替えてきたらしい。
「セリナ!」
透がほっとした顔をする。
セリナは群衆へ向き直った。
「皆さんのお気持ちは分かります。ですが、彼らは戦いから戻ったばかりです。今日はどうか、休ませてあげてください」
声を荒らげたわけではない。
それでも、王女の言葉には人々を従わせる力があった。
「王女様がそう言うなら……」
「そうだな」
次第に人波が引いていく。
「……さすが王女様」
透が感心する。
セリナは少しだけ胸を張った。
「王女ですから」
「そうだよね」
「透様?」
「いや、ごめん」
リーファがくすりと笑った。
「それより」
セリナが言う。
「私が良いお店を知っています。人数も入れるところですから、そこへ行きませんか?」
当然、反対する者はいなかった。
◇
案内されたのは王都でも大きなレストランだった。
セリナの顔を見るなり店の者たちは驚いたが、すぐに広い個室が用意された。
長いテーブル。
次々と運ばれてくる料理。
「おおー!」
ルカの目が輝いた。
「ルカさん、まだ始まってないからね」
リーファが言う。
「分かっています!」
その返事をしながら、すでにパンへ手が伸びていた。
皆が席につく。
透の右側にはルカ。
左側にはノア。
そして。
「……ラピス?」
透が足元を見る。
いない。
さっきまで後ろをついてきていたはずなのに。
「ラピスは?」
ノアも椅子の下を覗く。
「外じゃないよね?」
パルムが辺りを見る。
その時。
「……ん?」
結衣が向かい側の椅子を見た。
そこに。
銀色の髪。
ぴんと立った狼の耳。
小さな、小さな女の子が座っていた。
身体が小さすぎて、テーブルの上からは顔と耳くらいしか見えていない。
皆が固まる。
「…………」
少女が首を傾げた。
「みゃん」
「…………」
透が目を見開く。
「ラ……」
結衣が指をさす。
「ラララララ――」
「ラピスーーー!?」
「なの!」
「ええええええええっ!?」
個室中に絶叫が響いた。
ラピス本人だけは何が起きているのか分からず、嬉しそうに尻尾を振っている。
美琴が最初に我に返った。
「あらあら」
席を立ち、ラピスのところへ近づく。
「ラピスちゃん」
「みゃ?」
「裸ん坊じゃないの」
「あ」
全員が止まった。
「見るな!」
結衣が透の顔を両手で挟み、強引に横へ向ける。
「痛い痛い!」
「あにさまは向こうです!」
「俺何も見てないって!」
美琴は苦笑しながらセリナを見る。
「セリナさん。何か羽織るものを借りられないかしら?」
「すぐ頼んでみます!」
セリナが店員を呼ぶ。
事情を聞いた店の主人が慌てて現れ、やがて小さな子供用のワンピースを持ってきてくれた。
「娘が小さい頃の物ですが、もしよろしければ」
「ありがとうございます」
美琴が受け取る。
しばらくして。
「はい。できましたよ」
皆が振り向く。
「おお……」
白いワンピースを着たラピスが立っていた。
銀髪。
狼耳。
その後ろでは銀色の尻尾が、
ぶんぶん。
ぶんぶん。
ものすごい勢いで振られている。
「かわいい!」
結衣が声を上げる。
「可愛いですね」
明日華も頬を緩めた。
「ラピス、よく似合ってるよ」
ノアが言うと、ラピスは嬉しそうに笑った。
そして。
自分に服を着せてくれた美琴を見上げた。
「かあさま」
「……あらら」
美琴が目を丸くする。
次の瞬間。
「なんじゃとおおおおおおっ!」
宗玄が立ち上がった。
「お義父さん?」
「美琴さんを母と呼んだ!」
「そうですね」
「ということは!」
宗玄がラピスの前へ回り込む。
「わしはじいじか!?」
ラピスが首を傾げる。
「じいじ?」
「そうじゃ! じいじじゃ!」
誰も認めていない。
しかし宗玄の中では完全に決定した。
「そうかそうかそうか! じいじか!」
「おじいちゃん、うるさい!」
「孫が増えたんじゃぞ! 静かにしておれるか!」
「また増えたのじゃ!」
真白まで嬉しそうに飛び跳ねる。
「ラピス、じいじは甘い物をねだると何でもくれるのじゃ」
「本当?」
「もちろんじゃ!」
「お義父さん!」
美琴が少し強めに呼ぶ。
「……ほどほどにな」
一瞬で宗玄が小さくなった。
笑い声が広がる。
そして食事が始まると、ラピスは当然のように透の膝へ乗った。
「なんでここなんだ?」
「とおる」
「はいはい」
右を見る。
ルカ。
左を見る。
ノア。
膝の上にはラピス。
「透様、これ美味しいですよ!」
「透、こっちも食べる?」
「とおる、あーん」
「俺はどうすればいいんだよ……」
向かい側。
セリナがその光景を見る。
リーファも見る。
二人は顔を見合わせた。
「……はぁ」
「……はぁ」
それだけだった。
「とおる、あーん」
ラピスが口を開ける。
「自分で食べられないのか?」
「あーん」
「……分かったよ」
透が料理を小さく切って口へ運ぶ。
「透!」
突然、宗玄の声が飛ぶ。
「もっと小さくしてやらんか! 喉につまらせたらどうする!」
「じいちゃん、うるさい!」
「孫の一大事じゃ!」
「まだ何も起きてない!」
また笑いが起きた。
戦場の緊張。
魔鋼虫の咆哮。
血と土の臭い。
それらが、少しずつ遠ざかっていく。
勝った。
そして。
皆、帰ってきたのだ。
◇
――その頃。
王城、魔法師団庁舎。
戻ってきたセシリアは、報告書の束を抱えながら廊下を歩いていた。
「まったく……帰って早々これですか」
深いため息をつく。
その時。
廊下の向こうから。
「師匠ーーーーーっ!」
セシリアの足が止まった。
「……ん?」
「師匠ぉぉぉぉ!」
「お帰りなさいませ、師匠ーーー!」
二つの影がものすごい勢いで近づいてくる。
「待て、お前たち――」
遅かった。
「師匠!」
「師匠ー!」
「ぐえっ!」
左右から同時に抱きつかれる。
フェリス。
リネット。
双子の姉妹だった。
「師匠、遅いです!」
「本当に心配したんですよ!」
「ちゃんと食べてました!?」
「怪我してません!?」
「お土産は!?」
「最後だけおかしいでしょう!」
セシリアの怒鳴り声が、魔法師団庁舎いっぱいに響いた。




