第二十七話 昔語り
「透さん。さっき、広間にあった絵を見たね」
エリーゼが静かに切り出した。
「はい」
「あの絵に描かれていた竜――あれは、若い頃のあたしさ」
「え?」
透が思わず目を見開く。
ルカも同じように驚いていた。
「その背に乗っていたのが、ケン・アストレア。あたしの旦那さ」
「おばあしゃま、本当なの!?」
「ああ」
エリーゼは笑った。
「お前にずっと話してきた竜騎士の夜話。あれは、あたし自身の話だよ」
「えええーっ!」
ルカが身を乗り出す。
「でもね」
エリーゼは少しだけ目を細めた。
「あたしは、本当のお前のおばあしゃまじゃない」
「……え?」
「九百年前。魔鋼虫と戦うため、あたしはケンと契りを結び、真の竜となった」
部屋の空気が静かになる。
「そのせいだろうね。寿命が大きく延びた。今の竜人なら、長くても数百年といったところだろうけど、あたしは九百年経った今でも、こうして生きている」
「九百年……」
透が呟く。
「あたしは代々、長の家で生まれる子供たちを見守ってきたのさ。ルカ、お前はあたしの血を引いてはいるけど、もう十代くらい後の子になるのかねぇ」
「お母さん……本当なの?」
ルカがミュゼリアを見る。
「ええ、本当よ」
ミュゼリアは穏やかに頷いた。
「あなたが大人になった時に、聞かされるはずだったことです」
「そんなぁ……」
ルカはまだ混乱しているらしい。
透も驚きを隠せなかった。
九百年前。
それは、自分たちが知ろうとしている魔鋼虫との戦い――その時代そのものだ。
「さて」
エリーゼが話を続ける。
「あれは、あたしが今のお前より少し年上だった頃のことさ」
遠い昔を見るように、その瞳が細められた。
「当時は、この里も完全に閉ざされてはいなかった。ここから東にある人族の村とも、細々とだけど交流があったんだよ」
エリーゼ自身も、時折その村へ遊びに行っていたという。
「ある日、いつものように村を訪れていた時だった」
エリーゼの声が少し低くなった。
「東の空――人族の大きな国がある方角で、とんでもない火柱がいくつも上がった」
「火柱……」
「ああ。それから数十秒ほどして、とてつもない雷鳴のような音が届いた」
何が起きたのか、当時のエリーゼには分からなかった。
ただ、尋常ではないことだけは理解できた。
「怖くなって、すぐ里へ戻ったよ」
それから数日後。
里の長たちから、人族の村へ向かうことを禁じられた。
「でもまあ、あたしは昔から好奇心が強くてね」
エリーゼが悪戯っぽく笑う。
「数か月もした頃、長たちの警告を無視して村へ向かった」
「おばあしゃま……」
「昔からなんですね」
透が思わず言う。
「そうさ」
まったく悪びれない。
「いつもなら、村の近くの森にある広場で竜化を解いて、そこから歩いて村へ入っていた」
だが、その日は違った。
「森へ近づく前から、煙が見えた」
村から火の手が上がっていた。
「黒い魔獣の群れが村を蹂躙していた。魔鋼虫だね」
人族の騎士たちも必死に戦っていた。
だが、勝ち目はなかった。
「数が違いすぎた。それに、人族では力も及ばなかった」
エリーゼはそこで一度、言葉を切った。
「そんな中に、一人だけやけに目立つ騎士がいた」
逃げる者たちを守るように、最後まで剣を振るっていた。
「果敢に戦っていたよ。でも、どうにもならなかった」
やがて、その騎士も倒れた。
「たまたま視界に入ってね。気がついたら、あたしはその男を掴んで飛んでいた」
エリーゼは騎士を連れ、その場を離脱した。
そして里へ戻った。
「長たちには、そりゃもう、しこたま怒られたよ」
「でしょうね」
「でも、怒られるのには慣れてたからね」
ルカが何とも言えない顔をしている。
「それより、あたしはその男の方が気になった」
重傷だった。
エリーゼは自分の家へ運び込み、両親に頼み込んで看病を続けた。
「一週間ほどして、ようやく目を覚ました」
男は、自分を救ってくれたことへの礼を述べた。
そして、自分が何者なのか。
外の世界で何が起きているのか。
そのすべてを話した。
「名前は、ケン・アストレア」
その名を聞き、透の表情がわずかに変わる。
「この里の東には、パンゲア共和連邦という大きな国があった」
そして、その国を支える十二支族の一つが、アストレア。
「ケンは、アストレアの市長を務める家の長男でね。本人は騎士団長をしていた」
「騎士団長……」
「ああ」
エリーゼは少し誇らしげに笑った。
「かっこよかったからね。ひと目惚れさ」
「おばあしゃま!」
「本当のことだよ」
エリーゼは平然としている。
ケンは、魔鋼虫の出現によってパンゲア全土が混乱していることを話した。
そして傷が癒えれば、自分は国へ戻り、再び戦うと告げた。
「それから一か月ほど、ケンはこの里で療養した」
その間に、二人の距離は縮まっていった。
「気がついた時には、もう恋仲になっていたよ」
エリーゼは、どこか懐かしそうに笑う。
「それで、あたしはケンと契りを結んだ」
ルカが息を呑む。
「そして一緒に、魔鋼虫との戦いへ身を投じることにしたのさ」
「ご両親は……?」
「止めなかったよ」
エリーゼは首を横に振る。
「あたしの性格を知っていたからね。何を言っても無駄だと諦めていたんだろうさ」
それに、と続ける。
「両親も、ケンのことを随分気に入っていた」
やがて、出立の日が来た。
「里からケンを背に乗せて飛び立った――その瞬間だった」
エリーゼの表情が変わる。
「身体の中で、何かが爆発したような感覚がした」
「……真の竜」
ルカが呟く。
「ああ」
エリーゼは頷いた。
「あれが、あたしが伝説の真の竜へ目覚めた瞬間さ」
これまでとは比べものにならないほど身体が軽かった。
力がみなぎった。
翼を一度打つだけで、信じられないほどの速度が出た。
「それまで届かなかった高さへも、簡単に昇れるようになった」
ルカは黙って話を聞いている。
「これが、お前にずっと聞かせてきた夜話の正体さ」
エリーゼはそう言って、少し笑った。
「それから、あたしたちはアストレアの首都を目指した」
途中、巨大なシルバードラゴンとなったエリーゼを見た人々は、最初こそ驚いた。
「でも、その背にケンがいると分かるとね。みんな歓声を上げてくれたよ」
その後、二人はいくつもの戦いに参加した。
だが――。
「どうにもならなかった」
エリーゼの声が静かになる。
「魔鋼虫の数が多すぎた」
一度勝っても、また次が来る。
倒しても、倒しても、終わらない。
「やがてアストレアの首都も落ちた」
避難しようとした人々も、大半が魔鋼虫に呑まれた。
「それでも、少数だけは連れて帰ることができた」
エリーゼは生き残った人々を、この竜人の里へ避難させた。
そして――。
「あの渓谷の手前に水門を築いた」
「水門……?」
「ああ」
外界へ通じていた隧道へ水を流し込み、水没させた。
「それで、外との道を完全に閉ざしたのさ」
それ以降、竜人の里は長い鎖国状態へ入った。
エリーゼはそこで、ふっと表情を和らげた。
「ケンは無事だったよ」
ルカが顔を上げる。
「あの人は、その後もあたしと一緒に生きた」
そして――。
「ちゃんと天寿を全うした」
その言葉には、九百年という時間を越えてなお、確かな温もりが残っていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
透は、目の前の若々しい女性を見つめる。
九百年前。
この人は確かに魔鋼虫と戦い、人を救い、愛した男と共に生きた。
そして今もなお、その記憶を抱えてここにいる。
エリーゼは静かにお茶へ手を伸ばした。
「まあ、少し休もうか」
長い昔語りは、そこでいったん途切れた。




