第二十六話 ルカの家族
川沿いを進んでいくと、やがて街の中心と思われる場所に、ひときわ大きな建物が見えてきた。
透はルカの背から眼下を見渡す。
街を歩く人々は、見た目だけなら人族とほとんど変わらない。
竜人族と聞いていたので、もっと分かりやすい特徴があるものと思っていたが、少なくとも上空から見る限りでは違いは分からなかった。
建物も木と石を組み合わせた、この世界ではよく見かける造りだ。
ただ、街路はきれいに整えられ、建物も整然と並んでいる。
「へぇ、きれいな街だな」
「みゃん!」
透の前でラピスが嬉しそうに鳴く。
その横を飛んでいたモモは、街並みとはまったく別のことが気になっているらしい。
「甘いものあるかなー?」
「モモはそればっかりだな」
「甘いものは大事だよー!」
そんなやり取りをしながら、ひときわ大きな館へ近づいていく。
その時だった。
「ルカー!」
地上から大きな声が聞こえた。
「あっ、お父さん!」
ルカが嬉しそうに答える。
館の近くには広場があり、ルカは大きな翼を広げながら、ゆっくりと高度を落としていった。
巨体が地面へ降り立つ。
透はまずラピスを抱えて地面へ飛び降り、それから彼女を下ろした。
モモもふわふわと降りてくる。
ルカの身体が淡い光に包まれ、やがて人の姿へ戻った。
そこへ一人の男性が駆け寄ってきた。
「ルカ!」
「ただいま、お父さん!」
ルカはいつもの笑顔だった。
だが、男性の方は違った。
娘が無事だったことへの安堵。
そして、それ以上に何かを恐れているような険しい表情。
男はルカの両肩を掴んだ。
「お前……どこから帰ってきた?」
「え?」
「どこから里の外へ出た!」
その声に、ルカが目を丸くする。
「東の門だよ?」
一瞬。
男の動きが止まった。
「……東の門?」
「うん」
「門が開いていたのか?」
「開いてはいなかったよ」
「では、どうやって出た!」
普段は穏やかな人物なのだろう。
しかし今は、声を抑えることすらできない様子だった。
ルカは少し困ったように首を傾げる。
「門の横が壊れてたの」
「……壊れていた?」
「うん。前に見に行った時は、あんな大きな穴はなかったんだけど」
男の顔色が変わる。
「どれほどの穴だ」
「私が飛んだまま通れるくらい」
「なっ……!」
今度こそ、男は言葉を失った。
透もようやく事情の重大さに気づいた。
里へ入る前に通った、あの山中の巨大な隧道。
川が山脈を穿ってできた長大な洞窟。
そして、その途中にあった巨大な門。
ルカはそこを抜けて外へ出たのだ。
「ルカ」
男の声が低くなる。
「お前は……あの門の向こうへ行ったのか?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
「おーーーっ」
広場に声が響き渡った。
周囲にいた者たちが何事かと振り返る。
男はそれに気づくと、一度大きく息を吐いた。
そして声を落とす。
「……外には、何がいた」
その問いだけは、先ほどまでとはまるで違った。
ルカもようやく父親の様子に気づいたのか、少し真面目な顔になる。
「何もいなかったよ」
「……何も?」
「うん」
「魔鋼虫は?」
「見てないよ」
男は黙った。
「本当に……一匹もいなかったのか?」
「うん。少なくとも私が飛んだところでは、全然見なかったよ」
「…………」
長い沈黙だった。
その表情を見て、透には分かった。
この人にとって、今のルカの言葉はただの報告ではない。
ずっと信じてきた何かを覆すほどの意味を持っている。
やがて男の視線が透へ向いた。
「……あなたは」
「はい」
「外から来られた方ですね?」
「そうです」
男の目がわずかに見開かれた。
「本当に……外の人間が、この里へ」
その言葉に、透は少し戸惑った。
そこへルカが嬉しそうに割って入る。
「お父さん、この人ね!」
透はなんとなく嫌な予感がした。
「私の騎士様なの!」
「……騎士様?」
「うん!」
ルカは満面の笑みを浮かべる。
「旦那様!」
「そうか」
男は一度頷いた。
そして。
「……って、えーーーーーっ!」
広場に大声が響き渡った。
「何驚いてるの?」
「驚くだろう!」
「私、騎士様を探してくるって言ったじゃん」
「聞いていない!」
「お母様には言ったよ?」
「なに?」
「おばあしゃまにも」
「……私は?」
「言ってないよ」
「なぜだ!」
「止めるから」
「止めるに決まっているだろう!」
透は思わず額を押さえた。
どうやら、目の前の出来事は自分が思っている以上にややこしいらしい。
男はもう一度深く息を吐いた。
「……申し遅れました」
今度は透へ向き直る。
「私はトルクス・ファフニール。ルカの父で、この里の長をしています」
「神代透です」
透も頭を下げる。
トルクスは透を見つめた。
先ほどまでの父親としての顔ではない。
里を預かる者の表情だった。
「詳しい話を聞かせていただけますか」
「はい」
「あなたがどこから来られたのか。そして――外の世界が今、どうなっているのか」
透は静かに頷いた。
「分かりました」
「ここでは何です。屋敷へどうぞ」
そう言うと、トルクスはもう一度ルカを見た。
「ルカ」
「なに?」
「門のことは後で詳しく聞く」
「はーい」
「……まったく」
トルクスは額に手を当てた。
ルカは何事もなかったかのように、嬉しそうに館へ向かって歩き出す。
透もその後に続いた。
モモが透の周りを飛び、ラピスもぱたぱたとその足元についてくる。
透は歩きながら、一度だけ振り返った。
遠く、西の山々から流れてくる川。
その先に、ここへ来る途中で通った巨大な隧道がある。
そして、その奥には九百年近く閉ざされてきたという門がある。
それが今、大きく壊れている。
透にはまだ、そのことがこの里にとって何を意味するのか分かっていなかった。
◇
館の中へ入ると、そこは大きな吹き抜けの広間になっていた。
正面には二階へと続く幅の広い階段。
そして、その階段の中央に飾られている巨大な絵画が、透の目を引いた。
「……これは」
銀色の鱗を持つ巨大な竜。
シルバードラゴンと思われるその背には、一人の青年が跨っていた。
黒髪に黒い瞳。
人族の青年だろうか。
片手には長い槍を握り、何かを叫びながら前方を指し示している。
絵の中の竜もまた、大きく翼を広げて空を駆けていた。
透は思わず足を止めた。
妙に気になる絵だった。
どこか、懐かしいような。
そんなはずはないのに。
「透様、こちらです」
「あ、ああ」
ルカに呼ばれ、透は絵画を横目に見ながらその場を離れた。
案内されたのは、広間の奥にある瀟洒な応接室だった。
派手すぎる装飾はないが、木を基調とした落ち着いた造りで、窓からは庭の緑が見える。
透は勧められた椅子に腰を下ろした。
ラピスは透の腕の中でおとなしく丸まり、モモも珍しく静かに透の肩へちょこんと座っている。
ほどなくして、奥の扉が開いた。
「あら――」
入ってきた女性は、そこで言葉を止めた。
「ルカ……」
「ただいま、お母様」
次の瞬間。
女性はまっすぐルカへ歩み寄り、その身体を抱きしめた。
「お、お母様?」
ルカが戸惑った声を上げる。
女性は何も言わなかった。
ただ、娘を抱く腕に力を込める。
「……心配しましたよ」
ようやく聞こえた声は穏やかだった。
しかし、少し震えていた。
「ごめんなさい」
ルカが小さく答える。
女性はしばらくして身体を離すと、娘の顔や腕を確かめるように見た。
「怪我はありませんね?」
「うん」
「本当に?」
「大丈夫」
「そうですか」
女性の表情が、ようやく少し緩んだ。
「ミュゼリア」
トルクスが声をかける。
「ルカは東の門から出たそうだ」
女性の顔から笑みが消えた。
「……門から?」
「門そのものではない。門の横が大きく崩れているらしい」
「どれほどです?」
「ルカが竜の姿のまま飛んで通れるほどだ」
「……そんなに」
ミュゼリアは息を呑んだ。
「前に確認した時には、そのような崩れはありませんでした」
「ああ」
「では、最近になって……」
「そういうことになる」
二人の表情が険しくなる。
透には、やはりただ事ではないように思えた。
やがてミュゼリアの視線が透へ向いた。
「あなたが、外からいらした方ですね」
「あ、はい」
女性は穏やかに頭を下げた。
「初めまして。ルカの母、ミュゼリア・ファフニールです」
「神代透です。よろしくお願いします」
透も慌てて頭を下げた。
ルカが横から胸を張る。
「私の騎士様です!」
「そうですか」
「旦那様です!」
「そうですか」
「……いや、あの」
透が口を挟もうとしたところで、トルクスがミュゼリアを見る。
「母さんは知っていたのか?」
「何をです?」
「ルカが騎士様を探しに行きたいと言っていたことだ」
「ええ」
「知っていたのか!」
「聞いてはいました」
「なぜ止めなかった!」
「本当に行くと思ってませんでしたので」
「……」
トルクスは頭を抱えた。
ルカが小さく笑う。
「おばあしゃまも知ってたよ」
「母さんまで……」
ミュゼリアが苦笑した。
「それより、あなた」
「ん?」
「まずはお客様に、きちんとご挨拶をなさってください」
「……おっと、そうだった」
トルクスは姿勢を正した。
「改めまして。トルクス・ファフニールです。この里の長を務めています」
「神代透です」
差し出された手を、透は握り返した。
その時、ふと思った。
トルクスの穏やかな話し方。
そして、横で夫を静かに見守るミュゼリア。
――父さんと母さんに、雰囲気が似てるんだ。
もちろん容姿はまったく違う。
けれど、トルクスの人の話をきちんと聞こうとする穏やかさと、ミュゼリアの柔らかさの中にある芯の強さ。
どこか隆志と美琴を思わせた。
そのせいだろうか。
初めて訪れた場所だというのに、不思議と居心地の悪さを感じなかった。
「ところで」
ミュゼリアの視線が、透の腕の中へ向いた。
「その子……ずいぶん尋常ではない魔力を感じますけれど」
「あ、この子ですか」
透はラピスを少し持ち上げた。
「フェンリルの子です。縁があって、母親から託されました。ラピスといいます」
「みゃん」
紹介されたことが分かったのか、ラピスが小さく鳴いた。
「あらあら」
ミュゼリアの顔が一気にほころぶ。
「可愛い子ですね」
透が差し出すと、ミュゼリアは嬉しそうにラピスを抱き上げた。
「みゃん?」
「まあ、本当に可愛い」
どうやら気に入られたらしい。
すると透の肩の上にいたモモが、自分も忘れてもらっては困るとばかりに立ち上がった。
「モモはモモだよー!」
「ええ。あなたはピクシーですね」
ミュゼリアが笑う。
「この里にも、西の森にピクシーたちの村がありますよ」
「ほんとー?」
モモの顔がぱっと輝いた。
「あとで行ってみるー!」
「ふふ。歓迎してくれると思いますよ」
一通り挨拶が済んだところで、トルクスがルカを見る。
「ルカ。お義母さんを呼んできてください」
「はい!」
ルカは元気よく立ち上がった。
「おばあしゃまを呼んできます!」
そう言い残して、部屋から飛び出していった。
透はその後ろ姿を見送りながら、なんとなく思った。
父親は穏やかで、母親もしっかり者。
そしてこれから会うという、おばあしゃま。
――なんだか嫌な予感がする。
なぜか、じいちゃんの顔が浮かんだ。
◇
しばらくして、廊下から足音が聞こえてきた。
「連れてきたよー!」
先に扉を開けて入ってきたのはルカだった。
その後ろから、一人の女性が姿を現す。
透は思わず目を瞬いた。
――おばあしゃま?
聞き間違えたのかと思った。
ルカの祖母だというから、もっと年老いた人物を想像していたのだ。
ところが、入ってきた女性はどう見ても若い。
ミュゼリアと並んでも、それほど年齢が違うようには見えなかった。
長い銀髪を後ろでまとめ、すらりとした身体つき。
穏やかな表情をしているが、その眼差しには妙な力がある。
エリーゼは部屋へ入るなり、ルカを見た。
「東の門を抜けたそうだね」
「……はい」
「しかも竜の姿のまま」
「はい」
「まったく、誰に似たんだか」
トルクスが何か言いたそうな顔をした。
ミュゼリアもそっと視線を逸らす。
「おばあしゃま、怒ってる?」
「怒ってるよ」
「えー」
「当たり前だろう」
エリーゼはそう言いながらも、ルカの頭をぽんと叩いた。
「まあ、無事に帰ってきた。それだけは良しとしよう」
「えへへ」
「褒めてはいないよ」
「はーい」
そして、エリーゼの表情が変わった。
「それで」
声が少し低くなる。
「門の向こうは、どうだった」
「普通だったよ」
「普通?」
「うん。川も流れてたし、森もあったし、魔獣もいた」
「魔鋼虫は?」
「いなかったよ」
エリーゼは黙った。
トルクスとミュゼリアが緊張した面持ちで彼女を見る。
だがエリーゼだけは、驚いた様子を見せなかった。
「……そうかい」
ただ一言。
その声には、どこか遠い昔を思い出すような響きがあった。
やがて彼女は小さく息を吐いた。
「九百年か」
透はその言葉に引っかかった。
「九百年?」
エリーゼは答えなかった。
代わりに、まっすぐ透を見る。
「おまえさんが、ルカの騎士様かい?」
「そうだよ!」
ルカが元気よく答える。
エリーゼはちらりと孫娘を見る。
「ルカには聞いてないよ」
「えー」
そして再び透へ視線を戻す。
「どうなんだい?」
「……えっと」
透は返事に困った。
騎士様と言われても、自分から名乗った覚えはない。
ましてや旦那様となると、なおさらだ。
そんな透の様子を見て、エリーゼは小さく笑った。
「まあ、そんなところだろうと思ったよ」
「おばあしゃま!」
「この子は昔から、思い込んだら一直線だからねぇ」
「ちゃんと見つけたもん!」
「はいはい」
孫を軽くあしらう様子に、透はなんとなく宗玄を思い出した。
ただし、こちらはじいちゃんより少しだけ話が通じそうな気がする。
「でもまあ」
エリーゼは透を見る。
「九百年近く閉ざしてきた里へ、外から客人がやって来た」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。
「今日は、ずいぶんと大きな日になったようだね」
透は姿勢を正した。
「神代透です。突然お邪魔して、すみません」
「そんなに緊張しなくていいよ」
エリーゼが笑った。
「皆、座りな」
そしてルカを見る。
「ルカ。飲み物でも持ってきておくれ」
「はーい」
「私も手伝いますね」
ミュゼリアも立ち上がる。
二人が部屋を出ていった。
扉が閉まる。
途端に、部屋が静かになった。
トルクスは何も言わず、穏やかな表情のまま椅子に座っている。
エリーゼだけが、じっと透を見ていた。
透はなんとなく居心地が悪くなり、姿勢を正す。
「透さん」
「はい」
「あんたからは、人とは違う匂いがするね」
「……匂い、ですか?」
「この世界の人間とは違う」
透は少し驚いた。
何も話していない。
それなのに、この女性は何かを感じ取っている。
誤魔化しても仕方がないと思った。
「はい。俺は、この世界の人間じゃありません」
エリーゼの表情は変わらない。
「異世界から、このパンゲアへ飛ばされてきました」
「そうかい」
驚くでもなく、ただ静かに頷く。
「それと――強いね」
「え?」
エリーゼの視線が、透の腰へ向いた。
「その剣も、相当なものだ」
透は無意識に天羽々斬へ手を添えた。
この人は何者なのだろう。
トルクスは口を挟まない。
ただ、二人の会話を静かに聞いていた。
透は考えた。
何から話せばいい。
自分たちがどこから来たのか。
なぜパンゲアにいるのか。
そして――魔鋼虫のこと。
「……俺たちは今、魔鋼虫と戦っています」
その瞬間。
エリーゼの目から、柔らかな色が消えた。
「……何だって?」
「魔鋼虫が、また動き始めています」
トルクスも息を呑んだ。
透は続ける。
「この世界で昔何があったのか、俺はまだ全部知っているわけじゃありません。でも今、魔鋼虫が活動を始めています。俺たちも何度か戦いました」
「どこだい?」
エリーゼが聞く。
「アストレア王国、エルフの里、北方都市、そしてラザールという砂漠の都市です」
その名を聞いた瞬間。
エリーゼの身体がわずかに固まった。
「……そんなにかい」
小さな声だった。
透は気づいたが、それ以上は何も聞かなかった。
「このまま放っておけば、多くの人が危険にさらされます。だから俺たちは戦っています」
透は一度言葉を切った。
「ルカが俺と一緒に来るなら……ルカも、その戦いに巻き込むことになります」
膝の上で拳を握る。
「俺は、そのことを軽く考えるつもりはありません」
エリーゼは何も言わなかった。
ただ、透の顔をじっと見ている。
やがて扉が開いた。
「お待たせしました」
ミュゼリアとルカが、飲み物と軽食を載せた盆を持って戻ってきた。
「お腹すいたー」
「あなたが食べるために持ってきたのではありませんよ」
「えー」
ミュゼリアが苦笑する。
テーブルに飲み物と軽食が並べられ、二人も席についた。
皆が揃ったのを確認すると、エリーゼはゆっくりと背もたれへ身体を預けた。
「さて」
その声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「東の隧道の門が崩れ、外へ道が通った」
透は黙って聞いている。
「あの道を閉ざしてから、もう九百年近くになる」
エリーゼの視線が、どこか遠い場所へ向いた。
「そして今、魔鋼虫が再び現れた」
一度、目を閉じる。
「どうやら――昔の話をしておいた方がよさそうだね」
透は顔を上げた。
エリーゼは静かに続けた。
「そもそも、あの隧道は昔、この里と外の世界を結ぶ道だった」
トルクスもミュゼリアも黙って聞いている。
「人が行き来し、品物が行き交い、わしらも外へ出ていた」
そしてエリーゼは、吹き抜けの広間に飾られている巨大な絵画の方角へ、ゆっくりと視線を向けた。
「けれど、ある日――わしらはあの門を閉じた」
その瞳に、九百年前の光景が蘇る。
「では、少しばかり――わしの昔語りを聞かせようかの」




