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11.Mignardises エスプレッソに角砂糖をお好きなだけ 紅白のメレンゲクッキーを一つずつ

 まぶしい。


 目をうっすらと開けると、真っ白な天井があった。鼻をつく薬品の匂い。


 ピッ、ピッ、という規則的な電子音が耳に届く。


(ここは病院か?)


 もしかして、俺は赤ちゃんに生まれ変わったのだろうか?


 意識が『三十八歳の独身シェフ・柊哲郎』のままなのに。


 今度は女かな? 男かな?


 中身が男だから、男の方が何かといいんだが……セリーヌとして過ごした三ヶ月間で、女性も悪くないとは思い始めていた。


「……え? 嘘?」


 不意に、女性の声がした。三十代前後だろうか。若い女性の声だ。


(母親かな? ここは一つ、赤ん坊らしく泣いておいた方がいいんだろうか。よーし……)


「おぎゃ――」


 声にしようとした途端、喉がひゅっと詰まった。


「ごほっ、ごほっ!」


 口の奥に何かが突っ込まれている。うまく声が出ない。


 これは……人工呼吸器の管か?


「ちょ、ちょっと待って柊さん! 看護師さん呼んで来ますから!」


 女性がバタバタと慌てた足音を立てて、病室の外へ駆け出していく。


(おーい、産後直後のお母さんがそんなに走って大丈夫かー?)


 ……ん? 『柊さん』?







 今度はドタドタと複数の足音が病室に雪崩れ込んできた。


「柊さん! わかりますか!?」


 白衣を着た医師と、数人の看護師。そして先ほどの女性は、よく見ると見覚えのある顔だった。俺が勤めていたホテルのレストランで、ホール担当の橘桂花(たちばなけいか)さんだ。


(なんだ……? 俺、生きてるのか?)


 医師の素早い手つきによって、口の管が慎重に抜かれる。ひどく喉が渇いているような気がして、ヒューヒューと掠れた息が漏れた。


「柊さん、ここは病院です。あなたは職場の厨房で倒れて……まる三ヶ月、意識が戻らなかったんですよ」


「さんか……げつ」


 掠れた声だが聴き覚えがある。声変わりしてからもう二十年以上付き合って来た声だ。


 俺はゆっくりと、自分の顔の前に両手をかざした。腕に繋がった透明な管が指先の震えに合わせてわずかに揺れた。


 甲には血管が浮いていて、油跳ねの火傷がシミのように消えずに残っている。手のひらはフライパンと包丁で硬くなったタコ。


 どこからどう見ても、あの脂の乗ったマナガツオのような白く美しい令嬢の手ではなかった。


「きょうは……なんにち、ですか?」


「今日は三月二十三日ですよ」


 医師の隣の看護師さんが答えてくれた。

 三月二十三日。俺が、セリーヌの体から出た日と一緒……魂が、本来の自分の体に戻ったのか?


 橘さんが、ポロポロと大粒の涙をこぼしている。


「よかった……本当によかった。柊さんが急に厨房で倒れたって聞いて、心臓が動いてないって聞いて……私、生きた心地がしなかったんですよっ! もう目覚めないんじゃないかって! そうなったら私……!!」


 橘さんの泣き声が、病室内に静かに響いた。


「しんぱい、かけて……わる、かった」


 たどたどしく謝る俺の不器用な声に、病室の空気がふっと温かい安堵に包まれた。







 数日後。

 個室から大部屋へと移った俺は、ベッドの上で窓の外を見た。桜は開花したばかりで、まだちらほらと咲く花だけが目を楽しませてくれていた。


 あの日(十二月二十三日)、どうやら俺は厨房で倒れた時、すでに心肺停止していたらしい。

 仲間の懸命な救命処置のおかげで、なんとか一命を取り留めた。ありがとう戦友。そしてAED。

 だがその後、容体も安定したのに、俺は一向に目覚めなかったのだ。


(魂が異世界に行ってたからかな……?)


 橘さんが、今日もお見舞いに来てくれていた。確か二十八歳と言っていたっけ。俺とは十も歳の離れた女性だ。


 職場で他愛もない話をしていただけの彼女なのに、頻繁に様子を見に来てくれる。俺はただの同僚なのに、優しい子なんだな。


 その橘さんが、肩にかかる黒髪を揺らして俺にスマホを見せてきた。


「柊さん、悪役令嬢ものが好きって言ってましたよね?」


「ああ、うん。好きというより、読みはするくらいだけど」


「私も読み始めたんですよ! 今読んでるのはこれです!」


「なになに? 『婚約破棄された辺境伯令嬢が……』」


 辺境伯令嬢、という文字まで読んで、心がドキリとする。


「こ、これはどんな話なの?」


「王子がヒロインをいじめてた悪役令嬢を断罪するんですけど、実は誤解で、ヒロインを虐めてたりしてなくて、しかもヒロインは悪役令嬢のことを好きだったんです!」


「そ、それで……?」


 俺は鼓動を早めながらも、スマホに表示された漫画のページを指で送って流し読む。設定も名前も全然違う……でも。


「結局、王子と無理やり結ばれることになったヒロインの子は絶望して死を選んじゃうんです。悪役令嬢は、父親の辺境伯と共に王家打倒を目指すんですけど、この国、割と上層部が強固で……結局悪役令嬢は負けちゃって、反逆者として処刑されちゃうんです」


「…………」


「王子を呪いながら死んだ悪役令嬢は、また同じ王国の貴族の令嬢に生まれ変わったんですけど、今度は本当に『悪役令嬢』になってこの国を滅ぼしてやるっていうお話でした……って、あ! ごめんなさい、思いっきりネタバレしちゃった!」


「いや、大丈夫だよ。……ありがとう」


 目覚めてからずっと、あの日々を忘れたことはない。ソフィー、マルグリット、アルフォンス……。セリーヌの身体で過ごした、あの異世界での日々。


 あれは、昏睡状態の俺が見た、ただの夢だったのだろうかと、思ったこともあった。だけど違う。魂に記憶が刻まれてる。あれは絶対に夢なんかじゃない。その証拠に、俺の中にセリーヌの記憶が生きている。向こうの文字も書けるし、ダンスだって踊れるだろう。


 もしかすると、あの世界でも……俺が割り込まなければ、この漫画のような鬱展開(バッドエンド)がありえたのかもしれない。


「悪役令嬢か……でもセリーヌ、お前全然『悪役』なんかじゃなかったよな」


 面白がって料理勝負の時に『悪役令嬢プレイ』をしてしまった自分の能天気さを、今更ながら少し恥じる。セリーヌは第三王子にとっての悪役でしかなかったのだ。


「え、柊さん、今何か言いました?」


「いや、何も……」


 言いかけたところで、病室に主治医が入ってきた。


「柊さん、経過は順調ですよ。後遺症も幸い無さそうです。もうすぐ退院できますよ。ただ、これまでの過労が祟ったのも事実です。退院後、しばらく安静にされることをお勧めします」


「……ええ。わかっています」


 主治医の先生が立ち去ったあと、橘さんが心配そうな顔を俺に向けていた。


「柊さん……」


「橘さん。俺、ホテルやめるよ」


「え……!? まさか料理もやめちゃうんですか?」


「俺、夢があるんだ」


「夢、ですか」


「四十歳になったら、小さなフレンチレストランを開くんだ。白いクロスのかかったテーブルが四つ、厨房から煮詰まるソースの匂いが漂う中、常連と他愛もない話をする。……そんな夢。ちょっと予定より早いけど、いい機会だと思う」


 伯爵邸で平目のポワレをみんなで食べた時のこと。王都の辺境伯邸での鹿肉のロティの試食会。あの世界の記憶が、俺の背中を押している。


「……あ、あの! そのお店で、私を雇ってくれませんか!?」


「えっ!?」


「え、あ、あの……! 私、好きなんです! あ、ちが、いえ、その、柊さんの料理が……その」


「それは助かる。マダムがいないと思っていたんだよ」


 別に『マダム(シェフの妻)』じゃなくてもホールの子がいればいいしな。橘さんはその点、とても優秀なホール担当だ!


「えっ……あの、マダムって……」


 ん? 橘さん、顔が真っ赤だぞ?


(まるで熟れたトマトみたいだな!)


 ……ハッ、いかん。この比喩はソフィーにも使ったことがあるな……俺としたことが。じゃあ別の食材……茹でたてのタコ? いや、それじゃ色気がないか。あれ? 色気って必要だっけ?


 俺が腕を組んで真剣に首を傾げている横で、橘さんの顔からは、シュンシュンと激しい湯気が出始めていた。

















「セリーヌ様っ! また釣れました!」


 ソフィー様が、大きな銀色の魚を釣り上げた。船の上でぴちぴちと力強く踊る。これは……スズキだったかしら。


「……ダイス爺、私の釣竿、おかしいのではなくて? さっきから一匹も釣れないのだけど」


「それはお嬢さんの腕の問題でさぁ」


 そう言ってダイス爺はしわくちゃの顔の表情一つ変えずに船を漕ぐ。


 陸の方を見ると、マルグリットとアルフォンスがこちらを眺めている。手を振ると、あちらも嬉しそうに手を振り返してきた。


「セリーヌ様! 今夜はこれを料理してください!」


「いいですわよ。香草と種油をたっぷりかけて、野菜と一緒にオーブンで焼きましょうか。ミュジニにいい野菜を見繕っていただきましょう」


「はいっ!」


 山の方へ目をやる。


 あそこには今、温泉保養地(リゾート)の最初の施設として、料理宿の完成を目指して工事が進められている。学園の夏休みを利用して様子を見にきたが、順調そのものだ。


 あの料理対決の後、他の貴族たちからも莫大な投資の申し出があり、このヴァロワ領はにわかに信じられないほどの活気を見せていた。


「セリーヌ様、もう少しですね」


「ええ。もう少しで完成ですわ」


 私はソフィー様の手を優しく握る。彼女は嬉しそうに頬を染めながらも、力強く握り返してくれた。そして、日差しを避けるように帽子を目深に被り直す。


「セリーヌ様、温泉宿のお名前は決められたのですか?」


「そうですわね……」

















「ところで柊さん」


「ん?」


 俺と橘さんは退院後、郊外に借りた海の見える小さな古民家を店舗にするべく、内装工事の真っ只中だった。できることは自分でDIYして費用を浮かさないと、橘さんに給料を出せなくなっちゃうからな。


 夏の日差しが強くて汗が出る。秋が深まるまでには店をオープンさせたい。


「お店の名前、決まってるんですか?」


「ああ、そうだな……」
















「オーベルジュ……」

「ビストロ……」
















「『テツロウ』ですわ!」

「『セリーヌ』だ!」















Le menu est à présent terminé.

(以上でコースは終了です)

Nous serons ravis de vous accueillir à nouveau.

(またのご来店をお待ち申し上げております。)

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