10-3.Dessert クレームブリュレに冷たいバニラアイスをひとすくい
ここは……。
俺は十六歳の最後の夜を過ごした後、部屋で眠りについたはずだ。
辺りは真っ暗だ。何もない。何も見えない。
いや。一人だけ、俺の目の前に立っている。
昼間にも会った、光に透かせた赤ワインのような、紅い髪の美しい少女だった。
この世界に来てから、鏡で毎日見ていた顔だ。
「……もう、いいのかしら?」
「ああ。さっきはすまなかったな。急に無理を言って」
「いいえ。私も突然、意識が体に戻りかけたものですから。貴方にはご迷惑をおかけしましたわ」
「いや……確かに突然だったが、元々ここは俺の体じゃない。それに、お前は待ってくれた。俺のわがままを聞いて。……ありがとな」
「『今はお菓子作りの最中だから、もうちょっと待ってくれ』といきなり言われた時は、流石にびっくりしましたけれど」
「ははは」
「それに、お礼を言うのは私の方です。私が心の光を失った時、貴方の魂が支えてくれました。……ありがとう、哲郎」
俺の目の前にいるのは、この身体の本当の持ち主である、セリーヌだった。
「もう大丈夫なのか? その、心の方は」
「ええ、すっかり。……貴方のおかげですわ」
「そりゃよかった」
「私はずっと、見ていました。貴方の真っ直ぐな想いが、少しずつこの世界を変えていく様を。それから、貴方の作る料理が、凍りついていた私の心を温めてくれました。……特に、あの日のポタージュは、本当に美味しかったです」
ソフィーの疲れ切った心と体のために作った、温かいポタージュ。あれは、心の奥で扉を閉ざしていたもう一人の少女にも、ちゃんと届いていたのだ。
その事実に、俺の口角は思わずホッと上がる。
「それにしても……ずいぶんと派手にやりましたわね?」
「その……すまん。つい、料理のこととなると我を失うみたいだ」
「失いすぎです。確か『私らしく優雅に振る舞う』と殊勝なことを考えていたのに、ほとんどできていなかったではないですか!」
「仕方ないだろ! そういう性分なんだ! 恨むんなら、こんな運命の悪戯をした神様を恨んでくれ!」
「もう、とっくに恨んでいます!! それに私の大切なマルグリットが伯爵領で倒れた時もこき使おうとしてましたわよね!?」
「大人が手伝うって言ったんだから大丈夫だと思ったんだよ! 厨房は戦場なんだ!」
「そんなことだから貴方も倒れるのです!」
「う、うるさい!」
俺とセリーヌが、今にも火がつきそうな距離で睨み合う。
「ぷっ……ははははははっ!」
「ふふっ……ふふふっ」
暗闇の中で、俺たちの笑い声が心地よく重なる。
「……貴方のルイ=オーギュスト殿下への喝破。私も胸がスッキリしました。私では、決して出来ないことでしたから」
「ああ、そうだ。奴からの手紙は読んでないぜ。……あれはお前が、お前自身の目で読むべきものだと思ったからな」
「……ええ。ありがとうございます」
「俺がこんなこと言うのもなんだが……この後を頼むよ」
「わかりました」
「あー、その……料理。お前が目覚めたら、急に出来なくなったりするのかな?」
「貴方に私の記憶と貴族としての教養が流れて混ざったように、私にも、貴方の三十八年分の記憶と料理の経験が流れてきています。……多分、大丈夫だと思いますわ」
「そっか。そりゃよかった。俺の経験と現代知識がお前の役に立つなら、何よりだ。伯爵領の温泉保養地のことも、あの料理長のことも、そのあといろいろ……頼むな」
「わかっています」
「いや……料理というのは、ただの知識だけじゃなくて、それを状況に合わせて『どう活かすか』という機転が大事だからな」
「努力します。……私も、自分の料理で人を笑顔にしてみたいですから」
「じゃあ、大丈夫だ」
「……貴方は、本当に優しい人ですね」
「まぁな」
「そこは、謙遜するところですよ?」
「次の生があれば善処するよ」
「哲郎……貴方のような人が、私の婚約者だったのなら……」
少しだけしんみりした空気を振り払うように、俺はおどけて言った。
「なぁ、一度でいいから踊ってみたいんだけど、付き合ってくれないか?」
「唐突ですわね」
「貴族といえば舞踏だろ? よく考えたら、一度も踊る機会がなかったと思ってな。お前が俺の記憶と経験で料理できるようになったなら、俺もお前の記憶と経験で完璧に踊れるはずだ」
「まぁ、理屈の上ではそうでしょうね」
俺はその場で少しステップを踏んでみる。
「おぉ。男性側のダンスステップまで習得してるなんて、さすが有能な悪役令嬢だな。……それでは、お嬢様。私めと一曲、踊っていただけますか?」
「ええ……喜んで」
セリーヌは、淀みのない仕草でそっと手を差し出した。
俺は、マナガツオのように白く滑らかで美しいその手を、そっと取った。
暗い空間で、俺とセリーヌがくるくると回る。
「……ソフィーのこと、頼む」
ワルツのステップを踏みながら、俺はセリーヌの瞳を見た。深い金の瞳が、俺の瞳を吸い込むように見つめ返して離さない。
「ええ……もちろんです。私もソフィー様が大好きになりましたから。でも、私からの愛情のほうが、貴方の気持ちよりはよっぽど真に迫っていると思いますよ?」
「俺の気持ちが嘘だって言うのか?」
「いいえ……。ただ貴方、ソフィー様がご飯を食べているところを見るたびに、昔飼っていた『ハムスター』のことを思い出していたでしょう? 淑女に対して、あまりにも失礼ではなくて?」
「ソ、ソフィーが両頬を膨らませて幸せそうに食べるところが、そっくりでな……!」
そう。あの断罪パーティーでソフィーを初めて見た時。俺が高校生の頃に、ホームセンターのペットコーナーで見たあの子と、同じ衝撃を受けたのだ。
あの子の時は、すぐに小遣いを叩いてうちに連れ帰った。あの子がひまわりの種を食べる姿を見るだけで幸せになって……それで『誰かに美味しいものを食べさせる喜び』を知り、俺は料理人を志すことにしたのだ。
だから。ホテルのレストラン勤めの忙しさに忙殺され、いつしか『何のために作っているか』すらわからなくなっていた俺に、その大切な原点を思い出させてくれたのは……他でもない、ソフィーなのだ。
「それに、俺は三十八歳のおっさんだぞ! 十六歳の純真な子にガチで恋したら、完全な事案だからな!」
「でも、満更でもなかったのでしょう?」
「ぐっ……可愛くて、いい匂いがするんだから仕方ないだろっ」
「開き直りましたね。立派な事案です」
◇
俺とセリーヌが踊り終えたころ。
真っ暗だった空間に、二つの眩しい明かりが見えた。
それぞれの、行き先だ。
俺の行き先は、あの世だろうか? それとも、また別の未来だろうか。
「それじゃ、元気でな、セリーヌ」
「ええ。哲郎も……どうかお元気で」
お互いが光のほうへ歩き出したとき、俺はふと振り返り、最後にありったけの声で叫んだ。
「セリーヌ! 十七歳の誕生日、おめでとう!!」
その声に、セリーヌがこちらを向く。
彼女はドレスの裾をふわりと摘まみ、この世でいちばん優雅なお辞儀を見せた。
その顔は、涙に濡れながらも、とびきりの笑顔に満ちていた。
――そして、俺を温かい光が包み込んだ。
願わくば、また生まれ変わっても、俺の作った料理で、誰かを笑顔にできますように。




