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8-7.Viande ◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️ ◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️

 執事であるアルフォンスが、血相を変えて屋敷を飛び出してから、すでに二時間というあまりにも長い時間が経過していた。


 俺も一緒にパルマンティエ商会へ乗り込もうかとしたのだが、もし入れ違いで本番用の食材が届いた場合、その品質の最終確認ができるのは俺しかいない。そのため、逸る気持ちを必死に抑え、屋敷でひたすら待機していたのだ。


 バンッと、屋敷の玄関の扉が荒々しく開く音がした。


「アルフォンス! どうでしたか!?」


 駆け寄った俺の問いに、息を切らしたアルフォンスは、ただ俯き、首を横に振った。


「『契約違反』のため、あの鹿肉をはじめとする食材は一切売れない――。支配人から、そう告げられました」


「契約違反!? 一体何の!? 代金の支払いなら問題ないはずでしょう!?」


「パルマンティエ商会は、表立って公言はしていないものの、第三王子の『御用商人』であったようです。……ゆえに、『第三王子殿下との料理勝負において、敵方である辺境伯家に協力することは、殿下との結びつきを重んじる商会の信用を著しく傷つけ、多大なる不利益につながる』……と」


 俺は息を呑んだ。


(――『商会に著しい不利益をもたらす行為の禁止』……!)


 先日、俺が浮かれた気持ちでサインした、あの一般的な契約書の条項。


「そんな……。確かに、商会には勝負の詳細を言っていなかったわね……。あちらも、私が勝負に使うとは知らずに……」


 ――いや……待てよ。


 俺の脳裏に、数日前の商会でのやり取りがフラッシュバックする。


 ポムドテール男爵からの紹介状を受け取った支配人は、宛名を確認しただけで、『中身を開けずに』懐にしまった。


 そして俺が「後日いただきたい」と言っただけで、俺から指定するよりも先に『前日の朝にお届けいたします』と、まるで最初から勝負の日程を知っているかのような口ぶりだった……!

 あの紹介状には勝負のことは書かれていなかったから、俺が気付かないところで紹介状を読んでいたとしても、日程がわかるはずもない。


「……まさか!」


 スゥッと血の気が引く音が聞こえた気がした。


「パルマンティエ商会と第三王子は最初からグル……!? わざと私に高品質の食材を選ばせ、いざ本番の直前になって食材を手に入れられないようにした!?」


「はい……。おそらく、その通りかと思われます」


 アルフォンスから、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。


「では、人の良さそうな顔で近づいてきたポムドテール男爵も、第三王子の意を受けてあの商会の紹介状を……? 勝負の話を聞いたのが第二王子というのは嘘だった?」


「我らに会う前に第二王子に会ったのは本当かもしれません……。先ほど、男爵邸にも人を遣りましたが……昨日から屋敷に帰らぬそうで、使用人たちもひどく困惑しているようでした」


 あの第三王子が男爵の身柄を意図的に隠したのか、あるいは男爵自身が逃げたのか。いずれにせよ、完全に盤外戦術に嵌められたのだ。


「申し訳ございません……ッ!」


 ドンッ! と。

 アルフォンスが、膝から崩れ落ちるようにして、床に頭がつくほど深く頭を下げた。


「男爵の背後関係や、商会の情報を事前に精査できておりませんでした……! この致命的な失態、どうお詫びして良いか……!」


「頭を上げなさい、アルフォンス」


 俺は、震える声で謝罪する忠実な執事の肩を、強く掴んだ。


「……責任は、私にあります」


「セリーヌ様……!?」


「一つの仕入れ先に完全に依存し、万が一のための代替品(かえ)を用意していなかったのは、厨房を預かる者として絶対にあってはならない落ち度です」


 俺は自分自身への怒りを噛み殺し、大きく息を吐き出した。


 料理の世界で、トラブルは日常茶飯事だ。業者のミス、天候不良、食材の傷み。どんな理由があろうと、客を待たせる言い訳にはならない。常に別のプランを用意しておくのが、プロの鉄則だったはずだ。平和ボケしていたのは、俺の方だ。


「ですが――」


「こうなった以上、悔やんでいる時間すら惜しいですわ」


 俺はアルフォンスの言葉を遮り、バッと顔を上げた。この状況を何とかしなければ——


 ソフィーの実家、ヴァロワ伯爵領の食材のことも頭をよぎった。しかし、伯爵領までは王都から馬車で二日、往復で四日かかる。早馬でも明日の朝までに間に合うかどうか。ましてや、大量の食材を抱えて戻ってくるなど不可能だ。


「今すぐ、この王都中の商会や市場を直接当たって、代わりの食材を手に入れましょう。仕込みに時間のかかる食材は、もう無理ね……。メイン食材は、鴨か、牛に切り替えます!」




 ◇




 静まり返った厨房に、冷たい月明かりが差し込む。

 その光だけが、俺の艶やかな赤い髪を照らしていた。


 俺は薄暗い中、何時間も駆け回って買い集めた食材を、ただじっと眺めていた。


 俺自身もいくつもの商会を回ったが、どこも直前すぎて、高品質なものは用意できないと首を横に振られた。


 使用人たちにも市場でとにかく良さそうなものを手分けして買ってこさせた。


 牛、鴨、豚、羊。


 決して悪いものではない。市井に出回るものとしては十分な品質だ。


 だが……。


「……これでは、勝てない」


 それは確信だった。相手はパルマンティエ商会で見た、あの完璧な品質の特級食材を惜しげもなく出してくるのだ。


 勝てない。

 勝てないと、ソフィーは……あの馬鹿王子の側に……俺のせいで。

 ヴァロワ伯爵と約束したのに。ソフィーの笑顔を絶対に守るって。なのに……!


 ぽた、ぽた、と。

 作業台が濡れる。

 俺の視界は滲んで、月の明かりを乱反射していた。


 目をぎゅっと瞑る。それでも、溢れる涙が瞼をこじ開けて零れ落ちた。


 何が現代の料理法(チート)だ!

 何がプロの意地だ!

 俺は、一番大事な『基本』を忘れていたんだ!


 これは慢心した俺への、料理の神様からの罰なのか?


 罰ならば、俺だけで十分だろう!

 ソフィーや、この身体の持ち主であるセリーヌの未来を巻き込まないでくれ!


 俺は……俺は、どうすればいいんだ……!


 冷たい石造りの厨房で、俺の情けない嗚咽が、いつまでも止まらなかった。




 ◇




 ――コケコッコー!!


 ……朝か?


 まだ空はうす暗い。

 重い目を開けて周りを見渡すと、そこは自分の寝室だった。


 上半身を起こすと、服が寝巻きに変わっていることに気づく。


 厨房で泣き疲れてそのまま気を失ってしまったのか、記憶がない。


(……マルグリットたちが、運んで着替えさせてくれたのかな……)


 俺は力なく、もう一度ベッドに倒れ込んだ。


 起きるのが怖い。

 このまま寝ていたい。

 負けるのが確定している厨房に、行きたくない。


 どうしようもない現実逃避が俺を侵食していく。あの鳴き声で起きなければ、まだ夢の世界へ逃げていられたのに。


 ……ん?


 鳴き声?

 コケコッコー?


 王都の、この高級住宅街である辺境伯邸の付近に、鶏なんていたっけか?


 外からドタドタドタッ! と慌ただしい足音が響き、ノックと同時に扉がバンッと開け放たれた。


「お嬢様!! 寝ている場合ではございません! 早く、早くいらしてください!」


 俺は状況も飲み込めないまま、寝巻き姿でマルグリットに手を引かれ、廊下を進み、階段を駆け降りた。


 そして、屋敷の玄関。

 大きく開け放たれた重厚な扉の向こうに、朝靄の中、俺の『見知った顔』があった――。

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